倚松庵 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

かなり前のことですが、1月末に倚松庵(いしょうあん)に行きました。

 今は休館中で、来年の2月からリニューアルオープンする予定です。

 谷崎潤一郎(1886-1965)は、生涯で40回引っ越し、1932~1941年頃住んだ家に「倚松庵」と名付けました。「松に寄りかかる家」という意味です。この期間だけでも6か所あるそうで、その一つである魚崎の家は1936年11月から7年間住み、長編『細雪』の舞台になった所です。

 

 以下、谷崎潤一郎についてウィキペディアからの引用。

  東京帝国大学在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、戯曲『誕生』や小説『刺青』(1909年)を発表。永井荷風に認められ、新進作家としての地歩を固めました。以後『少年』、『秘密』などを発表し、自然主義文学全盛時代に物語の筋を重視した反自然主義的な作風を貫きました。

 関東大震災後に拠点を関西に移し、長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼びました。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』など、大正モダニズムと中世的な日本の伝統美を描いた作品を発表しました。

 私生活は波乱万丈で、3回結婚したそうです。『細雪』は、松子夫人とその妹たち四姉妹の生活を題材にした作品で、二女「幸子」のモデルが松子夫人だといわれています。戦時中、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表しました。

 晩年は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『鍵』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。1964年全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員なりました。

 

玄関で靴を脱ぎました。土・日のみ公開で、この日は先客が1人いました。

 

その人が応接室でここの所有者と雑談をしていたので、先に2階を見ました。

 

二女「幸子」の部屋。実際は奥さん「松子」の部屋でした。

 

 この部屋は様々な資料が展示されていました。谷崎潤一郎の年表や作品だけでなく、大家さんからの催促状も何通かありました。1938年7月の阪神大水害で被害を被り、修繕費がかさんで家賃の支払が滞りがちだったようです。

 

悦子の部屋。「悦子」は二女「松子」の娘です。

 

 こいさんの部屋。こいさんは「小娘さん」(こいとさん)の略で、大阪ではその家の末娘を指します。物語の中では四女「妙子」のことです。

 

1階に降りました。

 

 風呂場がかなり狭いです。挿絵は、四女「妙子」がラジオを聴くために戸を開けたまま風呂に入っているシーン。

 

当時の台所。薪を焚いて料理を作っていた時代だったようで、ガスコンロがありません。

 

食堂。物語の設定どおり、両親と4姉妹分、6個の椅子があります。

 

西の部屋。物語の中で4姉妹がくつろいだ部屋。

 

西の部屋の縁側。この椅子に座って本を読み、昼寝していた光景が想像できます。

 

玄関を入った所に応接室があります。

 

 6人で住むには狭い家でした。実際は谷崎夫妻と娘さんの3人で住んでいたと思われますが。生活は決して楽ではなく、支払が滞りがちで、結局大家さんに追い出されたそうです。それでも7年と、関西で一番長く住んだ家でした。