サポートライター みけ の独り言 -30ページ目

サポートライター みけ の独り言

電子書籍のはなし、文章のはなし、ことばのはなし、書く事、話すこと、ゆめのたねで喋っていることなど、言葉にまつわるいろいろなことを中心に、書いてみたいと思っています。

 

時折り友人と話をしていて思う時があるのですが、「この人の知識って底が浅いな~」なんて感じることはありませんか。理解の度合いが浅いとでもいうのでしょうか、せっかくの知識を披露しているにもかかわらず、話が広がらない事があるんですよね。単に話題提供の程度で終わってしまう、なんとも勿体ないと感じてしまうのですが、皆さんはいかがですか。

その反面、非常に知識というのか理解の度合いというのか、深いと感じる人もいます。一つの話題から関連する話をどんどん出していって、聞いていて楽しいですし役に立ちます。例え話も適切で、時には別の表現で表したりその違いを話題にしたり、ドンドンと話が広がって有意義な時間を過ごせたという満足感すら残してくれる、そんな人もいるんですね。知識が浅いとか深いとかの表現は、いったい何を表しているのでしょうか。

調べてみました。それによると、知識が浅いとか深いとかの表現が現しているのは、知識の広がりや深さだと書かれていました。でも、これだけではよく分かりませんので、もう少し掘り下げてみます。

浅いとか深いとかの表現が出るという時は、いわゆる「底が浅い」と言うような意味があるようですね。知識が表面的な、表層的な範囲にとどまっていて、せっかくして披露してくれても話が応用編にまで広がらないような状況でしょうか。「それ、知ってる、〇〇〇という事だ」、それで話が終わってしまうような場合は浅い知識と判断できそうですね。今話題にしている内容との関連付けがさほど無いまま次に話が進んでしまうような場合、周囲の人は何となく物足りない感じがして気持ちの上でくすぶった状態のままになってしまいます。

知識が浅いと言う場合であっても、中にはけっこう広い範囲の知識を持っている人もいるようです。なにか特定の部分なら非常に詳しいという事があるかもしれませんが、全体として考えると、理解の程度があまり良くなかったり専門的な部分の知識が少し足りなかったりすることも多いようです。断片的な知識だとどうしても体系化されにくい事もあって、一言披露したらお終いという事になりかねません。

一方で知識が深いと評される人の場合は意味の説明だけにとどまらず、別の表現での言い換えや例え話、背景の知識、応用編に至るような広い範囲の話題をカバーできるでしょう。まあ、「これ、知っているから」と一方的に話し始められると、周囲の人は話の腰を折られたような気がして白けてしまうかもしれません。しかし、分かっている人なら話し過ぎず、適当なところで切り上げられるように披露するでしょうから、あまり嫌味にはならずに済みます。

雑学的にアプローチするのであればその知識が少々浅くても問題はありませんが、あくまでも広く薄く知っているという事をわきまえておく方がよいと思います。見下す様に受け取られるかもしれませんが、何か話題を切りだしたり話の口火を切るといったところにしておいて、周囲の人が話し出したら自分は少し控えめにすれば、決して侮られることは無いと思います。ただ、これは本人がある程度自覚していないとできない事なので、人によってはこの辺りの裁量は難しいかもしれませんね。

また、いくら知識が深いと言っても、うん蓄を垂れると評されるところまで話し込むと、周囲の人は気持ちの上で引いてしまう事が増えるでしょう。正直に「ウザい」と言ってもらえた方がいいかもしれませんが、きっと嫌われる寸前のところまでいってしまうでしょう。中には「いろいろと知っていて便利な奴」くらいにしか評価してもらえない事も出て来ます。そうなってしまったら残念ですよね。

世の中には普通に出会った人がじつは専門的な知識を持っていることがあるようです。話をしていてびっくりしてしまうのですが、そんな人だと知らずに深くもない自分の知識を自慢げに披露してしまって、後で赤面の至りという情けない状況になってしまうこともあるんです。相手の人はきっと腹の中でせせら笑っていることでしょう。

知識は持っていてジャマにはなりませんが、扱い方には注意が必要なんですね。人前で何かを話す機会がある人なら分かると思いますが、何か小難しい言葉を出した途端に周囲の人たちが一斉にスマートフォンで意味を調べ始める光景って、見ている側は複雑な気持ちになるものです。なぜなら、調べ物をしている間は誰もこちらの話を聴いていないわけですから、その間は話を中断して待たなければなりません。もしも自分の話の流れにリズムを意識して臨んでいるならば、これは大きな障害になります。

その場でスマートフォンを使って検索すると、すぐにその場で知識を提供してくれます。とても有用なのですが、このように困った一面も持ち合わせているんですね。これからの時代はこのような事を想定した話の流れを考えておく必要があるのかもしれません。

この検索で知った知識はあくまで付け焼刃のようなものです。今、難しい言葉を聞いて意味を調べた、意味が分かった、そういうことか・・・。そこで終わって済ませてしまうと、その知識は果たして身に付いたと言えるでしょうか。すぐに意味を忘れてしまいそうに思うのですが、どうでしょうか。元の話がキチンと理解できているようなら、途中で検索した言葉の意味も身に付いているでしょうけれども、ところどころ検索していて話の内容が抜けてしまっていたとすれば、検索した言葉の意味も一緒に抜けてしまっている可能性があります。これでは、浅い知識と判断できるでしょう。ひょっとしたら身に付いていなくて、「知ってる、けど忘れた」の状態だったとしたら、聞いたことはあるけれども知っていることにはなりません。浅い知識どころか、知識そのものが無い状態です。

個人的に思う事ですが、知識はひけらかすものではありません。自分に必要なモノで、自分が役立てるためのモノだと考えます。いらない知識を披露したところで誰も喜びません。そういった意味でも、「知識に価値はない」という言葉をもう一度噛み締めてみる必要がありそうですね。

 

 

世の中には特徴的な人物が数多くいますが、特徴の中でも長所や短所は比較的分かりやすいものですね。ある程度の長所や短所はあった方が親しみが湧く場合もあるでしょう。そしてこの長所や短所、誰でも一つや二つは持っているんです。これはもう人の世の常ですね。この長所や短所にアプローチする場合、多くの例で「長所は放置しても勝手に伸びるだろう」と解釈されるのか、短所を如何にして克服するかに重きを置いた指導が為されることになります。そして、うまく短所を克服して平均点まで引き上げる事が出来た人がいる反面、失敗して見事に長所までもダメにしてしまう例がありませんか。成功も失敗も指導する側の責任に帰せられることは多いと思いますが、社会に出るとその失敗すら指導した側よりも指導された側に責任を帰せられることがあるようです。

誰にでも長所は存在します。それが勉強や仕事に役立つものとは限りませんが、それでも必ず長所は存在します。同様に、短所も存在しますよね。欠点といっても良いでしょう。これを直して何でも平均点で出来るようにしたいと思うのは分かるのですが、それって本当に必要でしょうか。

ちなみにですが、短所と欠点では意味の上で少し違いがあるようです。短所とは何らかの基準と比べて劣っているといった点を指すようです。そして、言い換えたり改善をしたりすることができる場合を指します。それに対して欠点といった場合は、欠落していたり全く基準に達していなかったりする点を指します。欠点は違う表現に置き換える事は出来るかもしれませんが、何とかしないと重大な問題を引き起こす可能性があります。短所はもう少し良くなればよいレベルなのに対して、欠点は全くダメといったところでしょうか。

話が逸れましたが、今回は短所と表現していますので、改善の余地が残っている例となります。ということは、今日のテーマは改善の余地がある短所をなんとかした方がよいのか、それとも長所を伸ばす事を優先した方がよいのかを判断することになりますね。

仮に、長所はあるけれどもあまり目立つものではない場合を考えてみたいと思います。この場合、きっと短所が目立つだろうなと想像できそうですね。この状態で短所を直して平均点レベルになったとすると、どうなるでしょうか。長所がそれほど大きく感じられない人物ですから、ほぼ全部が平均点ということになります。どこか飛び抜けた優れたところがあるわけではなくて全部が平均点となると、何の特徴もない人物のように感じてしまいます。この人はすべてにおいて可もなく不可もない、まったく面白みのない人物のように映ってしまいます。

それに対して、短所はともかくとして長所をもっと伸ばそうという事になったら、どうなるでしょうか。あまり目立たないような長所であっても、上手く伸ばす事が出来れば誰もが注目するレベルに成長するかもしれません。うまくいけばその人自身が多少なりとも飛び抜けた存在になるでしょう。また、長所がまだ未開発な状態で開花していない例もあります。本人が気づいていない場合もあるようなのですが、まだタネの段階であったとしても本人をその気にさせるような指導が為されたとしたら、ドンドン芽を出して成長していくかもしれません。なにしろ長所は探せばいくらでも見つかるでしょうから、片っ端から見つけて育てていく事が出来れば、スゴイ人物が出現する可能性だってあるんです。

さて、長所を伸ばすか、それとも短所をなんとかするか、この二つについて考えてみたいと思います。両方できれば好いのですがなかなかそうはいかないかもしれませんので、優先順位を考えることになるでしょう。そして長所を伸ばす方を優先にしたと考えた時、その当人は持てる良いところをどんどん伸ばすことになるんじゃないでしょうか。また、先に書いた通りタネの状態で持っていた長所も、芽が出て花が咲くようになるかもしれません。長所が伸びて優れた人物になるでしょう。その間、短所の方は放置とまではいかないかもしれませんが、あまり重点的な指導は無いと思います。

実は昔、私はある人がこの場合と同じようなケースで述べた言葉を聞いたことがあるんです。そのコメントはというと、誰かに対して「君は金平糖のような人間だ。凸凹していて尖った部分もあるようだ。その尖った部分を伸ばした時と、窪んだ部分を埋めて丸くした時とで、どちらが大きなものになると思うか?」というものでした。長所を伸ばして短所をそれで引っ張り上げるようにした方が人物が大きくなるぞという意味だったようです。強みを伸ばせということでしょうね。

これは何もこの時のコメントだけのものではありません。今の時代でもインターネットで検索してみると、短所を克服するよりも長所を伸ばした方が好いという記事ばかりが出て来ます。つまり、その方がその人物が成長するということですね。その期待を込めて指導するのであれば、長所を伸ばす事を優先にするのは当然の事なのかもしれません。

長所を伸ばすことが何故よいのか、最後にこの点についてもう少し書いておきます。長所はご本人にとっても楽しいことだと想像できますよね。少なくとも負担に感じるような要因はなさそうです。また、長所を伸ばすことで自信にもつながりますので、その他の事についても全体的にパフォーマンスが上がることも期待できます。もしも短所の方にフォーカスを当ててしまったとすると、これを修正するためには時間も労力もかかりそうだと思いませんか。また、下手をするとせっかくの長所まで台無しにしてしまうかもしれません。

そう考えれば、どちらが良いか判断できますよね。そういう事です。

 

 

ヒトは肉体的には成人になれば成長が止まりますが、精神面や学習面での成長は止まる事はありません。自分で意識的に止める事は出来るかもしれませんが、学びとして一括りにすれば日々わずかずつであったとしても、死ぬまで成長は続きます。学習はどちらかというと「受動的」なイメージが強く、知識やスキルを教えられるといった感じなのに対して、学びと言えば「生きるうえでの智恵や礼節」等も含む広い範囲のモノになるイメージがあります。また、学習が指導といった形で行われることが多いのに対して、学びは本人の気付きによって大きなものにする事が出来れば気付かずにスルーしてしまう事もあります。このように考えると学びと学習ではニュアンスが異なるものですが、今回は生涯続くであろう学びを学習の段階になぞらえて考えてみたいと思います。

一般的な考え方かもしれませんが、学習と言えば4段階、または5段階として考えることが多いようです。中には3段階とする考え方もあるようなので、夫々について書いていくことにします。

先ずは一般的によく聞く4段階の話から始めます。4段階というとどんなステップを踏むかですが、表現としては「無意識的無能」「意識的無能」「意識的有能」「無意識的有能」、こんな言葉で各段階が表現されます。無能だとか有能だとか、「知らんがな」と言いたくなるような酷い表現だとも感じますが、他に適当な言葉が無かったのでしょうか。それぞれについて見ていきます。

最初は「無意識的無能」と呼ばれる状態です。これは「知らないし、できない」という状態を表していて、これから学習しようという内容に対して「(学習する内容についての知識が全く無いので)何も知らない、そして(スキルも何もこれから学習するので、やってみろと言われても)何もできない状態」のことです。つまりは「初心者」、いや、もっと手前の「入門したばかりで右も左も全く分からない状態」という事ですね。この段階では教える側も学習の必要性を認識させ、そして基礎知識を習得させることが重要です。

次の段階は「意識的無能」と呼ばれる状態です。これは「(学習を始めたことで多少の知識は身に付いたので、多少の事は)知っているけど、(経験もないしスキルも頭で理解している程度なので、少しは知っているが身に付いているとは言えない状態だから)できない」という状況です。やり方を知っているが、実際にはできないという状態を指します。これでは知識はあるものの、それを実践で活かせない状態ですね。ですから、実践的な練習を重ね、知識をスキルに転換させることが重要です。

3段階目は「意識的有能」と呼ばれる状態です。これは「多少はトレーニングを積んできたので知識は身に付いた、スキルの方も一つ一つ確認しながら集中して)意識すればできる」所まで上がってきました。意識的に行動すれば、ある程度はできる状態です。ここまでくると、今度は何度も練習を繰り返すことで体で覚えるような感覚、無意識でもできるようになるレベルに近づけることが重要です。

最後の4段階目は「無意識的有能」と呼ばれていて、「(十分身に付いたと思うのであまり集中して)意識しなくてもできる」という状態です。意識しなくても自然にできるようになった状態ですね。基礎的なものは理解できていますし、実践も出来る状態ですから、この先は新しいスキルを習得したり、応用したりする段階まで来ています。

ここまでが学習の4段階とされていますが、5段階という場合はどんなステップで分けているのでしょうか。じつは、ここまでは4段階と同じで、この後に5段階目をがあるという事なんです。

では、その5段階目とはどんなものかですね。それは、さらに上の段階として「人に教えられるレベル」となっています。ですから、今度は自分が指導する側に回るという事です。自分の時を振り返ってみれば分かると思いますが、それぞれの段階で学習者一人一人の状態は異なるでしょう。全員を一様に同じような指導をするという事は方法としてふさわしくありません。なぜなら、学習者は皆進捗状況も理解度も違います。したがって、必要なサポートが異なるからです。この段階は「意識的有能/無意識的有能」と呼ばれる状態です。他人に教えることで、自らの理解をさらに深めることができます。

さて、学習の〇段階ということば、もう一つ3段階というものがありましたよね。今度はそちらを考えてみたいと思います。

学習の3段階とは、一般的に「理解」「定着」「応用」の3つの段階を指すのだそうです。この3つを意識することで、学習効果を高めることができるという考え方ですね。今、ふと思ったことなのですが、古来から伝統芸能などの言葉として「守・破・離」というものがありますよね。私はそれと似ているなと感じたのですが、皆さんはどう感じましたか?

順に説明していくと、先ずは「理解」の段階です。これは新しい知識やスキルを初めて学ぶ段階です。言ってみれば入門の段階と考えてよいでしょう。どんなことをするかというと、指導を受けながら教材を読んだり、授業を聞いたりして、内容を理解し把握することを目指します。解説動画を見たりするのも効果的ですね。理解を深めるために、図や表を使ったり、人に説明してみるのも良いでしょう。ただ、古典芸能のように昔は解説動画なんてありませんでした。指導と言っても弟子入りすることになるでしょうから、最初は住み込みの内弟子のような状態じゃなかったかと思います。師匠との生活を共にしながら技や知識を学んでいった、というよりも、少しずつ盗むくらいのつもりで頑張った人が多かったでしょうね。

理解が出来て一通りのことが分かってきたら、今度は「定着」の段階です。理解した内容を記憶に定着させる段階です。復習をしたり、問題を解いたりして、知識やスキルをしっかりと身につけることが目的になります。理解した内容を記憶に定着させるためには、復習が不可欠です。一度学んだ内容を、時間を置いて何度も何度も繰り返し学習することで、記憶が定着していきます。体で覚えるといったことも、この段階でしょうか。今の時代なら、問題を解くことも、知識やスキルの定着に役立ちます。

そうやって努力して知識や技術が身に付いて一人前の状態になったとしても、学んだ知識やスキルを、実際の場面で活用できるようになることが、本来の学習の最終目標のはずです。そして、そこに自分の個性を表現していこうという段階になります。それが「応用」の段階。身につけた知識やスキルを、実際の場面で活用する段階です。問題を解いたり、人に説明したりすることで、応用力を高めます。問題を解く際には、単に答えを出すだけでなく、なぜその答えになるのかを理解することが重要です。また、人に説明することで、自分の理解度を確認することもできます。

うまい具合に「守・破・離」と合っていそうですね。これらの3段階を意識して学習することで、より効率的に学習を進めることができます。特に伝統芸能のような場合、自分の個性を一緒に表現するレベルまで技を高めることによって、歴史に名を遺すほどの人物になる可能性もでてきます。今の時代では一般的な学習のところで終わることが多いかもしれませんが、学習の〇段階という事を知ったうえで取り組むと、大人になった後で何らかの勉強をする場合でも十分応用が出来る考え方だと思います。

ただ、学習の〇段階となっていて、学びの〇段階と言う言葉にはなっていません。その違いは学ぶ範囲の大きさや本人の気付きなどの要素が大きく違っていましたよね。これらも踏まえて、生涯の自分の支えになる事を探して、勉強していてはいかがでしょうか。