サポートライター みけ の独り言 -29ページ目

サポートライター みけ の独り言

電子書籍のはなし、文章のはなし、ことばのはなし、書く事、話すこと、ゆめのたねで喋っていることなど、言葉にまつわるいろいろなことを中心に、書いてみたいと思っています。

 

よく「ベストを尽くせ」という言葉をかけられることがあると思いますが、そんな時ってどんな感じを受けますか? 「精一杯頑張っているのに、まだ足りないのか」と怒りにも似た気持ちを抱く人がいるかもしれません。気分障害のある人に対してこのような言葉をかけるというのは、むしろ逆効果だとも言われていますよね。相手に対する配慮が全くできていないということで、〇〇ハラなんて言われてしまうことでしょう。精一杯の努力って、ヒトによってその度合いは違ってきます。また、同じ人でもその時の気分や体調などによっても変わってきます。一概に上から目線で「もっと頑張れ」と声をかけるのは控えた方がよいでしょう。相手がさぼっている場合は別ですよ。

最大限の努力やベストを尽くすことは大切ですが、それよりも、その時の状況に応じた方法を考える方がより現実的な場合もあると思います。ベストを尽くそうにも気持ちが乗らないことだってあるでしょう。どうしても必要な機材や資料が手に入らなくて前に進めない時もあると思います。そういった相手の状況を考慮したうえで声をかけるなら、また違った言葉になってくるのではないでしょうか、「困っているなら、相談に乗るよ」というように。ただ、全部一括りにして「頑張れ」は相手にとって単なる迷惑に過ぎません。

では、こんな時にはどうすればよいでしょうか。他にもタスクがあるならば、いったん手を止めてみてはどうでしょうか。気分転換を兼ねて別のタスクに取り組んでみるんです。そんな事をして何になるんだという声も出て来そうですが、これって結構効果があるようです。勉強をしているときなど、長時間同じ科目に取り組んでいると次第に煮詰まってくるのか、四面楚歌のような状態になる事はありませんか。そんな時に、取り組んでいる科目をいったんストップして、別の科目に切り替えてみるという方法がありましたよね。これって、科目が違うと脳の使う場所が別の場所に移動するのか、いい休憩になるようなんです。数学で煮詰まってきたらいったん手を止めて英語に切り替えて勉強を続けるというような方法ですね。脳の中の煮詰まった場所をクールダウンさせて別の場所を使うので、一休みを兼ねていながら勉強の方は継続できるという方法です。結構推奨されることが多いようですよ。

さて、それでも自分のモチベーションがどうしても上がらない事もあるでしょう。そんなときにどうするか、いっそ全部放り出してしまうという手がありますが、これはどうでしょうか。全部放り出すわけですから、その日の残り時間はすべて、あるいは一定時間に限ってかも知れませんが、仕事や勉強から離れるという方法です。気持ちの切替えは出来ると思いますが、その間に遊んでしまうとちょっと厄介な事になるかもしれません。

誰だって楽しいことは継続したいし、イヤな事や面倒な事はしたくありません。遊んで楽しいと感じてしまったとすると、今度はそれを継続しようと夢中になってしまう可能性が出て来ます。「今日はもういいや」と割り切ってしまえる人ならば、これも一つの方法ですね。しかし、遊んでしまったことを引きずって後悔する傾向がある人にとっては、あまりお勧めできる方法ではありません。この時の後悔の気持ちを引きずってしまって、後で何らかの失敗があったときに「あの時、遊んでしまったからだ」とヘンに紐づけてしまいかねないことにもなって、むしろ逆効果になりそうですね。もしその傾向がある人ならば、時間を決めてタイマーをかけて、それまでボーッと何もしない方が好いでしょう。

そんな事も踏まえたうえで、どうすれば仕事や勉強に納得のいく状態で取り組めるでしょうか。私は「その時のベストを尽くそう」と思うようにしています。これが誰にでも出来る方法かと訊かれても判断出来ませんが、こんな考え方もあるというくらいにしておいてください。

自分が努力していることは他人からは判断できないかもしれませんが、自分なら一番良く分かっているでしょう。そして、今はどうしてもモチベーションが上がらない状態だとか、何故か分からないけれども気分がハイの状態になっているとか、自分で分かりますよね。そんな自分の判断でよいので、その時の気持ちでベストを尽くそうというくらいに考えておけばよいのではないかと思うのです。

常に全力で取り組めと言われても、そんな事をしていたら一日も経たないうちにくたびれてしまいます。次の日になったら「もう嫌だ」となってしまうかもしれません。それでも次の日になったらまた頑張れる人はその方法で突き進めばよいのですが、誰に対してもそれを強要してはいけないと思います。気分が乗らないときは、それなりの方法で乗り切らなければなりません。もしもスランプのような状態になっていたとすれば、なるべく早くその状態から脱することが最優先になると思います。

その日の、その時のベストを尽くすという姿勢は、「何とかしよう」という前向きな気持ちの表れではないでしょうか。とにかく、いくらかでも前に進もうという意欲があるわけですから。まだ気持ちの糸は切れずに繋がっています。全部を放り出して「もう知らない、、諦めた」とはならないはずです。出来る範囲の事だけでもよいので、もうちょっと自分のペースで継続させてみてはいかがでしょう。このような行動を続けていけば、次第にそれがメンタルの上で自信として蓄積されていくでしょう。自分自身の成長にもつながります。

「何もしないよりはマシ」、そう言ってしまえば身も蓋もありませんが、誰もが常に体調万全、気分良好でやる気十分なんて事はありません。誰にも相談することなく、その時の調子で自分を騙し騙し頑張っているのが現状でしょう。出来る範囲で取り組んでみる、そんな日があっても構わないのではないでしょうか。

 

 

自分の心の内を誰かに見透かされてしまう、そんな経験をしたことはありませんか。自分の何気ない仕草や言葉の端々に出ているのかもしれませんが、それを察知したのか見事に言い当てられてしまう事が時々あるんです。今回はそういった出来事を通して自分を知ることについて考えてみたいと思いますが、本当に何故他人が分かるんでしょうね、自分でも分からない事があるのに。

つい自分の気持ちが言動に表れているとすれば見透かされてしまうのは仕方がないのかもしれません。見透かされないようにうまく隠した方がよい事であれば、何らかの工夫も必要になってくるでしょう。表情や言動に自分が考えていることが出てしまうのであれば、手っ取り早い方法は無表情で無口になる事でしょうか。そして他人と少なからず距離を取ることが出来れば、いくらか防ぐことも出来ると思います。もっとも、これでは周囲の人から「あの人は何を考えているのか分からない」と評されることになりますが。

もしも、そのような状況だとすれば、言い換えれば皆の方が不安なのでしょう。自分に自信がないのかもしれませんし、自分たちがしていることがこれで好いのかどうかの判断が出来ていないのかもしれません。他人の判断を借りて自分を正当化しようとしているとも考えられるんですよね。そういうヒトは何かあったときには自分を正当化して、他人のせいにすることが多いとも考えられます。しっかりと距離を取った方がよい人たちだだと思いますが、いかがでしょうか。

さほど不安でなくても他人の考えていることを見透かそうとする人物がいるとすれば、仕事にせよ勉強にせよ他人を出し抜こうとしている可能性もあります。そういうヒトであればしつこく着き纏ってはあれこれ尋ねてくる事もあるかと思います。他人が何を考えているかを知りたいわけですから、そして、それを自分が後から頑張って追い越して自分の手柄にしようと考えているかもしれませんし、または邪魔をしたり惑わしたりして貶めようとしてくるかもしれません。こういうヒトとはできる限り距離を置いて、相手にしないのが無難な対応でしょうね。

では、自分が何を考えているのかを自分で知りたいと思う時はどうすればよいでしょうか。これは何らかの理由で自分と向き合って何を考えているか自分で知りたいとか、自分の内面を観察したいとか、そう思った時に何をすればよいかですね。内省という事になるでしょうか、自分を理解するという事から始まることになります。

内省とは、自分自身が何を考えているか、どんな感情が湧いているのか、なぜそのような感情が出て来たのか、そしてどういった理由や原因があってその行動をとったのかなどを深く見つめ直し、その意味を考察する行為です。この時に大事な事は、自分を冷静に客観的に見つめ直す事ですね。自分の内面の表れである思考や感情、行動などを客観的に見つめ直し、その原因や意味を考察することです。そして、自己理解を深めて自らの成長につなげることを目的とします。ですから、冷静に客観的にしなければ自分を知る事が出来ません。

よく似た言葉で「反省」というものがありますが、内省と反省は根本的に違うところがあると思います。内省は自分を深く知って理解を深め、自己肯定感を高めるところまで行う事が出来ますが、反省は過去の良くなかった部分を振り返り、「しまった」とか、「あれはマズかったな」などと後悔することになります。そして、どうすればよかったのかといった改善点をあぶりだして、次に失敗しないように心にすることが目的です。

自分を知るという事は、言い換えるなら自分探しといった面があるかもしれません。まあ、自分探しと言ってしまうと「自分探し=自分のやりたい事探し」になってしまいそうですが。これでは少し目的がズレてしまいますね。「自分のやりたいこと探し」の方は参考程度に考えていただくとして、「自分探し」を「自分を深く理解するため」のモノとして捉えてみてはどうでしょうか。そう考えるなら、なにも「自分を深く理解するための自分探し」と理由付けしなくてもよいでしょう。

さて、自分を知るという事ですから、自分はどの様な価値観を持っているか、誰かと比べたりせずに自分自身に向き合っているか、何が得意で何が不得手か、さほど苦労せずに出来る事は何か、何が好きな事かなど、いくつか自分に対して質問してみる事も良いでしょう。また、親しい友人がいるならその人に尋ねてみるのもよいかも知れません。まあ、ヘンな駆け引きが起きないようにしないといけませんが。会話の端々から、他人が自分をどの様に見て評価しているかを察知するという事をしなければならないかもしれません。また、日記のようなモノを作って、事あるごとに自分がどう感じたかなどを記しておけば、振り返って自分を見つめ直すときに参考になるでしょう。

自分を知って理解を深めると言っても、自分で自分と向き合っていてはどうしても他人の目や評価は気になるものです。直接尋ねてみても答えてもらえるとは限りません。ヘタに尋ねることでわざとトンチンカンな事を答えたりする人も出て来るでしょう。世の中にはなりふり構わず自分を前に出したい人がいるものですから、そういった人に妙な事を尋ねて踏み台にされるようなリスクを冒す必要なんてありません。他人に惑わされるくらいなら、多少バイアスがかかっても主観で捉えた方がよいと思います。

インターネット上では自分を知るための質問というものもあるようです。そのようなものを参考にしてみるのも良いでしょう。

 

 

数字に対する信仰(?)には根強いものを持っている人が多いようですが、数字だからと言って簡単に絶対視したり客観的なものとして信用してしまうのは少し危険だと思いましたので、今回はこれをテーマに書きたいと思います。

SMARTの法則の話を出すまでもなく、数字を組み込むことで物事を考える時の内容が具体的になるのは、誰もが経験していることだと思います。「だから、数字が必要だ」という意見は正しいのですが、ちょっと考えてみてください。テレビの討論番組などを見ていると(私はテレビ視聴を止めたので十年以上前の話になるかもしれませんが)、あるテーマについて討論している出演者たちが出して来るグラフや数字(数値)を見ていると、とても違和感を覚えることがあります(「ありました」ですね)。賛否両論の立場で意見が出ているときにそれぞれの根拠の一つとしてグラフや数値が引き合いに出されているのですが、その母集団が微妙に異なるものになっていて、それに加えて投げかけた質問がいささか不自然な問いかけになっていることがあるんです(あったんです)。

若い世代の社会人が母集団のグループに問いかけたグラフに対して、他方は中年層(中間管理職が多い?)に問いかけた結果をぶつけてみたり、問いかけた質問の文言が少し誘導していないかと感じるものであったり・・・。これでキチンとした比較になるのでしょうか。私はならないと感じます。むしろ、このような結果を振りかざして議論しようということに対して、不信感を持ってしまう事もあるんです、それは賛否両陣営の人たちや番組の制作者に対してですが・・・。

母集団が違えば多少なりとも結果は変わってくるでしょうし、問いかけの文言が同じでなければ比較するのが難しくなる可能性も出て来ます。実際に街頭インタビュー等での質問時にどのようなやり取りがされているか、全部は紹介できないのは分かるのですが、インタビューされた側の人がどれくらい理解して回答してくれたのか、どんなニュアンスで回答したのかが全く分かりません。

つまり、いくら数値で表現していても、意外に操作しやすい状況下でデータを作ることが可能なんですね。そのような事例がテレビのような視覚を利用して情報を不特定多数の視聴者に情報を届ける場合に、都合がいいように方向付けをされてしまっている可能性が出て来ていないでしょうか。

一人一人の意見を聞いてデータにまとめるのは現実的ではありませんが、総括するにしても、もう少し工夫があっていいんじゃないのかと思うのは私だけでしょうか。

また、曖昧なものを「どちらかといえば・・・」といった形でまとめる際にも、主観で判断するには白黒つけるのが難しいと感じる内容の場合もありますよね。データの処理のだんかいでも結構難かしいことが多いと思います。このような場合も、意図的ではなかったとしても、本来のデータとグラフの作成にズレが生じている可能性が無いとは言い切れないでしょう。

ここまではデータの数値についての話でしたが、数字を使った表現という事であれば時間もそうですね。時間の単位で言えば、秒、分、時間、日、月、年、世紀などがありますが、時間を表す場合には絶対的な感覚での表現と相対的な感覚での表現の二種類があります。時計で測った場合は絶対的な感覚と考えてよいと思いますが、気分で考えたり予想したりする場合は「多分、これくらいだろう」という事を考えますので、相対的な時間の感覚になります。「あともう少しだから、二分だけ・・・」といって終わってみたら一時間以上経過していたということもありませんか。ご本人は「ゴメンナサイ」とシュンとしても、周囲の人は角が生えた顔で睨んでいる・・・、時間の表現も感覚が加わると正確ではなくなるんですね。

ちゃんと数字は使っているんですよ。でも、これではいくら数字を用いたからと言っても、全く信用する気になりません。しかし、数字は客観的な表現だ、数字に感覚が入り込む余地はない、誰もがそう信じているのかもしれません。その思いがあるからこそ、数字を入れておくことが必要なんです。でも、実際には感覚の部分だってかなり入っているんです。時には感覚的な部分を意図的に入れている(含ませている)ことがあるかもしれません。そして、それを読み解く時の判断が難しい、この辺りが問題なんです。

もう一つ、注意した方がよいことがあります。それは「判断する時の数字の読み方」だと思います。せっかく計測して客観的なデータが得られてまとめ上げたにもかかわらず、そのまとめ方に担当者のバイアスがかかってしまうという事はありませんか。自分たちの予想と違う結果になりそうだということで、(どこかのデータを修正するのか、最後の判断のコメントに手を加えるのかは分かりませんが)チョコッと何かを操作することで、本来の結果による判断ではなくなってしまうこともあるようです。それに気づかずに数値や判断を読み解いてしまうと、結果として予想と違った決定を下すことになるかもしれません。

数字が載せてあるから大丈夫だと早合点せずに、その背景にも目を向けるような姿勢が必要な時代になってきているようですね。