サポートライター みけ の独り言 -27ページ目

サポートライター みけ の独り言

電子書籍のはなし、文章のはなし、ことばのはなし、書く事、話すこと、ゆめのたねで喋っていることなど、言葉にまつわるいろいろなことを中心に、書いてみたいと思っています。

 

今回は目的と手段の取り違えを中心とした話題を取り上げます。この話題は、目的と手段がいつの間にか入れ替わってしまっているという、頻繁に起きては問題視される話題なんですよね。私は、目的を換言すればゴールだと考えています。そのゴールに辿り着くためにどのような方法を使うか、それが手段だと思うのですが、時におかしなことになるんですね。

例えば、ゴールを目的地に例えるとしたら、どうやってその場所に移動するかの方法が手段になります。駆けっこなら走る以外に方法はありませんが、普段の出張などを例にして考えるなら、その距離に応じて「徒歩で移動」「自動車を使って移動」「新幹線を使う」「航空機を使う」等の手段が出て来ます。その時に必要な条件を満たす最もふさわしい手段を用いるのが一般的だと思います。安上りという条件は常に付きまといますが。

海外出張なら「歩いて行ってこい」なんて絶対に言われないでしょうし、取引先との打ち合わせが主な内容の出張ならわざわざ出向かずにオンラインで行えば済む場合もあるんじゃないでしょうか。

これが自社内で何か事業のような仕事になると、どうもヒトによっては捉え方が変わってくることがあるようです。どこか別の決まった場所にモノを運ぶ場合、目的はモノを移動させることですが、何を使って運ぶかは手段ですよね。ところが、手段としていくつか選択肢があったとするとこれが次の時点で目的になってしまい、どれが一番効率が良いかを選ぶことが手段になってしまいかねません。そして、効率の良さを調べることがさらに次の目的になって、そのためにどんな方法を使うかが次の手段になって・・・、こうして果てしなく手段が目的化してしまうかもしれません。最初の目的の「モノを移動させる」はどこに行ったのでしょう。

忘れてはいけないことは、「『モノを移動させる』のは何故か」という所ではないでしょうか。これがどこまで分かっているかどうかで、目的と手段が入れ替わったり混同したりするリスクは大きく下がるとと思います。もっと言えば、「モノを移動させる」こと自体が手段かもしれません。また、必要な作業として考えるなら、「モノを移動させる」は「目的」ではなくて「目標」なのかもしれません。なぜなら、目標なら達成したらお終いで構いませんが、目的なら目標の先が必要になってきます。それが「なぜ、モノを移動するのか」の「なぜ~」の部分ですね。

移動するといっても勝手にモノが動くわけではありませんから、人の手で移動させるということです。したがって、この場合は「移動する」も「移動させる」も、意味合いではあまり違いはありません。「なぜ、モノを移動させるのか」を考えたら、移動先で組み立てるためだったり、別の部品と組み合わせるためだったり、様々な理由が出て来るでしょう。ひょっとしたら、理由を深掘りして考えているうちに「これって、移動させなくてもよいんじゃない?」という事になるかもしれません。

目的と称するなら、ゴールの先の事まで視野に入れておけばもっと効率的な手段を考え着くかもしれないという事になりますよね。

こんな話が分かりやすいでしょうか。3人の職人がレンガを積み上げていたという話です。ご存じの方も多いと思いますが紹介します。

少し距離を置いて3人の人がレンガを黙々と積み上げて、何かを作っていました。何をしているのかと声をかけられたとき、一人目の人はこう答えました、「見ての通り、レンガを積み上げているんだよ」と。尋ねた人は「結局、何を作るためにレンガを積み上げているんだ?」という疑問が残ってしまいました。そのまま歩き続けると、二人目の人が同じようにレンガを積み上げていました。何をしているのか尋ねると、「教会を建てているんだよ」と答えました。尋ねた人は、「なるほど、それじゃさっきの人も教会のどこかを建てていたんだな」と思いました。そのまま歩いていくとさらにもう一人レンガを積み上げている人に出会いました。何をしているのか同じように尋ねてみると、「歴史に残るような教会を建てて皆の憩いの場所を作るんだ」と答えたということです。

一人目は何の作業をしているかを答えただけですね。何を作っているかを知っていたかどうかは分かりませんが、指示された範囲のことをしていたに過ぎません。作業が終わったら、毎日クタクタになるでしょう。

二人目の人は教会を建てていると答えた人ですね。レンガを積み上げる作業が全部完成した様子は思い浮かべているでしょうけれども、何のために建てているのでしょうか。修理のためでしょうか、それとも新たに最初から建てるためでしょうか。目指すものは分かっているようですが、建築目標は教会、それでお終いのようですね。

最後の人は、なぜ教会を建てているかの理由まで一緒に語っています。教会を建てる目的を理解してレンガを積み上げているという事のようです。肉体的にはクタクタでも気持ちの上では疲れ知らずの状態かもしれません。

結局のところ、三人目のヒトのレベルまでちゃんと理解したうえで、私たちは自分の目の前の仕事に取り組んでいるかと言う姿勢が問題になりそうです。ここまで分かったうえで仕事をするなら、目的と手段を取り違えるようなヘンなトラブルは起きないでしょう。何よりも「目的」という言葉、この場ではふさわしくないように感じませんか。私には「目標」と別の言葉に置き換えた方が間違いが少ないように感じたのですが、どのように思いますか?

 

 

今回取り上げるのは「運」の話です。運って「はこぶ」と書きますが、何を運ぶのでしょうか、また、誰が運ぶのでしょうか。漠然としていて何のことだか分かりませんよね。今回の話で取り上げたからと言ってそれが明確になるという保証はありませんが、少なくとも「運」について考えてみる、見つめ直してみる機会になればいいなと思います。

運という漢字にはいくつかの意味がありますが、「運ぶ」という意味や「操作する」(運転や運用など)というものは除外します。自分では操作できそうにない、目に見えない力とでもいうような、流れのような意味で考えてみようと思います。

こんな事例を聞いたことはありませんか、「うまく事が運んだら『自分の実力』と自慢するけれども、失敗してしまった時は『運が悪かった』という事にして『自分の責任ではない』事を強調する人がいる」という話です。都合が悪い事は全部「運」のせいにしてしまうという例ですが、ある人に言わせると「運を引き寄せるのもそのヒトの実力」なのだとか。そうだとすると、「運」のせいにする人はさほど実力があるわけではなさそうだという事になりそうですね。

その一方で、謙虚(とは限りませんが)な人は、「うまくいったのは『運が良かったから』、うまくいかなかったのは『自分の実力不足』」とする傾向もあるようです。

「運」には「巡り合わせ」というような意味がありますので、その巡り合わせによって何らかの成否が分かれることになるということのようです。そんなアヤフヤなもので成功や失敗が決まってしまうのはイヤですよね。また、最近では風水といった、これもまた分かったような分からないようなものに振り回されて(?)、運気がどうだとか〇運が上がるとか下がるとか、そんなことを声高に言い出す人もいるようです(達人や詳しい人のことではありません)。

運を巡り合わせという意味で考えるなら、運が良い人は巡り合わせが良かったということになります。この場合は「その人にとって都合の良い結果に恵まれた」ということですね。途中で失敗しそうになった時に入った誰かの助け舟で、結果的に予想以上の良い成果に繋がったという場合もあるでしょうし、最初から最後まで万事好都合に事が運んだという例もあるでしょう。失敗か何かで中断せざるを得なくなった間に業界の風向きが変わって、中断していなかったら大損になっていたという事例だって含まれてくると思います。成功につながったか、それとも失敗せずに済んだか、いずれにしても「巡り合わせによって手に入った結果がとても良いものだった」としたら、運が良かったことになりますよね。

ここまで書いて、私は「運が呼び込めたらいいな」と思いました。ただ座って待っていても運は良くならないと思うからです。生まれつき(かどうかは別にしても)運が良い人って、いますよね。そんな人が身近にいると、人生って不公平だなと感じてしまいます。それはともかく、運を呼び込む、あるいは運が良くなる方法ってあるんでしょうか、ちょっと考えてみたいと思います。

ある記事にズバリと一言で結論のようにまとめた文言が記載されていました。それによると、「運が良い人は考え方がポジティブな傾向にあって、自分の周理の出来事の中からチャンスを見つけて捉える能力が高い」という特徴があるようです。反面、「運が悪い人はネガティブな思考や行動をする傾向があり、それが元でチャンスを逃してしまう」、そんな傾向があるのだとか。なんか、分かるような気がしませんか。

チャンスは誰に対しても均等に与えられているのかもしれませんが、「チャンスの芽」なんて札がかかっているわけではありません。ですから、それが目に留まること自体が運に気付いているというのか、幸運が手を差し伸べてくれているわけですね。運が良い人は「これかも知れない」と思ってその手を掴むために自分も手を伸ばすということでしょう。反対に、運が悪い人でもチャンスの芽にはちゃんと気が付いているかもしれません。しかし、元からネガティブな傾向があるので「これじゃないかもしれない」と思って、幸運が差し伸べてくれた手を掴もうとしないでスルーしてしまうのでしょう。その結果、チャンスに恵まれず・・・、という事になるんじゃないかと思います。

これは一つの考え方なので、正解かどうかは分かりません。運が悪い人は、そもそもチャンスの芽に気が付いていないことだってあるでしょう。気付かなければスルーするのは当然です。また、運が良い人だってチャンスの芽に気が付かないこともあると思います。ただ、元からポジティブな傾向があるのでチャンスの芽の傍の何かが目に留まって、そのままチャンスの芽に気が付いて・・・、そうなることもあるんじゃないかと思います(私も何回か、目を向けた物の隣にチャンスを見つけたという経験があるので)。

今からでも遅くはありません、自分が運の良い人になるように変えていきませんか。でも、何を変えたらよいのでしょうか。ヒントは運が良い人と運が悪い人、それぞれの傾向を知る事です。

運が良い人は物事をポジティブに捉える傾向があるとのことでしたよね。実際に、運が良い人にはいくつかの共通した特徴があると言います。例えば、ポジティブな捉え方や思考があるという事はもちろんですが、それ以外にも日頃から何事に対しても感謝の気持ちを持つとか、他人を尊重する、さらに、常に学び続ける姿勢などが挙がっています。日頃の姿勢というのか、普段の態度というのでしょうか、これらが大事という事ですね。そういった傾向があるわけですから、運が勝手に引き寄せられてくるのでしょう、ひょっとしたら運の方から近寄ってくるのかもしれませんが。普段の生活の中にも小さな幸せがあることに気付けば、自らの生活も心穏やかになって自然に整っていくでしょう。

運が良い人の傾向が分かったという事は、運が悪い人はこの反対の生活を送っているという事になるのかな。そうとは限らないと思いますが、「失敗しませんように、失敗しませんように」なんて念じていると、たいていの場合失敗してしまう傾向があるんですよね。スピリチュアル系の話だと「失敗って言うから失敗するんだよね、『成功するように』と念じたらその通りになるんだけど」と言われるかもしれません。ただ、失敗しないようにとガチガチになって心配な気持ちでいれば、融通が利かなくなることもあるでしょうから失敗に繋がることも出て来るんじゃないでしょうか。

「運? そんなの知らないよ、私は失敗したくないから頑張るだけ」、そんな人が一番運が良いのかもしれませんね。

 

 

タイトルのような状況でどちらにするか選択を迫られた時、皆さんはどんなことを考えて結論を出しますか? これが単に二者択一で昼食のメニューを決めるくらいのものであれば、それほど悩むこともないでしょう。究極の選択と言っても、どちらを食べたいかだけですから(人によっては価格が気になる事もあるでしょうが)・・・。しかし、これが学説であったり、判断によっては自分の今後が変わってくるような選択の場合は、きっと緊張すると思います。

スピリチュアル系の話題であれば、「どちらでもよいから、自分がワクワクする方を選べ」となるでしょう。「どちらを選択すればより楽しいと感じるか」という場合も同じようなものだと思います。また、自己研鑽や成長を考えるなら、「どちらが自分にとってプラスになるか」が判断基準になると思います。

しかし、これが学説や論文の結論であった場合は、状況が変わってきます。どの説を支持するかという事になりますが、この場合はどちらの説が正しいか、これが判断基準になるでしょうね。でもね、最初に説が出た頃って、どれだけもっともらしく述べたとしても、まだ仮説という事が多いんです。どの説がが正しいかなんて、これからいろいろな人が関わって検証していくことになりますので、この段階では判断できない場合が多いと思います。

また、学説などの場合、一つの説が出て多くの人が注目すると、それを支持する説や、反対意見の説などがボコボコと出て来るんです。それだけ注目を集めたので皆が関心を持って取り組んだという事ですから決して悪い話ではないのですが、聞く側の立場で言えばちょっと困るんですよね、「結局、どの説を採用すればいいんだ? どれなんだ?」という事になりますから。

余談になりますが、私がかつて現役の頃にしていた医療関係の学会では、昔は新たな製品が発売されると必ずその商品名や型番をタイトルに付けて「〇〇〇の問題点」という論文を発表する施設がありました(彼らの名誉のためにどんな団体か、種類や規模、名称などは伏せておきます)。必ずこのタイトルで論文が出て来るので、「また、ここがこんなタイトルで論文を出してきたか」と、イヤ~な気持ちになったものです。こんなタイトルで毎年数本発表していたんですね。

それはさておき、昨今の健康志向の中には、びっくりするようなことを言い出す団体があって驚かされることも多々ありますが、どうにも腑に落ちないと感じるのがこういった選択を迫られる件があることです。ある団体は「良い」と判断して推奨するにも関わらず、別の団体は「良くない」と判断して、「しないように、使わないように」と呼びかける事があるみたいなんです。まして、それぞれの団体が同じようなものを扱うような場合、どっちの説を取ったらよいのかが分からなくなってくるんです。

以前、ある出来事に対して、真っ向から対立する説が出てきた場合に、自分としてどちらを選択すればよいのかが分からなくなって迷ったことがありました。そのヒトの判断で構わないと言っても、個人で集められる情報には限りがあります。散々考えた挙句、ある人に相談したことがありました。その時にいただいた返答は、「自分としてはどちらが良いと思うか、それで判断すればよい」というものでした。それでいいの? そう思いますよね。しかし、どちらも真実だということが分かっていたので、そのアドバイスに従って両方の意見を比べてちゃんと理解をしたうえで、「自分としてはこの考え方、説を支持する」と決めた、そんな事がありました。

こういう問題って、悩ましいんですよね。こんな時はいろいろな説や考え方を知ったうえで「自分はこうしたい」と決めることにしたら、なんとか結着を付ける事が出来るようになりました。

さて、世の人はこのような場合にどう考えて結論を出すのでしょうか。ネットで調べてみると、ある人は「直観に従って選択肢を選ぶ」というヒトもいれば、「それでは情報量が少ないから自分の考え方が偏ってしまう」ので、別の方法を考えようというヒトも居ました。

さて、そろそろ私なりにどう考えるかという事も書いておく方が良いですね。私はあまり難しく考えないようにしています。ちょっと雑な考え方かもしれませんが、時に応じていくつかの考え方のバリエーションを使って、その場を乗り切ることにしているんです。

一つ目の方法、とくに健康に関する情報などの場合ですが、どちらが自分の生活スタイルに合うかを判断基準にしています。こういう情報の場合、知っているだけでは何の役にも立ちません。その情報を実践してみて初めて効果が分かるわけですから、自分はどの方法や情報なら普段の生活に取り入れやすいかを考えて選択するようにしています。

二つ目、エビデンスや理論を出来る範囲で調べてみてから判断するという方法を取る事もあります。情報だけでは、どういった経緯でその情報が出て来たのかが分からないことがありますよね。その理由を調べてみる、どういった理由でその説や考え方に至ったのかの筋道を辿ってみる、実験などを行なったのであれば、その結果はどうなったのか、それをどのように解釈したのかなどについても考えてみることにしています。エビデンスは根拠というような意味ですから、総合的にその情報や考え方について、背景まで含めて調べたり考えたりしたうえで、自分ならどちらがより真実を突いているかを判断するというものですね。

そうして考えてみても、どうしてもわからない場合も出て来ます。そんな時は・・・、究極の判断になりますが、私はいったん放り出すことにしています。今いろいろと考えたり調べたりしてみても分からなかったのですから、状況が変わらなければ明日も明後日になっても、きっと分からないでしょう。それなら、今急いで決める必要は無いと思うのです。それなら、結論を出すのは今日でも明日でも明後日でもよいので、いったん頭を冷やすためにその場から離れる事にしているんです。たいていの場合、こういう時は自分の視野が狭くなっていることが多いようです。周囲の様子が分からなくなるほど見えなくなってしまっていたら、そんな状況で下す判断って、自分でも当てにならないと思うんですよね。

頭がリセットされたら、別の切り口が浮かんでくるかもしれません。判断に直結するようなヒントが見つかるかもしれません。もし、限定〇〇というようなものが対象の場合、いったんその場から離れたことで手に入れる機会を逃したとすれば、それは縁が無かったと思って諦めることにしています。

私なりの方法ですから、皆さんの中にはもっと良い方法があるという方もいるでしょう。ただ、自分なりの判断軸を持っていれば、他人の意見に振り回されることなく、自信を持って「これが良い」と選ぶ事が出来ます。誰かが「これが体に良い」と言ったら、その日の午後にはスーパーの陳列棚から商品が消えたなんて事もなくなるでしょう。

このような判断軸などをリテラシーというようですが、自分なりのリテラシーを持って判断をするって、大事な事ですね。