サポートライター みけ の独り言 -25ページ目

サポートライター みけ の独り言

電子書籍のはなし、文章のはなし、ことばのはなし、書く事、話すこと、ゆめのたねで喋っていることなど、言葉にまつわるいろいろなことを中心に、書いてみたいと思っています。

 

今回は、この相反する(と感じてもおかしくない)二つの姿勢について考えてみたいと思います。一般に「謙虚(な人)」は尊敬されて一目置かれる存在になることも多いと思いますが、「貪欲(な人)」は敬遠されて誰も近寄らない傾向がありませんか。貪欲な人ってあまり良い評価ではありませんよね。ところが学びに関して言えば、「貪欲」と言う言葉を使っても決して悪い評価ではない場合があります。私が学びの時期だった頃は、「貪欲」はむしろ推奨されるような姿勢だったと思います。

貪欲と似た言葉に「強欲」と言うものがありませんか。たいていの場合で同じような意味の言葉として使っているように感じますが、少しニュアンスが違うようです。個人的に感じているニュアンスでは「貪欲は根こそぎ、強欲は独り占め」と言ったものなのですが、実際には違うようでした。

まず貪欲の方ですが、調べてみると「貪欲(どんよく)」は「何かを手に入れてもまだ満足せず、さらに多くを欲しがる」という意味合いがあるそうです。いわゆる「もっともっと」といった感じでしょうか。貪という漢字は「むさぼる」と読みますので、腹を空かした獣が脇目も振らず夢中に獲物にかぶりついている様子を想像してしまいます。仏教では煩悩の原因とされる三毒の一つとして「際限のない執着や欲望」といった意味に用いられている漢字ですね、こわい、こわい。しかし、何に対する欲かと言うと「物欲、金銭欲、所有欲」等の物質的なものですが、中には「知識欲」も含まれているのだとか。この知識欲を含むことから、学びの時にだけは悪いイメージが感じられないのでしょう。

それに対して「強欲(ごうよく)」の方はというと、「悪徳」「異常」「醜悪」といった否定的なニュアンスを強く含みます。その人の人間性(性根)や行為そのものに対して「醜く、欲深である」とする非難の意味で投げかけられるんですね。ですから、どんな場面でこの言葉が用いられたとしても、決して良い意味はありません。人間性にまで及ぶ言葉ですから、きっと社会的な倫理にも反するようなことをしているイメージがあるのでしょう。

さて、今回は「謙虚(さ)」というもう一つの言葉を挙げているのですが、貪欲と謙虚って同時に存在できるのでしょうか。あるいは、一人の人物の中で同居出来るものなのでしょうか。

謙虚の意味は、「自分の肩書や立場を鼻にかけて威張ったりおごる言動をせずに、控え目で慎ましい態度を取ること」となっていました。さらに続けて、「他者の意見や能力を尊重し、常に学び続ける姿勢を指す言葉」だと書かれていました。他者の意見や能力を尊重するためには、自分自身の性格や能力的な得手不得手をよく把握していて、しかも自己肯定感が高く自分に自信を持っていなければ、なかなか難しいことだと思います。そうでなければ、他者の秀でたところを認めるなんて、素直にできないんじゃないでしょうか。よく「マウントを取る」ような言動をする人がいますが、こんな人は謙虚とは程遠い、誰かを貶めないと自分が劣っている事がバレてしまうと思って、常にビクビクしている人でしょうね。

謙虚な人は相手を尊重してくれますし、学習意欲が高く向上心も旺盛なタイプの人が多いようです。そして、いつも感謝の気持ちがあって、他者の成功を一緒に喜んでくれる、自分の成功でも周囲の人に感謝を忘れない、そんな人なら、尊敬されても当然です。

尊敬され、一目置かれる存在になるのですから、当然ですが周囲には沢山の人が寄ってきます。謙虚な人であればその人たちからも学ぶことがあるでしょう。きっと周囲の人たちのことを大切にするでしょうから、人間関係も良好になるでしょうし、人脈も広がります。何かあれば周囲の人が挙って助けてくれるでしょう。

さて、普通に考えると謙虚さを持つ人と貪欲さを持つ人は別人じゃないかと思いませんか。同じ人が両方の側面をもつなんてちょっと考えにくいと思うのですが、どうでしょうか。「貪欲さ」の言葉に悪い方のイメージを強く感じ取るのであれば、謙虚な人の裏の顔(?)のように受け止められてしまうかもしれませんが、貪欲さの対象に「知識欲」がありましたよね。謙虚な人は向上心が旺盛で学習意欲も高いというタイプの人が多いとありました。だとすると、知識欲に対しての貪欲さであれば謙虚さと同居するのは可能かもしれませんね。

学習意欲が旺盛で向上心にまかせて貪欲な姿勢で学びを続けていく、しかし学んだことや知識をひけらかす事もない、そんな姿が浮かんできます。きっと「静」の面が謙虚さで「動」の面が貪欲な学習意欲といったことなのでしょう。

余計なことかもしれませんが、ここで一つだけ注意することがあると思います。それは「舐められたり、蔑ろにされたりしないようにする」という事。世の中にはいろいろな人がいます。いつも周囲の人を観察していて、ちょっとしたミスを見つけようモノなら、たちまち「鬼の首を取った」かのように大騒ぎして他人を貶める人が、必ずといってよいほどいます。また、ちょっとその人を尊重したり意見に耳を傾けたりすれば「自分は優れているから、相手はそんな態度を取ったんだ」と勘違いして、すぐに調子に乗って周囲の人を見下すような態度を取ったりする人もいます(経験が浅い人に見られる傾向があるように感じます)。

こういった人が周囲にいるなと感じた時は、出来るだけ他人にスキを見せない事が大切です。このような、年齢にふさわしくない言動の人には出会いたくないのですが、残念な事にどこに行っても必ずといっていいほど居るんですよね。

こんな人には気を付けましょう。

 

 

今回のテーマは「目標を達成したい(時に考える事)」としました。ちなみに、()はタイトルに入れていませんが、私の思いです。何を今更と思われるかもしれませんが、これが解決しているなら、きっと書店で「目標達成」「願望達成」についての書籍が現在のように出回ることは無いと思いました。それだけ人気のあるテーマだという事ですし、それだけ個人としての解決が難しい問題だという事でもあるためだと思います。

達成を目指す目標があるならば、よく言われる手法は「SMARTの法則」に則った考え方を活用する事ですね。この法則については過去に何度がこの場所でも取り上げたことがあったと思いますので詳細は省略いたしますが、曖昧な表現で目標を設定するのでは現実的に考えても達成可能とはなりにくいでしょう。そこで、明確な表現の目標設定を行う事で効率よく達成に向けた道筋が見えるでしょうし、それによってモチベーションも上がる事が期待できます。

SMARTの法則は目標設定のためのフレームワークです。したがって、いくら達成しやすい様な目標を立てたとしても、ゴールに辿り着くための計画や具体的な行動が必要です。今回は、立てた目標に対してどのようにして近づいていくかの行動面を考えてみたいと思います。

最初に考えておきたいことは、いつまでにその目標を達成するかの期日を設定することです。会社勤めの方なら分かりやすいと思いますが、「今月の目標」と言った表現をしますよね。今月中にこれだけの事を達成しようというということですから、ゴールの日付(この場合なら月末の最終日)を決めてしまうということです。少なくとも、ゴールにあたる期日が曖昧になっていたら、「今日は休み、明日からやろう」となりそうですよね。毎日がそんな調子になってしまうと、目標を立てた意味が無くなってしまいます。ですから、目標が決まったら次に期日を設定して、実際に動きやすくすることが大事です。

先に「今月の目標」のような例を挙げましたが、もっと長いスパンで考える目標設定もあるんじゃないでしょうか。例えば「中期目標」のような場合です。「〇年計画」のような表現になっているかもしれませんが、あまり先の期日しか設定していなければ行動するうえでのペース配分等が分かりにくくなりませんか。そのような場合は、もう少し期間を細かく区切って途中での目標を設定してみてはどうでしょう。最終の期日が3~5年後で、それまで中間目標が何も無ければ、行動はやりづらいと思います。期間を細分化してそれぞれに目標の到達の具合も設定しておけば、自身の進捗状況の確認も一緒に行なう事が出来ます。まとめて管理もできますので、月間目標であったとしても中間目標は考慮しておいて損はないでしょう。

期間、あるいは期限を区切ったとしても、その期間中にどのような目標を設定しているかも大事ですね。どんなことをするかが明確になっていなければ、どうしてもやり易そうなところから手を付けることになるでしょう。そうなると行動が偏ってくるかもしれませんし、なによりも漏れや抜けが出て来る可能性があります。また、最初の行動の結果を受けて次のアクションを起こすような場合に、やり易そうだからという理由で次の工程を先にやってしまっては、かえっておかしな具合になるかもしれません。中間目標であっても、しっかりとした行動計画を作っておいて、処理の流れや順序などについても決めておく方が無難なようですね。

その中間目標に対して、あるいは全体の目標に対して、今どの程度の進み具合かという進捗状況も知っておく必要があります。どのような形式で表現すればパッと見て理解しやすいか、決まった形式があるわけではありませんので、分かりやすそうな方法を考えていただければよいと思いますが、大事な事は「可視化」です。一目でどのような状況かが分かるようにしましょうという事ですね。遅れている部分はどこか、逆に調子よく進んでいるところはどの部分かなどが分かれば、どんな対策を行なえば修正できるかの見当もつくでしょう。一時的に注力した方が良いかどうかの判断も出来ると思います。

こうして、何をすればよいかを明確にしなければなりません。もちろん、これは最初に目標を設定した時点で「どんな行動が必要か」といったことは決めているはずです。ですが、計画というものはどうしても突発的なトラブルが発生したりして、思ったようには事が進まないことも起きて来るでしょう。ですから、常に進捗状況を把握して、必要に応じて行動計画の修正も考えなくてはなりません。いくら最初に決めたといっても、臨機応変に対処するためには変更や修正は必要になってきます。柔軟な対応も必要な処置として考えておいてください。

さて、もう一つ問題があるかもしれません。最初に決めた目標を達成したいわけですから、せっかくならキチンとした形でまとめ上げたいと考えるのは当然です。しかし、それが行き過ぎて完璧主義になってしまっては、かえって前に進みにくくなります。あまり雑な状況で「良し」とするのもどうかとは思いますが、完璧に仕上げないと気が済まないようにはしなくてもよいでしょう。ただ、行動や中間目標などの中には、最終的な目標達成に絶対欠かせないものも含まれているでしょう。キチンと仕上げる必要が有るもの、クリアできていたらそれでよいもの、それくらいの大雑把な分け方でそれぞれを判断するといった方法も、ちょっと頭の隅にでも置いておいていただければなと思います。

ですから、上手くやろうとしなくても構いません。「クリアできていればそれで良し」くらいに、肩の力を抜いて取り組んでいただければよいと思います。むしろ、その方が良い結果が得られるかもしれませんよ。

ここまで、目標達成に向けた行動について考えて来ましたが、あまり目を吊り上げて真剣に頑張るのも草臥れますので、適当に力を抜く事も忘れないでいただければと思います。これについては「自分へのご褒美を」という考え方がありますが、これを行う事に対しては賛否両論あるようです。賛成派の意見では「モチベーションが上がる」という意味合いのモノが多いようですね。反対派の意見では「モノで釣るな」や「自分に甘くなる」といった内容が多い気がします。どちらでも構いませんが、時々は気を抜くタイミングがあっても構わないという程度の軽い気持ちで捉えればよいでしょう。

気楽な気持ちで取り組んでみてください。


 

 

最近、よく目に飛び込んでくる漢字の一つに「老」という文字があります。目にする度に心の中でちょっと反発する気持ちが湧いてきますが、冷静に考えれば仕方が無い事だと思います。頭では理解できるのですが気持ちの方がなんとなく反発してしまうんですね。認めたくないというのでしょうか。そう言いながらも、じつは身体的に以前ほどの無理が出来なくなってきているのも事実です。

私の辺りの年齢になってくると、大きく分けて二つの方向に気持ちが向くようです。一つ目は過去に気持ちが向かう人たちのグループ、もう一つは未来に目を向けようと言う人達のグループ、しっかりと線引きが出来るわけではありませんが、だいたいの傾向として気持ちが向いたり目を向けたりする先が過去のグループと未来のグループに別れるようです。

悪評(?)として話題に昇るのは「過去に気持ちが向かう人達」の言動が多いようですね。「昔は良かった」とか、「俺たちが若い頃は・・・」とか、中には「今の若い連中は・・・」等の言葉を吐いている人たちが結構居るようです。誰だって年齢が上がれば多少はそんな気持ちになる事もあると思います。私自身もそのように思う事がありますので理解はできるのですが、それをわざわざ口に出して言うほどの事でもないと思うんです。皆さんはどの様に感じますか?

こんな言葉を投げかけられたとしたら、聞かされ人は決していい気分ではないと思います。むしろ、イヤ~な気持ちになるでしょう。「また始まった・・・」と諦め顔で周囲の人に見られている状況だろうと思いますが、言葉を吐いた当人はそれを理解出来ているでしょうか。こういった人を指して「老害」と言うのでしょうね。

「昔は良かった」、「俺たちが若い頃は・・・」、「今の若い連中は・・・」、こんな言葉を吐いている人たちは、時代が変わったのが分からないのでしょうか。確かに、昔は色々と不便な事が多かったでしょうから、今以上に手間のかかる仕事もたくさんあった事でしょう。それが大変なので技術が進歩して便利な時代になったのではないでしょうか。

タレントの高田純次さんでしたか、名言が有って私も気に入っている言葉なのですが、このような事を仰っています。「年を取ってからやってはいけないこと」という事で、3つの事を挙げているのですが、「説教、昔話、自慢話」、この3つを控えるべきだというアドバイスです。確かに、こんな話は誰も聞きたくはありませんよね。しゃべっている当人だけが悦にいって、気が付いたら周囲に誰も居なくなっていたなんてことになりかねません。この言葉が名言とされるのは、誰に対しても相手に敬意をもって接する事、年齢に関わらず対等に相手の人格を認めることが必要だからでしょう。さらに、自分自身も成長し続けるためには欠かせないことだからですね。

では、もう一方の未来に気持ちが向く人はどのようなタイプでしょうか。ある程度の年齢になると社会人は自分が所属していたコミュニティから離れる時期がやってきます。会社勤めの人は身を持って感じる時期が来るでしょうからご存じだと思いますが、その後をどのように過ごすかが少し違ってくるようです。自分が属していたコミュニティや組織を「卒業した」といった感覚で、以後は距離を置くようにしましょうということですね。そして、自分で何かを始めようと動き出す人たちが多いように感じます。

このような人たちは気持ちが前向きになるでしょうから、「昔は・・・」といったことは言わないんじゃないかと思います。それよりも、今迄の自分の経験や知識を生かして別の事を始めるとか、経験の無い新しいことをやってみるとか、そんな事を始める人も多いようです。興味を持ったものがあればやってみるというのは、脳への刺激という意味でも良いことのようですね。

つまるところ、脳の問題のような気がします。普段の生活で思っている事やその表れとしての言動が影響して自分の考え方を形作っていくのでしょうし、さらにその人本人の性格なども相まって人物が出来ていくのでしょう。それらによって脳もその人仕様にカスタマイズされていくのだと思います。それがあまり良い形になっていないのが老害と呼ばれるような人の脳のスタイルなんじゃないかと考えてしまうのですが、どうでしょうか。

ヒトの脳には成長のピークがあって、それを過ぎると衰えていくことは分かりますが、自分の脳に対していくらかでも知っているかどうかで、その後の脳の使い方が変わってきそうな気がします。

たとえば、生まれてしばらくの間(0~3歳くらいの乳幼児期)には脳の体積が大きく増えます。身体も精神もどんどん発育していって人間としての基礎的な状態を作り上げる時期ですね。脳も機能的な面でもどんどんと発達していき、神経細胞のネットワークも作られていきます。それが成長を続け、青少年期などに体験することも脳の中で処理が出来るように脳内のネットワークがどんどん広がっていきます。まだ脳は新しい状態ですから、情報処理能力のピークは20代頃じゃないかと考えられています。

それ以後もネットワークはどんどん増えていきますが、それにつれて知識やスキルも身に付いていきますので、出来る事や経験の量が増えていきます。そういった新しいネットワークも作りながら、それでも過去に積み上げてきた知識や経験も定着していれば活用が可能な状態にありますので、それらを活かすピークの時期も別に存在するんですね。これは経験を積んだ状態が必要になりますので、人生の中では加齢とともに高まっていき、60代~80代あたりがピークとなります。過去の知識や経験を「結晶性知能」と称しますが、経験が無ければ成り立たないモノですから人生の後半にピークが来るというわけですね。

若いうちは経験を積まなければ分からない事が沢山あります。しかし、上記のようなことを知れば、若い人たちとベテラン勢が同じ土俵で争う必要はないような気がしませんか。棲み分けとまでは言わないとしても、役割を分けて考える事が出来れば特に大きな問題も起きないような気もしますが、どうでしょうか。そう考えると、老害と呼ばれる人(全部ではありませんが)は、ちょっと居場所を変えればまだまだ活かせる技能があると思います。ただ、それが姥捨て山のような場所にするかどうかは、本人次第かもしれません。