サポートライター みけ の独り言 -23ページ目

サポートライター みけ の独り言

電子書籍のはなし、文章のはなし、ことばのはなし、書く事、話すこと、ゆめのたねで喋っていることなど、言葉にまつわるいろいろなことを中心に、書いてみたいと思っています。

 

今回は時間について考えてみようと思いますが、テーマが大きいので何回か続くことになりそうな気がしています。

時間について考える時、よく出て来る話題としては以下のようなものを挙げる事が出来ます。

・時間は誰もが同じく与えられる
・時間は活用するもの
・時間は生み出すもの
・時間は追いかけるものか、それとも追いかけられるものか
・時間は絶対か、それとも相対か
・時間は未来から過去に向かって流れていく
・時間術
・時短術

まだまだ出て来るかもしれませんが、ざっと思いついただけでもこれくらいの話題があるんですね。ただ、全体を眺めてたうえで世間一般の考え方を重ねてみると、時間を短くして何事も手早く処理することが良いとされているような印象がありますが、どうでしょうか。また、時間を無駄なく使うという意味では、手帳の使い方やスケジュール管理なども時間を有効に使う手段として挙げる事が出来ます。

このように時間については「いかに効率よく作業するか」という辺りが一番大きな課題になりそうですね。そのうえでの「時間の使い方」ということになりますが、まずは「時間をどのように捉えるか」から考えてみたいと思います。よく言われる言葉ですが、「時間は誰にも等しく、毎日24時間が与えられている」という事について考えてみたいと思います。

「誰にも等しく~」という辺り、「どんな人に対しても、時間だけは毎日24時間として平等に与えられている」といった意味で述べられると思いますが、果たして本当にそうでしょうか。それとも、どこかに違和感を感じている私はちょっとヘンなへそ曲がりなのでしょうか。

たとえば、二人の人物がいたとします。全く同じような人格で知識も技量も経験も全部が似たり寄ったりという場合は「平等に~」と考えてよいかも知れません。しかし、実際には様々な面で個人差があります。たった二人であったとしても、いろいろな面でそれぞれが長けている部分とそうでない部分があるでしょう。あるいは詳しい人と疎い人に分かれるかもしれません。

例えば、両者が同じある作業を行うことになった場合、その作業に慣れている人ならば手際よく効率よく進めていく事が出来ますし、結果に対する周囲の評価も及第点、誰もが満足のいくものになるでしょう。それに対して慣れていない人が行うと、当然そんな出来栄えは期待できませんし、時間内に仕上がらないかもしれません。これでは、両者に同じ時間が与えられたと言っても結果に雲泥の差が出て来るのは明らかです。どちらの結果を評価するかといわれたら、慣れた人の方を選びますよね。

与えられるという面で考えると、時間は確かに平等でしょう。しかし、それまでのそれぞれの人の経験や知識、技術の積み重ねの度合いによって、同じ時間であっても結果は違った物になります。時間の使い方を配分として考えると、たとえ同じ時間の長さであっても差が出て来ます。そのうえで、得られる結果をもって評価されるとしたら、同じ時間を与えたというには無理があると思うのですがどうでしょうか。

同じ時間の長さを与えたと言っても、その使い方まで含めて考えていくと、その人達の背景に大きな違いがある場合は決して時間は平等とは言えないような気がしませんか。

また、同じ時間の長さをどのように感じるかという点で考えたとしても、その人物の年齢によって過ごし方が変わってきますので、時間の長さの感じ方はずいぶん違ったものになります。なぜなら、(実感している人が多いと思いますが)小学生の頃に感じた一年間の長さと中高年になったときに感じる一年間の長さって、全然違いますよね。これは同一人物であっても複数の人たちの意見であっても、ほぼ同じように感じていると思います。

詰まるところ、何をもって「時間の長さは同じじゃない」と感じるかといえば、時間をどのように捉えるかの尺度や物差しといった点と、それをどのように受け止めるかという本人の感じ方、何かを処理するときの習熟度、これらの点にあると思いますが、どうでしょうか。ただし、この場合は原則として「その人個人」の中での事です、誰かと比較しているわけではありません。

時間を時計やタイマーのようなもので計測すれば必ず同じ長さ(量)になります。物理的にはそれで構いません。しかし、時間の経過を感じ取る人間のような存在がそこにいなかったとすれば、時間は有っても無くても分かりません。無いに等しいということになります。人間が居て、はじめて時間も存在することになるわけですね。

先程は時間の使い方として、同じ作業を行った時の違いを書きましたが、同じ長さの時間を過ごしていても感じ方が違うとどうなるでしょうか。身近な例では、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいますがイヤな時間やツラい時間はとても長く感じます。これは誰もが何度も経験して実感していることでしょう。つまり、時間は感じ方で長くも短くもなるということですね。その根底には知識やスキルの習熟度やその時のメンタルの状態が影響しているようです。

ということは、今は慣れているので素早く処理が出来るけれども、かつてはそうはいかなかった時期があったという事ですね。過去に努力して身に付ける時間を過ごしてきたので、今は短時間で処理が出来るということです。過去の時間を「今」活用しているわけですから、生涯のスパンで俯瞰すれば、その人はその処理に関わる時間の合計は決して短くはないでしょう。場合によっては、むしろ長くなるかもしれません。

ただし、この場合は過去の努力した人であれば似たような課題でも、自分の知識やスキル等の経験を応用すればきっと対処が可能でしょう。しかし、それが無い人、今はじめてこの課題に取り組んだ人ならば、応用問題にも対応できるようにするためには、これからの努力が必要になります。

このように考えていくと、「どんな人に対しても、時間だけは毎日24時間として平等に与えられている」という考え方には大きな落とし穴があるような気がします。過去の経験によって学んだ時間が「今」役に立つので短時間で処理が出来るということですから、若いうちは(可能な範囲でよいので)できるだけいろいろな経験を積んでおいた方が良いことになります。「若い時は金を払ってでも経験を積んでおけ」(こんな言葉だったような)というような言葉がありますが、それにも通じる話ですね。

 

苦労するのが嫌で、頑張っているフリをして実際にはテキトーに手を抜いて苦労を避けていた人は、後になってとんでもないツケを払わされることになるかもしれません。ご注意を。

 

 

ずいぶん前になりますが、心の法則といった内容の話を書いたことがありましたが、今回もいささか似たような話になるかもしれません。今回は「鏡の法則」と呼ばれる話を取り上げたいと思います。

鏡の法則というのは、「自分の身の回りの出来事や人間関係は、自分自身の内面や感情を映し出す鏡である」という考え方なのだそうです。この法則によると、自分を取り巻く周囲の人たちがどのように振る舞うかは自分自身の行動や態度、つまり当人がどんな考えや思いを持っているかが反映された結果だと捉えるわけです。そうすると、例えば誰かとの間の人間関係が好ましい状態ではないので改善しようとするとき、相手を非難したり変えようとしたりするのではなくて、まず自分の内面を顧みて相手に対してどのような思いを抱いているかを考えたうえで、自分の内面の状態を変える事の方が重要だとするものです。法則と名がついていますので、誰にでも当てはまるという事ですね。

つまり、周囲の人たちや身の回りで起きる出来事などはすべて、自分の状態を映し出す鏡のような存在だと捉えるわけですね。どのようなメカニズムで自分の内面の様子が周囲の人たちに伝わるのかは分かりませんが、その前に、果たして自分自身がどんな内面の様子になっているかは分かるのでしょうか。

例えば、仮に自分が誰かに対して良い感情を持っていなかったとすれば、相手も私に対して良い感情を持たないことになります。顔を合わせる機会が無ければ相手がどのような感情を抱いているかは分からないままになりますが、何らかの理由で対面した時などでそれが出て来るという事になるようですね。

また、私であれば、イヤな(?)人物がいればその人を変えようとするか何とかしようと思うでしょうし、好ましくない出来事が起きれば文句を言って何とかしようとするでしょう。しかし、鏡の法則に当てはめて考えるなら、嫌な相手や出来事をどうにかしようとするよりも自分をなんとかした方が良いということになります。このあたりのことは自己啓発系の本などに必ず書かれていることですね。

この考え方、捉え方を進めていくと、どんどん違う事が出て来ましたので、紹介していきます。

一つ目は「自分しだいでどうにでも出来る」というということです。自分の心の中の思いが外の世界に表れているというのが鏡の法則なのですから、自分の思いが変われば自分を取り巻く周囲の状況も人間関係も変化するということですよね。自分の周囲ですからさほど広い世界ではありませんが、周囲の人や物が好ましい状況に変わるのであれば、自分の思いと似たような人物や出来事が集まってくる、類は友を呼ぶ状況が成立しますよね。

二つ目として、これを時間軸で考えると、最初に自分の思いがあって、それが時間の経過とともにそれにふさわしいように周囲の状況に変化していくことになります。自分が始まりで周囲の状況の好転が結果だとすれば、原因と結果の法則そのものも成立するんですよね。

三つ目、自分の思いが最初にあって、それに合わせて周囲が変化を始めるのですから、自分の周囲を取り巻く世界の中心に自分がいる事にもなりそうです。また、これが分かって思いを変えた人は皆、その人の世界の中心にその人自身がいることになります。それじゃ、それぞれが世界の中心にいるなら互いに衝突することは無いのかという疑問が出て来ませんか。しかし、それぞれの人の思いは微妙に違いますので、同じ場所で完全一致することはまず無いでしょう。さらに加えると、それぞれの思いの違いによって互いに精神的に距離が出来るでしょうから、似た者同士でかどうかの度合いによっても変わってくるんじゃないでしょうか。始まりがそれぞれの心の思いですから、物理的に衝突することは考えなくてよいと思います。

考えてみたら、この辺りの事も以前に心の法則という事で書いたことがあったようです。今回のような話ではありませんでしたが・・・。

話がだいぶ逸れたようなので戻しますが、ここまで調子の良い事ばかり書きましたので、少し注意が必要と思ったことを追加しておきます。

自分の思いが外に表れて自分を映し出す鏡のような存在になるということですから、自分が誰かに否定的な思いを持っていたとすれば、相手も同様の気持ちを持つだろうということですね。そして、自分が変われば~と書きましたが、変わるためには自分について内省してみる必要があります。なぜ相手はこのような態度を取るのか、自分の中にどんな思いがあってこうなっているんだろうと考えてみなければなりません。それをすっ飛ばして先に行こうとすると、なんで私が変わらなきゃいけないんだという方向に考えてしまうかもしれないからです。

自分の中にどんな思いがあるのか、周囲の人たちや出来事を通して出ないと、なかなか自分を顧みることはしない人が多いと思います。考えようにもよりますが、好ましくない状況になった時こそ、自分を顧みて軌道修正するためのチャンスなのかもしれません。すぐにそこに気が付くかどうかが分れ道になりそうですね。

そんな捉え方が出来るようになれば、鏡の法則は自己成長を遂げるためのツールにも使える優れものだという事になります。あとは、こちらがそれに気が付くかどうか・・・。


 

 

今回も「感謝すること」について考えてみたいと思います。ただ、前回と似たような内容ではいけませんので、今回は「感謝と夢の実現」といった切り口で考えてみることにします。ここで言う「夢」とは「自分が実現させたい、未来の理想的な自分の姿」といったところでしょうか、現実逃避ではなくて自分が実現させたい理想的な自分の姿に変化をさせた上での結果を享受しようという意図、そんなところです。そのために必要な自分の側の要素の一つとして「感謝」が挙げられるということです。

そして、その感謝も(前回書いたような)絶対の感謝といった境地に近づくほどよいということなんですね。ですから、前回も書いたような「森羅万象、お前を除くすべてに感謝」ではなくて、この中の「お前」も含めて感謝する姿勢が必要なんです。しかし、そのためには自分の考え方や捉え方を変えなくてはいけませんね。そんな事を言っても、電車の切替えポイントじゃないので、すぐに気持ちや捉え方を変えてしまうという事は簡単ではないでしょう。

では、自分の中のどこを変えたら考え方や捉え方も変わるのでしょうか。話がスピリチュアル的になってきましたが、言葉を変えるのが手っ取り早いようです。実際に多くの本に「言葉を変えることで考え方も変わってくる」という例が書かれています。そうであるならば、「そんなことは無いだろう」とか、「そうそううまくいくわけがない」と考えた人はうまくいかないでしょうし、「なるほど、ちょっとやってみようか。うまくいくかもしれない」と思った人は、その思いの通りにうまく事が運びやすくなるということになりませんか。なぜなら、誰かに対してではなくて自分に対するコメントを発する時、「心の中で思ったこと」と「音声として発した言葉」は同じものだからです。誰かに対して声を発するときの言葉だと、何か相手の人との間で駆け引きがあったりするかもしれません。ですから、思っている事とは違った別の事を話す可能性が出て来ますが、自分に対しての場合にウソを言っても仕方がありませんからね。

心の中に思いがあって、それが形になって表現されて表に出てきたのが音声であったり態度や表情であったりすると考えれば、言葉を変えるという事は思いを変える事に繋がる事になります。ここで、「思いが変わらなければ言葉は変わらない」という事は事実だろうと思いますが、この両者が表裏一体のものであるならば、思いと言葉のどちらかを先に変えてしまって、残った方を引っ張ってくるという事だって出来そうな話だとは思いませんか。ですから、意識的に言葉を先に変えてしまう事で「形から入って中身を変えていく」かのようにして思いを変化させていく、これは有りじゃないですか。そしてこれが上手くできれば、比較的ラクに自分を変えてしまう事も出来そうだと思いませんか。

ここで大事な事は、最初のうちは意識してしないといけないという事です。なにしろ、「感謝という事をあまり考えなかった人」にとって、あるいは「〇〇〇をしてもらったからお礼として感謝する人」にとって、とにかく「誰に対して」でも「何に対して」でもいいから感謝しろと言ったところで、クセになっていなければすぐに忘れてしまいます。それでは自分を変えるなんてできませんよね。行動でも口ぐせのように言う言葉であっても、継続して行わなければ習慣にはなりません。

逆に一度習慣として身に付いてしまえば、これほど強いモノはありません。習慣になってしまえば、自動的に自分を突き動かして目的地まで連れていってくれるわけですから。そうやって感謝すること自体を習慣にまで持っていく事が出来れば、ご自分の気分もよくなっていくでしょうし、気持ちよくなっていくと思います。ストレス等もどんどん軽減していくでしょう。この辺りは前回書いた通りです。

また、感謝を続けているとまるで引き寄せられるかのように良いものがどんどん集まってきます。どんなものが集まりやすくなるかというと、自分が「こうなりたい」と思う姿に近づくうえで役立ちそうなものが多くなってくるんですね。情報であったり、キーパーソンなどとの出会いであったり、必要な手順を教えてくれる人の事もあるでしょう。協力者かもしれません。広く考えれば、運や縁だって引き寄せられてくるでしょう。

こういった形で近寄ってきた物事は大事に扱う必要があります。なぜなら、それには必ず自分と似たようなところがどこかにあるからです。いわゆる「似た者」ですね。世の中でよく見られることですが、人が集まって仲良くコミュニティのような形になっている場合、似たようなタイプの人が多く集まっていると思いませんか。同じようなタイプの人たちほどお互いのことが分かるために、集まっていても居心地が良いんですね。「類は友を呼ぶ」といった言葉がありますが、まさにそんな状況を作っているんです。

ですから、もしここで自分が変な邪念を起こしてしまったら(例えば「自分だけ~」というような)、せっかく引き寄せて集まってくれたモノがムダになってしまいます。そして、ヘンな邪念と同じような情報や邪念を持った人物などが集まってくるようになってしまいます。そんなことになると、自分が思い描いている理想像に近づく事は出来なくなりますよね。なぜなら、皆が「自分だけ~」の考えに走りやすい人ばかりだからです。

話は替わりますが、もう何十年も前のこと。私がパソコンを少しづつ学び始めた頃に言われた、とても印象に残っている言葉があります。それは「パソコンが思うように動かないのではない。やったようにしか動かないんだ」というものでした。「こうしたい」「このように動いて欲しい」といくら強く思ったとしても、そのようにプログラムを作るスキルが無ければ決してうまくはいかないという意味でしょう。話はパソコンの話題でしたが、身の回りの出来事全般に対しても言える言葉じゃないかなと思います。最近になって気が付いたことではありますが・・・。

例えが抹香臭く感じられるかもしれませんが、「こうなりたい」という思いがあるとそれが「スタート(原因)」になって、「結果」としてそれが成就する、あるいは成就しないということになりますね。その時に必要な事は、間の過程で本人の行動や努力という事なのですが、ここに感謝が要素として加わることで加速する事が出来るという事のようです。こう考えると、原因と結果が出揃っています。ここに縁が加わると、結果が良い方に変化していったり結果を得るのが早くなったりするという事のようですね。感謝は「縁」ということになるのでしょう。

 

「こうなりたい」という姿は誰もが持っています。一人でも多くの人がそれを成就できれば、もっと楽しい世の中になりそうですね。