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サポートライター みけ の独り言

電子書籍のはなし、文章のはなし、ことばのはなし、書く事、話すこと、ゆめのたねで喋っていることなど、言葉にまつわるいろいろなことを中心に、書いてみたいと思っています。

 

前回は「過剰な自信」の話をしましたので、今回はその反対の「自信を持てない」話をしようと思います。どうでもいいことかもしれませんが、最初に「自信がない」と「自信を持てない」の違いについて確認しておきます。

「自信がない」「自信を持てない」、この二つの言葉はどちらも聞く機会は多くないように感じます。どちらもその人にとっては不利になりそうな言葉ですね。ただ、「自信がない」という時はその人のメンタルの状態を表しているようですね。また、「何に対して自信がないのか」という事があいまいな気がします。なので、おそらく「何事に対しても自信がない」という状態なのでしょう。それに対して「自信を持てない」といった場合は、対象になる行為(多くはその人がしなければならない行動)が明確になっているようです。ちゃんとやり遂げることが出来るかどうかが分からない、そんな意味のようですね、中には謙虚さを装っているだけの人がいるかもしれませんが。

大人がこんな言葉を吐くことは滅多に無いと思います。先に挙げたように「自分が不利になる」可能性が高くなるかもしれませんから。ある仕事を誰に任せるかの話になっている時にこんな言葉を口に出してしまうと、「君に自信がないなら別の人に任せよう」なんてことになりかねません。そんなことになったら、せっかく掴みかけたチャンスを逃してしまうことになります。また、任せてもらえたとしても、評価の面に多少の影響を及ぼすかもしれません。

もし「自信が持てない」がホンネの言葉だったとすれば、その人は何が原因でこう考えたのでしょうか。先ず考えられることは、その人は自分の事を過小評価しているという事でしょう。ひょっとしたら、その逆の場合もあるかもしれません。完璧に仕上げないと気が済まないので「(そのレベルで仕上げるだけの)自信が持てない」かもしれませんが・・・。ただ、実際には過小評価の方が多いでしょうね。

その他にも、優柔不断で自分ではなかなか決断できないような場合も、それが理由で自信が持てないのかもしれません。決める事が出来なければ仕事はそこで停止してしまいます。決めてもその結果に責任が持てないという理由かもしれませんが、それはまた別の話。前に進めなければそれだけで失敗と判断されるかもしれませんので、なんとかしてでも仕事を前に進ませる努力をしましょう。

 

人付き合いが苦手だから一人でやりたいと言う人もいます。それならば一人でやってもよいのですが、それだとどこかで漏れがあった場合に困りますが、自分一人だけだと確かめようがないので「自信が持てない」という場合もあるでしょう。過去に何らかの失敗があった場合、気持ちの中でそれをずっと掴んで引き摺っている人もいます。あんなことは起きて欲しくないから頑張ろうと思うけれども「自信が持てない」場合だって、あるかもしれません。

中には「インポスター症候群」という例もあります。インポスター症候群とは、客観的に成功している事実があるのにもかかわらず、自分に自信がもてないと感じてしまう心理的な特性のことをいいます。周囲からの評価が高いのに、自分ではそれを否定してしまうんですね。これはツラいと思いますが、こんな場合はカウンセリングなどの治療やケアを受けた方が良いでしょうね。

いろいろなケースがあるでしょうし、そんな背景は人によって異なります。そうなると、それに応じて対処の方法も違ってきます。一括りにすることは出来ませんが、いくつかの対処方法も挙げておこうと思います。

例えば過去の失敗を引きずっている場合なら、そこに成功の事実を上書きして消してしまう方法が良さそうですね。そのためには小さくて良いので成功体験を何度も積み重ねていくようにする方法が考えられます。「うまく出来た」と実感できればよいでしょう。何でも構いませんし、簡単な事の方が取り組みやすいでしょう。とは言っても、いくら成功体験であっても一度や二度ではなかなか気持ちが切り替わることは難しいと思います。しかし、小さくても回数を重ねていくことで「ひょっとしたら自分は成功しやすい体質かも・・・」なんて気持ちに少しずつでも変化させる事が出来たら、それ自体が成功ですよね。気持ちが変われば「自信が持てない」気持ちも、次第に薄くなっていくでしょう。

また、過去の失敗だったり出来事だったりの見方や捉え方、切り口を変えてみるという方法もあります。失敗したことに対して「ああすればよかった」とか、「こうすればまだマシだった」とか考えるよりも、失敗から学んだことを振返ってみませんか。それが役に立った経験が無いか思い出してみるという方法もあります。自分の見方の枠組みを変えてしまう方法です。捉え方が変われば、失敗も失敗でなくなるかもしれません。むしろ、必要な経験だったと気づけば、なお良いでしょう。

案外、自分の思考のクセで自信が持てないのかもしれません。ちょっとずつでも、そのクセを直す工夫をしてみてはどうでしょうか。何よりも、自分を信じましょう。

 

 

世の中には何をするにあたっても自信満々で臨むヒトがいる反面、全く自信が持てずに一歩が踏み出せずチャンスを逃してしまうヒトもいます。あまりに自信がある人はかえって嫌われる傾向があるようにも感じますが、自信が全くない人よりはよいかもしれません。ちょっとうるさく感じる時もありますが、それはその人のキャラクターによる場合が多いようですね。この差は何が原因なんでしょう。

先ず、自信って何でしょうね。

自信とは「自分の能力や価値、言動の正しさを信じて疑わない心理状態のこと」と書かれたものを見つけました。しかし、これでは何か物足りない様な気がします。特に、何かに挑戦しようという時には自信があるか無いかでその人の行動が大きく違ってきます。自信がある場合なら「自分なら出来る、きっとできる」と自分を肯定的に捉えて成功した時のイメージを思い浮かべるでしょう。もしも自信が無ければ、よほど自分を奮い立たせなければこんな思いになるのは難しいんじゃないでしょうか。

ところが、「自分なら出来る」という自信が過剰になってくると態度も少し変わってくるようです。態度が傲慢で傍若無人になったり饒舌になったり、周囲の人が閉口するようなものになるかもしれません。こうなると「自信」ではなくて「過信」でしょう。

「自分なら出来る」と思う自信(過信じゃありませんよ)の場合、自己肯定感や自己効力感があって、それに裏打ちされたうえでのものですから、その前に成功体験や失敗の克服などの経験を積んだうえでのものです。

つまり、自信は「過去の体験を通して積み上げた実績や、それを成し遂げてきた自分に対する信頼感」などから来るものと考える事が出来ます。ですから、「(小さくてもよいので)成功体験を積み重ねてきた実績」があって、「その自分に対する肯定的な思いや信頼」が必要です。また、「過去の学びや経験を通して身に付けてきた知識やスキル」、「良好な人間関係が築けている状況」などの過去や現在も必要です。そして未来への前向きな姿勢があってはじめて、自信をもって事に臨む事が出来るという事ですね。その根底には「自分なら出来る」という自分への信頼感(言い換えると自己効力感)があると考えられます。

しかし、世の中には冒頭に書いたように、過剰な自信ばかりを強調して(時には振りかざして)くるヒトもいます。「この人たちはいったい何なんだ?」といつも思うのですが、どうやら(全部が全部とは限りませんが)共通点があるようです。

調べてみたのですが、そこにあるのは「すぐにマウントを取って他人を見下そうとする人」と同じようなものでした。そして、自分に対してとにかく評価が甘いという特徴や、都合が悪いことはすべて他人の責任とする考え方があるようです。

詳しく見ていきます。
まず、自分に対する過大評価があります。これを「ダニング・クルーガー効果」というのだそうですが、知識やスキルが不足している人ほど、自分の能力を過大に評価して自信過剰になるという心理現象の名前だそうです。こんな人、身の回りにいませんか? 「オレなら出来る」と豪語して割り込んできて、失敗したら「アイツが邪魔をした」と他人のせいにするような人ですね。周囲の人は「アイツが割り込んできてぶち壊しただけじゃないか」と憤慨するような失敗を引き起こす人物です。結局のところ、その人の視野が狭くて他の事情などが分からないにもかかわらず、「これが全て」と勘違いすることで起きる失敗です。

また、ナルシシズム(自己愛)の傾向もあるのだそうです。誰だって、自分は特別だと思いたいでしょう。また、何かすれば賞賛されたいでしょうし、注目もされたいと思うのは不思議ではありません。ただ、これが過剰になってくると「承認欲求」のような形になるのかもしれません。

このように、何もしていない間は自分をなんとか大きく見せたいと心の中で思っているにもかかわらず、それを発揮できる機会があっても、自分からは動き出さない場合もあるようです。なぜなら、失敗が怖いから。あるコメントでは「ガラスもプライド」と揶揄していましたが、出来ると豪語しているのに失敗したら困るというように、自分の弱さや失敗を認めるのがイヤという気持ちがとても強いようですね。また、失敗してしまうと自分のプライドが傷ついてしまいますのでそれが怖いという事もあります。また、周囲に知られることを恐れるあまり、普段は自信過剰な態度を「演じている」場合もあるそうです。

こういった気持も、他人と自分を比べることから来ているのではないかと感じるのですが、どうでしょうか。他人を見下すことで自分を相対的に高めようとするのでしょう。劣等感の裏返しのような気もしますが、自己肯定感が低いのでしょう。それをカバーするためにも過剰な自信をもって自分を甘くしないと自己肯定感が保てないのかもしれません。

特に能力が低い人ほど自己認識が甘くなり、「自分はできている」と思い込んでしまう現象がよく見られます。これは「メタ認知能力」の問題だとする意見がありました。もちろん、低いことが原因ですね。自分の能力を客観的に認識する力(つまりメタ認知能力)が低いため、実力と自信(見栄)を混同してしまった状態で、じつはまったく一致していない状態だという事です。

他にも、自信過剰気味の人は他人からの耳の痛い忠告などをなかなか受け入れない傾向があるという特徴もあるとの事でした。

では自信がある場合、自信がもたらす効果やメリットにも言及しておきたいと思います。自信を持つと、何か新しいことに挑戦したら出来そうだという気持ちになる事はありませんか。また、失敗をしても再度頑張って乗り越えようと努力を続けて、困難な状況であっても対応できるようになるんじゃないですか。その結果として、自分の行動や思考などのパフォーマンスが向上するでしょうし、周囲からも評価されやすくなるでしょう。メンタルの面でも安定するでしょうから、人生の全般にわたってポジティブな好循環が生まれます。

そんなこんなの源が自分の中の自信から始まるなら、先ずは何か小さなことから成功体験を積み上げ得るところから始めて見ませんか、自信を持つために。


 

 

以前にこの場所で「棚卸し」と付けたタイトルで文章を書きましたが、今回はその番外編という事でもう一度考えてみようと思います。棚卸しの時には知識、技術、経験の3つを取り上げたのですが、そこから得られる学びについては書いていませんでしたので、急遽取り上げました。

「学び」といっても、知識や技術を得る為の学びもあれば経験によって得られる学びもあると思います。知識や技術の場合は学ぶことで得られますので、直接的に仕事などに繋がるものですね。そこから自分なりに磨き上げながら、さらに応用しつつ増やしたり広げたりしていくものです。それに対して、経験によって得られる学びはその時にも得られますが、それよりも後で振り返ってみて気が付く学びもあれば、経験を通して感じたことの言語にして誰かに伝えようとして気が付く、そんな場合もあるように思います。ですから、この場合は間接的というのでしょうか、経験自体のものとは違った内容が学びになることだってあるかもしれません。

こう考えると、知識や技術の場合と経験の場合では学びの質が少し違うように思いますが、皆さんはどの様に感じますか? 一番の違いは、知識や技術の場合は「教わる」という受け身の過程を経ますので、その場にいるであろう全員が同じ内容を習得することが目的になります。それに対して経験から得た学びの場合、学ぶ側の力量によって差が出て来るのが普通です。言い換えれば、「どこまで掘り下げて、あるいは広げることによって、自分のモノにできるか」という前向きな考え方が無いと得られません。その姿勢があるからこそ、「学び得たモノの差」が、後に時間が経ってから力量の差として表れて来るんだと思います。

今は学校教育が中心ですから、学ぶ側の全員が同じ内容を「教わる」過程を通して身に付けていきます。ですから、生徒は全員、学ぶ量は同じはずです。しかし、本人のいろいろな問題もあるでしょうが、成績というところで差が出て来ますよね。しかし、昔の技術的な学びの場合は、教わるという事はあまり無かったようです。むしろ、「盗む」という表現が多かったように、見様見真似で覚えていったようです。

昔の学ぶ側の人は、その姿勢によって学びの量も質も左右されていたようですね。そして、学びの量も質も大きければそれが役に立つ場面も多くなることが予想できますし、その人が人材として評価され重宝されたのでしょう。そんな人であれば活躍できる場も増えることでしょう。つまり、学ぶ側には貪欲な姿勢が必要だったようですね。

では、どれだけの事を学んだのかを自分で判断する方法はあるでしょうか。経験から得られる学びの場合、言語化は難しいだろうなと思います。言葉で表現しようとしても、なかなかドンピシャな言葉が見つかりません。それよりも、言葉にしてしまうと何か別のモノになってしまうような気持ちにさえ、なってしまいます。何故かというと、頭で考えたり学んだりするよりも、心で受け止めるとか感じ取るとか、そんな表現が似合いそうなものだから、そのように思うからでしょう。言葉としては「学び」よりも「印象」の方が近いかもしれません。

もう一つ、経験を通して学ぶことの場合(心で受け止めると書いた通りなのですが)、後になってから何度も何度も繰り返して学び直す事が出来るという特徴があると思います。振り返る時期によりますが、経験した直後の場合と何年か経った後で再び振り返ってみた時とを比べると、明らかに後者の方が大きな学びになっていると思います。

経験した出来事(本当は「体験したこと」と言い換えてもよさそうですね)は、どれだけ時間が経っても変わる事はありません、固定された事実です。しかし、経験したその人は時間とともにその人なりにいろいろと体験する量だって増えていきます。それに伴って、精神面の成長も必ずあるはずです。

そうすると、その人がその時まで見てきた一つの視点からの学び以外にも、視点や角度を変えた時に見えてくる姿に気が付くでしょう。それに伴って、受け止め方も変わってきます。そうなると、経験した直後の学びがあり、何年か後には成長した自分がまた違った学びがある事を知り、さらに年月が経てばまた違った学びが見えてくる、そういうことにもなるでしょう。

一つの経験を通して得られる学びも、自分の年齢が上がるにつれて別の捉え方でみる事が出来るようになります。そして、学びが次第に大きく、深くなっていくんです。これを言語化するのは確かに大変ですね。それだけ大きな経験をしたという事ですから、学びも大きくなるわけなんですね。こんな経験は一生を通じて考えてみてもそう多くは無いかもしれません、貴重な経験として、その人にとっては財産として記憶に残る事でしょう。

でもね、本当のところ私たちは毎日いろいろな経験を積んでいっています。経過した時間とその経験量は、おそらく比例するような関係になっているんじゃないかな。比例の度合いは人によっても違うでしょうが、大雑把に見てだいたい比例の関係になっていると考えられます。しかし、そこから得られる学びはどうでしょうか。振り返りをどの程度行うかによって変わってくるかもしれませんが、年齢が上がるにつれてどんどん増えていくんじゃないか、そう捉えることが出来ると思います。この辺りはその人の力量で変わってもくると思うのですが、どうでしょう。

毎日が退屈で、判で押したように変化のない日々を過ごしていると思っていても、じつは毎日どこか少しずつでも違っているはずなんです。ただそれを見過ごしているか、気が付かないだけなんでしょう。ひょっとしたら、毎日をボンヤリと過ごしてしまっているのかもしれません。これって、生き方としてはちょっと残念な気がしませんか。

学んだことを時々振り返ってみて、もう一度自分のモノになっているかどうかを確かめてみる、そんな時間を作ってみませんか?