124、読点を考える | サポートライター みけ の独り言

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電子書籍のはなし、文章のはなし、ことばのはなし、書く事、話すこと、ゆめのたねで喋っていることなど、言葉にまつわるいろいろなことを中心に、書いてみたいと思っています。

 

今回も「読点」の話を書くことにしますが、ちょっと視点を変えて考えてみたいと思います。前回と前々回の二回で、読点のルールを振り返ってきました。「こんな場所に読点を打つ」といった内容だったわけですが、なぜその場所が良いのか、他の場所じゃダメなのかといったことを考えてみたいと思います。

句読点の打ち方にはルールが存在する、これは大原則です。誰も異論はないでしょう。ルールとしては、読点が「くぎり符号」となっているので、「文の中止」と「副詞的語句の前後に打つ」という二つが原則になっています。ですが、実際には書き手の感性や思いなども絡んできますので、個々の人よって打ち方の違いが存在しています。「誰もこのルールを使っていない」とは言いませんが、読点の打ち方には個々の人がもつ「その人なりのルール」があるのではないかとも感じます。

人によって、読点の打ち方には微妙な違いが出て来ます。今書いているこの文章を取り上げてみても、読んでくださる人によって「読点はここじゃない」と感じている人だっているでしょう。とはいっても、よほどのことがない限り、自分以外の人の文章が「ものすごく読みにくい、理解に苦しむ」なんていう事は、それほどの頻度では起きないんじゃないかとも思います。つまり、それぞれの人が持つルールに従って読点を打っている、読み手も何となく理解している、そういうことになるのではないかと感じています。

それでは、どんな時に読点を打つのかということですね。

まず、一つの文章が長くなってくると、どこかで切っておかないと読みにくくなります。この言葉が文の中のどの言葉にかかって来るのか、分からなくなってきませんか。言葉同士のつながりが不明瞭になってきて、読み手の理解を妨げてしまうようなことになってしまいます。その文章の構造にも関わってきますよね。

そんな混乱を避けて読み手の理解をスムーズにするために、読点で文章を区切って分かりやすくするといった使い方をします。理解を優先することで、ひょっとしたら本来のルールとは違った場所に読点を打つことになるかもしれません。でも、意味が通らなければ読み進めることが困難になりますので、どちらを優先するかは自ずと決まりますよね。

また、日本語では(日本語だけではありませんが)韻を踏むことがあります。文の区切りごとに同じ母音の言葉で終わらせたりして、響かせる手法ですね。韻をふむことでリズムが生まれたりして、より読みやすくなったり、理解を助けたりします。読点を打つことで、どこで区切ればよいかを示しているわけですから、この場合は打った場所に読点を使う必然性が出て来ます。理解するというよりも、声に出して楽しむといった感じでしょうか。

もちろん、読点は区切りを示す記号ですから、声に出して読む場合の息継ぎの場所を示すという意味もあります。文章の長さに限らず、文の意味を理解しやすくするために区切ることもあります。その意味というのは、文面というよりも書き手の意図といったものになるでしょう。

これ等の意味を持たせて読点を打つとき、大抵の場合は読点がもつ本来のルールと重なります。しかし、文章の意味がオモテの意味、書き手の意図にウラの意味を含ませた場合、本来の読点のルールとは別の場所になる可能性も出て来ます。これは文章というよりもセリフの場合に多いことかもしれませんが、区切り方でいろいろな意味を含ませる場合、書き手の意図が潜んでいる事もあるでしょう。このあたり、作家さんのウデの見せ所なのでしょうね。