司馬遼太郎『街道をゆく-三浦半島記』を読んでいたら、鎌倉における西行と頼朝の対面のエピソードについて詳しく書いている。このエピソードについては、何度もふれているので繰り返しになるが、その総集編として司馬さんの見解を紹介したい。
 
  なお私は、司馬の歴史を端的に表現する語り口に魅力を感じるものである。例えば、「鎌倉幕府は土地相続問題の政府」、「武士は開墾農場主」など司馬さん独特の切り口、時代の核心をひょいと取り出すような表現である。ちなみに司馬は、鎌倉時代をそれまでの律令制と違った,道理がとおるリアリズムの社会であると言い、武士が台頭したこの時代を高く評価していると思われる。
 
  さて前置きが長くなった。西行と頼朝である。そもそもなぜ西行は鎌倉に立ち寄り頼朝に会ったか。司馬はこう説いている。
  重源という僧から、源平争乱で焼失した東大寺や興福寺の再建のための勧進*1を依頼されたからである。仏像には金鍍金が必要で、その頃黄金は陸奥で産した。奥州の藤原氏に黄金の寄進を求めるには、その藤原氏と遠い姻戚関係にある西行に動いてもらうのがよいと考えたからである。そして、黄金が輸送されるには道中の安全が保障される必要がある。そのために頼朝に会った、というわけである。
 
  西行に対面した頼朝は、西行に弓馬の道を語ることを乞うた。西行は「嫡家相伝の兵法を焼失・・・皆忘却し了んぬ」*2と断ったが、しつこくきかれ、しぶしぶながら夜を徹して話したという。頼朝はその謝礼として銀の猫を与えたが、西行はこれを門前で遊ぶ子供にくれてやったことはすでに書いた。
  なぜ頼朝は武芸のことを聞きだそうとしたのか。
  司馬は、武権の独立という革命を成功させた頼朝が欲しかったのは、前時代の貴族文化の継承である。それがないと革命が行われた後の秩序が保てなくなるからであり、これは多くの革命政権にみられること であると、解釈している。
  また、西行が頼朝をどう見ていたかについて、西行は平家一門とのつき合いもあり、それらの旧友はすべて死者となった。その勝者である頼朝と向き合うのは、けっして気分のいいものではなかった筈だと言う。銀の猫を子供に与え去ったのもそんなところからきているのではないかとも想像している。
 司馬さんらしい歴史認識と解釈で、賛否はあると思うが私はおおむねそんなところだろうなと納得するのである。
 
 
  *1 寺社の再建、復興などのため寄付を募ることをいう。歌舞伎「勧進帳」も同じ
     趣旨で各地を回ったことが想定されている。
 
   *2 鎌倉時代の史書「吾妻鏡」の記述