「私はきっと今でいう毒親だったのだと思います」
そう語るのは私の母だ。
幼い頃から走るのが好きだった私は、小学生から陸上を始め念願のオリンピックへの切符を手に入れたところだった。
そんな時に私の母へのインタビューの依頼があった。
母は「大した事なんて言えないよ」と一度は断ったものの、熱心な記者に圧され渋々インタビューを受け入れた。
ー我が子がオリンピック選手なんて、どんな気分ですか?
ハツラツとした声で、何かを期待するような眼差しを母に向けている。
「誇らしい…ですかね…」
母は自信なさげに答えた。
ふと視線を私に移すと、小さな声で「あっち行ってなさい」と部屋から追い出された。
まぁ、娘の前じゃ言いづらい事もあるのだろう。
それから数ヶ月後、母のインタビューが掲載された雑誌が店に並ぶ。
見出しはこうだ。
『オリンピック選手の母、涙の告白!私は毒親だった!!!』
スキャンダルでも載っているのか?と疑うようなものだった。
引っかかったのは『毒親』というワードだ。
私はレジに本を持っていき、合宿所で読みはじめた。
『娘がオリンピックに行けるのは、彼女自信の努力が実っただけのことです。
私は何もしていません。
どんな育て方をしていたかと聞かれますが、私はただ彼女のご飯をつくって、朝起こして…本当に必要最低限のことしかしてません。
母親らしい事は何も。
毒親って言うんですよね?
私自身、自分がそうだったと思ってますから。
お恥ずかしい。
私は娘を自分のお人形かなにかだと思っていたんです。
我が強い娘だったので、何度も衝突しました。
自分の思い通りにならないあの子に苛立ち、何度ひどい言葉を浴びせたか覚えていないくらいです…。
そのくせ周りには自分が正しい親かのように振る舞ってました。
娘を手のかかる大変な子供に仕立て上げて。
さも苦労しているかのような顔をしてました。
でもね、あの頃は本当に大変は大変だったんです。
私と娘は相性が悪い。
それは紛れもない事実だったと思います。
けれど投げ出すわけにはいかない。
私にはそれが呪いのように感じました。
誰に話しても理解してもらえない。そもそも人に話すのが怖かったです。
我が子を愛せないなんて。
そんな親、異常でしょう?
だから必死でした。必死であの子の衣食住を揃えてました。
何のためだったのかと聞かれたらきっと自分の為です。
あの子の為ではなかったと思います。
それが私の、母親としての証明になると思っていたから。
あの子は勝手に大きくなりました。
知らぬ間に自分で選んで進んでいました。
今さら私が母親面して出ていくなんて、おこがましい。
私は毒親です。』
そう締めくくられていた母のインタビューは、衝撃的だった。
たしかに母との相性の悪さは幼い頃から感じてはいた。
けれど、母に愛されていないとは思っていなかった。驚いた。
今、思い返してみても私はわりと大事にされていたと思う。
好きだと呟いたおかずは次の日も食卓に並んだ。
雨の日は頼んでもないのに、学校まで迎えに来た。
風邪をひけば大袈裟な量のゼリーやスポーツ飲料を買い込んで
クラスでイジメにあったときは泣きながら怒っていた。
母は私を愛してはいなかった…?
たしかに母はぶっきらぼうではあった。
口も悪かった。
ひどい言葉もたくさん言われた覚えはある…
毒親だったのだろうか。
私にはそれがわからない。
小さい頃から優柔不断な私に母はずっと
「自分で決めなさい」
と言った。
自分で選んで、自分で決めろ。
と。
失敗したときの言い訳を最初から用意することを許さなかった。
何があっても、それを決めたのは自分なのだから誰かのせいにしてはいけない。
母は一貫して私にそう教え続けた。
それが今の私に繋がっていると思っている。
私の根幹はそこにある。
母はそのことを覚えていないのだろう。
「ふふふ」
思わず笑みが溢れる。
そんな風に思っていたのか。
とんだ勘違いだ。
正直母の悪態なんてなんとも思っていない。
この人、口が悪いなぁ。
くらいにしか思っていなかった。
それをこの人は今でも自分への罰のように思っているのか。
衣食住を揃えただけ?
親元を離れ、それがいかに大変なのかを知っている。
あぁ、バカだなぁ。
勝手に大きくなるわけがない。
勝手に選んできたわけがない。
何もわかっちゃいない。
私がどれほど感謝しているか。
あなたの愛情が私を育てたことをすっかり忘れている。
母がどれだけ私を愛していなかったと言っても
私はそれを否定する。
親元を離れるまでの18年間。
欠かさず用意されたご飯も
苦手だと言っていたお弁当も
温められた部屋も
夜食に作ってくれた鍋焼きうどんも
眠れない夜に淹れてくれたココアも
不器用ながらも作ってくれた誕生日ケーキも
面倒くさそうに教えてくれた料理も
全部全部、否定するには十分すぎる材料ではないか。