「あなたのソレはひどく身勝手よ。」

そう言い捨てたあの人は
涙で目が真っ赤だった。

あの人は僕よりひと回りも歳上で
とても大人でかっこよくて僕の憧れだった。
あの人が『女』に見えたのは
煙草をふかした姿を見てからだ。

窓を開けて、春の風に髪を揺らしながら
あの人は遠くを見つめて煙草を吸っていた
それがなんだかとても綺麗でドキリとしてしまったのだ。

「煙草を吸う女は嫌いなんじゃないの?」
あの人はからかうように笑って
「先生は違う」と小さく呟く僕に
「ずいぶん勝手ね。」と困ったように笑った。




先生に告白をしたとき
1度目は茶化されて、2度目は「ありがとう」とだけ言われ、3度目でやっと向き合ってもらえた。

その時に恋人がいることも、もうじき結婚することも先生は教えてくれた。
幸せそうな先生の横顔があまりに綺麗で
僕は嫉妬してしまったのだ。

結婚なんてしなければいい。

僕は必死だった。
必死で先生に向かっていった。
誰に何を言われてもいい。僕は先生が好きだ。
それがすべてだった。

「あなたにとっては若気の至りですむんでしょうね。」
先生がそう冷たく言い放ったのは
婚約が破断となった時だった。

その知らせを聞いたとき僕はちっとも嬉しくなんかなかった。

「良かったわね。あなたの望みが叶ったわよ。私もう結婚しないのよ。それで、あなたがもらってくれるのかしら?」
まくし立てるようなその言い方に僕は戸惑いながらもプロポーズをした。
先生は呆れたように笑って
「そう。私、子供が欲しいの。子供が産まれたらしばらくは仕事できないけど、あなた養ってくれるのよね?仕事はどうするの?どこで働くの?給料はどれくらい?生活していける?」

突きつけられた現実に僕はただただ黙り込んだ。

先生は深い深いため息を一つついて
「先生としてあなたに言うのはこれが最後よ。」
と、静かに語りだした。

「結婚は生活よ。夢や希望ではない。現実に続いていく生活。私はね、憧れで結婚を口にするような年齢ではもうないの。
気持ちを相手に押し付けて手に入れられるものではないのよ。あなたのソレはひどく身勝手よ。」

僕の頬を涙がつたう。

「どうしてあなたが泣くのよ。それはあまりに卑怯だわ。今、泣いていいのは私だけよ。」

「ごめんなさい、、、」
それしか言えなかった。



それから僕は先生と一度も話すことなく卒業した。
先生はその後、新しい恋人ができあっという間に結婚したという噂を聞いた。



夫とは三年前に結婚した。
こじんまりとだけど、結婚式も挙げた。
たぶんあれが幸せのピーク。

夫はたぶん今年に入ってから不倫をしてる。
携帯を見る回数が増えたし
やたらと残業が多い。
私が気付いていることも、たぶん知らない。

夫と離婚するつもりは今のところない。
不倫なんていつまでも続きはしないし
そんな一時的なものに振り回されるのはごめんだ。

ただ、虚しさだけが私を囲う。

夕食の途中、夫が弾んだ声で言った。
「もうすぐボーナスだけど、何か欲しいものある?」

なぜ、この人は嬉しそうなのだろうか。
何かを買ってあげたいのは、私ではないだろうに。
私はわざとうまく笑えないふりをして
「欲しいもの…なんだろ?わかんないや。」
と言った。

夫はそんな私の表情に気付くこともなく
「そう?まぁ、何か決まったら教えてよ。買ってあげるよ。」
と、嬉しそうに言った。


朝、出勤前の夫が念を押すように
「欲しいもの決まったら教えてね。」
と言った。
私は
「わかった。」
とだけ言って、背中を見送った。


私は内心浮かれていた。
夫の心はまだ私のもとにあるのだ。と。

夕食の支度をしていると、夫から連絡があった。
「ごめん!今日も残業になった!先に寝てて」

スッと血の気が引いていくのがわかった。
あぁ、夫の多少の罪悪感があのセリフを言わせたのだと笑えるほどに思い知った。


もしも夫が帰ってきたときに私がいなかったら
あの人はどうするかしら?
もしも私が事故に遭ったら
もしも私が倒れていたら
もしも私が死んでしまったら

自分の価値がこれほどまでに無価値だと思ったことがあっただろうか。

私はコンロの火を消し、家を出た。


近所のファミレスで、私の不在を知った夫からの連絡を待ってみることにした。

もしもかかってこなかったら、どうしよう。


たぶん慌てた声で電話がかかってくる。



婆ちゃんが歩けなくなった。
もうずいぶん歳だし仕方ないことだろう。
そのうち、どんどん身体の自由がきかなくなって
寝たきりになってしまった。

介護に追われる母は大変そうだった。

婆ちゃんはそのうちボケがはじまって
僕のことも、母のことも
忘れてしまっているようだった。

毎日顔を合わせるたび
「あんた、誰だっけね?」
と、尋ねる。


婆ちゃんの目が見えなくなった。
婆ちゃんは無口になっていった。

たまにあまりにも静かに寝ていると
生きているのか心配になった。


ある日、朝から婆ちゃんが鼻歌を歌っていた。

「婆ちゃん、今日はご機嫌だね」

婆ちゃんの元気そうな姿に僕は嬉しくなった。
婆ちゃんは僕の声を聞いて

「正人か?」

と尋ねた。
もう名前を呼ばれることなどないと思っていた僕は、ひどく驚いた。

「婆ちゃん、わかるの?」

「分かるさ。」

婆ちゃんはとても穏やかな顔をして笑っていた。
そしてポツリと呟いた。

「明日で終わりだね。」

「何が?」

「明日でぜんぶお返しが終わるよ。」

「お返し?」

婆ちゃんが誰から何を借りていたのか
一体いつの間に返しに行ったのか
僕には不思議なことだらけで、よくわからなかった。

「一つずつ、貰ったからね。一つずつ返していったのさ。明日、きちんと神様にお返ししなくちゃね。」

僕は何を言っているのかよくわからなくて
ただ「ふふふ」と笑うだけだった。
婆ちゃんも「ふふふ」と笑って、そのまま眠ってしまった。


次の日。
起きたら婆ちゃんはもう生きてはいなかった。
とても綺麗に、穏やかに、
あの世へと還って行った。