岩出市歴史マップ 根来街道3 吉田~曽屋 | ユーミーマン奮闘記

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~和歌山営業所の日常~

根来街道枝道(野上野みち) 曽屋の石仏群

前回和歌山市川辺の辻~中筋日延にある堤防上の道を岩出市吉田まで進みましたが、今回は岩出市吉田~曽屋までの間を紹介したいと思います。

岩出市吉田は紀伊国続風土記によると昔紀ノ川の氾濫原で葦が生えている荒地を村人が開墾して村を開いたので「よしだ」という地名がついたと記されています。

江戸時代期以前はこのように岩出市中島は周囲を川で囲まれた川中島で洪水が起こると赤い矢印の方向に濁流が流れ家も田圃も流されてしまい、人が住めるような環境ではありませんでした。

このの部分に堤防を作り、山口方面に流れ込む川の流れを止めると共に紀ノ川の南側にしっかりとした堤防を築き、北側の流れを封じました。明治大水害以降には吉田南部にも高い堤防を作り、以降この周辺での破堤はなくなりました。

現在の南側堤防から眺めると吉田の土地がいかに低いのかがわかります。

この堤防上には寛政年間に建てられた熊野大権現の石灯篭があります。神社はもうなくなりましたが灯籠だけがそのまま残っています。

ここから、中筋日延を経て川辺の辻で熊野古道に通じるのでこの場所に熊野権現の灯篭が建てられたのでしょうか。

その向側歯科の東には大宮神社の御旅所がありました。

 

では道筋に沿って進んでいきたいと思います。

吉田のコミュニティバス停留所付近。中央の道が根来街道。

しばらく進むと三角のお寺の屋根が見えてきます。

このお寺が知足寺。街道は知足寺の裏側を通ります。

まっすぐが根来街道。右端にお寺のようなものが見えます。

これが薬師堂。紀伊国続風土記にも記されているお寺です。

小さなお堂ですが江戸時代よりある古いお堂です。

正面から見た所、なかなか趣のある建築です。右側には石仏群があります。日本昔ばなしに出てきそうですね。

石灯篭には薬師前と記されています。

石仏群

手水鉢を寄進したのは土岐氏。江戸時代吉田村の地士の方です。

裏側には知足寺があります。

再び根来街道に戻って集落の中の狭い道を抜けると、

吉田のセブンイレブンの近くで県道小豆島線と合流します。

ここからは中黒の集落の中を進みます。現在の県道小豆島線の少し北側に旧道があります。(吉田のセブンイレブン付近からは

旧道は途切れ県道を東に進んだあたりから北へ入る道が旧道です。

中黒の集落には古い石仏を集めた雛壇上の石仏群がありました。

岩出市に入ると根来寺の影響でしょうか、周辺に石仏が多く見られるようになります。

新義真言宗円満寺です。左側の雛壇が石仏群です。

砂岩でできており風雨に傷んでいます。

円満寺は旧紀の川が運んだ河岸段丘の上にあり。お寺の前の道は坂道になっています。中世流れていたとされる紀の川の旧河道の流れがいかに強かったのかがわかります。

中黒という地名は根来街道北側の中野村と南側の黒木村が明治時代に合併し、中黒という地名が生まれたそうです。

中野村は街道の中心に位置することから中野と呼ばれ、黒木村は

黒木造り(木の皮を残したまま柱に使ったり、板塀にしたり)する家が多かったから名付けられたと言います。

さて円満寺を出て根来街道を進みます。

街道は中黒集落の中に入ります。この周辺には、昔の風景がまだ残っています。

美しい青石の石垣がある民家。

しばらく進むと山崎小学校です。

山崎小学校を過ぎたあたりで湯窪の集落へと入りますが。

少し足を延ばして県天然記念物のに指定されている栄福寺を訪ねることをお勧めします。

栄福寺は岩出市湯窪にあり、

湯窪は山崎小学校の北に位置します。

 

義真言宗のお寺で、歴史は古く弘仁元年(810年)空海創立。

樹木に覆われて村の中心にあります。

この寺で有名なのは、県の天然記念物に指定されている

イブキ・ビャクシンです。 漢字で書くと伊吹白槇。

表側からはわかりにくいですが、寺の庭に入るとその迫力が解ります。

中央のこんもりとした森がイブキ・ビャクシンの森です。周囲の家から見ると相当大きいことがわかります。

 

イブキ・ビャクシンは2本あり、幹回りの太い方が甲樹。

この写真は甲樹で幹回り4.3m 根周6.4m ねじれながら天に延びています。

こちらの方が乙樹。 こちらの形は少し変わっていて龍が天に上るような姿をしています。

 

乙樹の根本には古い石仏があります。

 

乙樹の姿は龍のように地表をくねくねと曲がりながら空に延びています。

 

樹齢は500年以上と推定されていて、秀吉の根来焼討の時すでにここに自生していた樹です。

栄福寺に立ち寄った後、また根来街道に戻りましょう。

赤垣内のセブンイレブンの北側を東に行くと山崎神社があります。

山崎神社の鳥居です。奥へ伸びる道が根来道

 

この神社は

人皇七十五代崇徳天皇の大治元年(1126)、鳥羽上皇が根来寺を下山さて、熊野三山へ向かう途中、この地まで来たところ、一転にわかにかき曇り、雷雨激しく行列を進めることができなくなり、お供の人が天地の神々にお祈りした所、雲間より神様がお姿を現し、「吾は大山津見の御子、大市姫神、雷雨をすぐに鎮めましょう。」と言い、たちまちに青天白日が輝き、神の姿が雲にのって消え去り、上皇はしばらくここに御輿を止められたのでこの地を輿止めと呼ばれました。
 その後、上皇がこのことを大変よろこび、神社の神官を呼び、詳しく事情を聞き、お使いの人をお詣りさせ、幣帛料・物品をお供えされた。と伝えられています。

平安末期以前から社があったようです。そうして栄えた神社ですが、 天正年間(1573~)、秀吉の根来攻めにより、兵火にかかり、本社、摂社、古記録すべてを焼かれてしまいました。

森に囲まれた美しい神社です。

その神社から更に東に進むと休憩できる場所。バウムクーヘンとコーヒーがおいしいポットベリーというカフェがあります。

歩き疲れたとき休憩するとても良いスポットです。

若いころ店主自らドイツで修業し

バウムクーヘン発祥の地ドイツの「ザルッヴェーデル」の本場のバウムクーヘンの味を作ることに成功!お店で販売しています。

コーヒーも自家焙煎。種類も豊富ですから是非お立ち寄り下さい。

 

(次回根来街道周辺のお店のブログを掲載しますのでその時詳しく説明します。)

 

ポットベリーで一休みした後、根来街道は曽屋の集落に差し掛かります。

この先から車がすれ違えないほどの道幅になります。昔の街道の幅です。

細い家並の間を抜けていきます。

視界が開けた所に立派な長屋門を構えた屋敷が見えてきました。

江戸時代中期に、那賀郡山崎組の世襲大庄屋を勤める増田家の屋敷として建設されたもので主屋と表門、土塀が現存しています。

主屋が1706年宝永3年。写真の表門は1712年正徳2年です。大規模民家としては和歌山県最古級であり、本瓦葺やなまこ塀や座敷の造作が高品質であること、紀の川沿いの地域の近世農家建築の特徴をよく伝えていることなどから主屋と表門の2棟が1969年に国の重要文化財に指定されました。

とても美しい長屋門です。門前の稲穂も風情を掻き立てます。

曽屋にはもう一軒江戸時代の古民家が存在します。

国の重要文化財 増田家住宅のすぐ北側には岩出市指定文化財の大庄屋桃井家住宅があります。

江戸時代中期に、那賀郡山崎組の世襲大庄屋・地士を勤めた桃井家の屋敷として建設されたもので現在。主屋と表門と土塀が現存しています。

主屋(大庄屋屋敷)は1754年(宝暦4年)築で、主屋の西半棟が改築されているため国指定文化財にはならなかったようです。

江戸時代築の表門は竣工時は隣接する増田家住宅と同様に東西の土塀に達する長大な長屋門がありましたが、戦後に長屋門は切り落とされました。

この周辺の道は狭く入り組んでいる為、こうした建物が残ったのかもしれません。便利が良い場所ではすぐに開発されていたでしょう。

集落のあちこちに昔懐かしい土塀が残っています。

この周辺はまるでタイムスリップしたかのような昔の景色が広がっています。

根来街道は曽屋で北に折れ、波分、西坂本と進み根来寺へと入ります。曽屋の辻を北に曲がらずにまっすぐ進むと、根来川沿いから野上野を通り根来前山の山中にあった南大門から入る道も存在していました。曽屋の辻から少し東に行くと道沿いに中世のものでしょうか、石仏群が今も残っています。

 

道は曽屋の辻からまっすぐ東へ黄色の線上にあります。

またこの曽屋の南に畑毛という集落があり、吉村秀夫商店という大正時代創業の造り酒屋があります。岩出市の観光スポットなのでぜひとも訪れたい場所です。次回ブログで詳しく紹介したいと思います。

 

次回根来街道は是非立ち寄りたい

街道周辺のスポットを紹介します。

 

 

吉村酒造さんからお知らせです。

 

ユーチューブに『杜氏が根来街道をポタリング』

というタイトルで動画をあげています。

いつもお酒を造ってる杜氏さんが吉村酒造から根来寺まで自転車をゆったりと走らせながら周辺の街並みを紹介していく動画

ぜひ、ご覧ください。

第一回

第二回

 

第三回

 

 

 

 

 

 

 

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