再開FW第1回 関釜連絡船と旧下関駅 | ニッコリ会・下関

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の略
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再開FW第1回 関釜連絡船と旧下関駅

 

‘22年10月22日、ニッコリ会・下関主催で関釜連絡船と旧下関周辺のフィールドワークを行った。案内人の内岡貞雄さん(朝鮮学校を支援する山口県ネットワーク代表)によるFW(フィールドワーク)はこれまで10年間に10回行われており、再開の第1回目である。

内岡さんより海峡ゆめ広場に集まった参加者に手づくりの「1920年~1945年の下関市街地」の地図をもとに関釜連絡船桟橋と旧下関駅を中心とした案内、説明が行われた。

 

内岡貞雄さん(朝鮮学校を支援する山口県ネットワーク代表、ニッコリ会・下関会員)

 

戦前の下関市街地(1920年代~1945年8月)

 

当時の下関港は関釜連絡船が釜山港との間を一日3便が出入港する日本の玄関口であった。その頃の町の賑わいは今とは雲泥の差であった。関釜連絡船の就航は1905年(明治38年)9月4日の日露戦争のポーツマス講和条約締結の6日後であった。それは日清、日露戦争を通じて着々と計画が進められていたことを示している。なかでも日清戦争後の1895年10月8日に当時の韓国公使・三浦梧楼(萩出身)が大陸浪人らを引き連れて景福宮(皇居)に乱入、そこで明成皇后は斬殺され、更に日露戦争直後に伊藤博文首相により漢城(現ソウル)に日本の統監府を置き、外交権を奪った。(竹島はこの日本の侵略過程で島根県に編入した。)

 

1910年8月の朝鮮植民地化により先ず土地調査事業が行われ、王室や所有者が確定されない土地を国有にしてしまった。この関釜連絡船によって日本人は朝鮮に新天地を求め、安く土地を入手し、事業の成功を収める反面、やがて植民地朝鮮からは生活困窮から日本や中国等に働きに行く人々が増大し、日中戦争が激しくなると日本の国家総動員令による強制動員、強制労働が行われるようになっていった。

 

その証人である在日2世の裵東録(ペトンロク)さん(北九州市在住79歳、福岡県内の公立学校で国際親善の重要さを伝え1000回以上の学校公演を続けておられる。)がご自分のご家族の話をしてくれた。

 

裵東録さん(在日コリアン2世の語り部)

 

1940年、韓国慶尚南道陜川(ハプチョン)の貧しい農家の大黒柱であったアボジ(お父さん)は強制動員によって北九州の八幡製鉄所の現場での肉体労働を強要された。故郷に残されたオモニは4人の幼子を抱えて必死に働いたが、汗水流してようやく収穫したお米は供出制により日本人に持って行かれ、食べるものがなくなり、飢えの苦しさに赤い唐辛子を口にしてしのいだという当時の苦しみが語られた。とても生きていけなくなり叔父さんに連れられて1941年の12月、冬の寒さの中で4人の子どもを連れて釜山港にたどり着き、関釜連絡船に乗ったものの船は大荒れの玄界灘で木の葉のように大波に翻弄される中、命が助かるようにとひたすら神仏に祈り、ようやく下関港に着くことが出来たのだった。

 

アボジが下関へ迎えに来てくれていたので子どもたちもとても喜んだものの、そこから関門連絡船で門司港に渡り、そこから船と列車でたどり着いた八幡駅、そこから歩いて30分ほどの八幡製鉄の社宅(間取り3畳と4,5畳の二間の10軒長屋が7、8棟)に入れられた。寒い冬だがその社宅に布団はなかった。親子は布団もなくどこかで拾ったゴザをかぶり抱き合って寝た。その後どこかから古い布団を入手したが、その寒かったことや、その社宅では早朝には労務担当が一軒一軒、木刀のようなもので叩いて起こして回ったという。

 

オモニも中学生位の長兄も製鉄所の構内で働いた。オモニの仕事は中国から分捕って来た鉄鉱石をザルのような物に詰めてそれを抱えて運ぶ仕事、配給も途絶えがちで肉体労働を空腹でやることに、思わず、鉄鉱石を投げ出す時に一緒に自分も死んでしまいたいと思ったと言われたという。

オモニは自分(裵さん)を生んで3週間後にまたその仕事につかされた。栄養不足で母乳もあまり出なかったようで、裵さんは長姉が与えるオモユで育ったという。あの頃は日本人もきびしい時代であったが、さらに抑圧と差別の中にあった。

 

北九州市は八幡製鉄所が廃止されて1901年に竣工した溶鉱炉を解体しようとしたが、それを市の復興のシンボルにして、博物館のようなものを造ったが、そこには強制連行、強制労働された大勢の朝鮮人がいたことを一言も記していない。まるで強制連行、強制労働の朝鮮人は居なかったことにされているのである。裵さんはこのことで北九州市にも朝鮮人がそこで強制労働させられたことを記してくれと要求したが、無視されたままだという。

下関でも関釜連絡船で町が大変に繁栄したにもかかわらず、その史実を示すものはわずかに、「関釜 関門航路」と示された旧国鉄桟橋跡のレリーフとほんの少しだけである。

 

関釜 関門航路下関鉄道さん橋跡 関釜連絡船の船の名前と就航日が分かるのみ

 

都合の悪いことは何でも隠蔽するこの国のやり方を下関市は今もなおそのまま踏襲して来たし、このような史実を明らかにした本や資料も極めて少ない。この度内岡さんが歴史を調べてつくられた地図は、その記述の一つ一つが重要な当時の状況を示しているが、このような資料は市内のどこにも存在しない貴重なものであろう。

 

なぜ、下関市に、いや日本に在日コリアンが多く居られるのか、その歴史事実はきれいに隠蔽、抹消されているかのようである。下関は在日1世たちが第一歩を印した所である。(済州島と大阪航路が始まるまで)なぜ在日コリアンが日本に住んでいるのかを知らない市民が今も大勢居られるであろう。しかし、私たちが知らないと言っても、韓国、朝鮮の人々は決して忘れてはいないのである。

 

日本人は忘れても韓国・朝鮮の人々は忘れられない侵略、差別の痛み

 

下関に上陸した時、朝鮮人は日本内地での居住先、本籍地、家族構成等を記述させられ、その名簿は居住先を管轄する警察署に送られて監視され、毎月末にその移動状況は翌月5日までに各都府県に報告が義務付けられていた。日本人も社会主義者、労働運動家とか侵略国家に盾突く人間はアカといわれ治安維持法下にあって監視されていたが、朝鮮人はすべて監視対象であった。

 

朝鮮独立運動に係われば極刑が課せられており、その監視は関釜連絡船内においても、到着した下関水上署や駅前の下関署によっても監視されていた。新築なる前の門司港駅には関門連絡船から国鉄門司港駅につながる構内通路を監視する監視口が戦後も「監視口」と表示付きでそのまま残されていた。関釜連絡船さん橋から下関駅に行く通路でも同じであったろうし、1942年11月に開業した下関駅までの500m以上もある長い家形の通路でも常に人々は監視されていたと思われる。

 

今日、そんな権力側に不都合な史実を記したような碑石は何一つない下関市である。過去の加害の史実について入学試験にも出ないので覚えなくても良いのである。そして歴史への無知がデタラメなデマを信じ込みヘイトスピーチやヘイトクライムを起こして、今なお差別が横行するのである。これは明らかに日本の権力層が真実を教えて来ず、行政自身が差別立法を行っている結果ともいえる。私たちはこのようなフィールドワークを通じて隠された史実を掘り起こし、人間差別を許さないことを示していきたい。

 

本日のフィールドワークを準備し、案内して下さった内岡さん、そして貴重な証言をしていただいた裵さん、ありがとうございました! 参加されたみなさん、いかがでしたか、次回は来年の朝鮮学校の公開授業の1週間後にすることになりました。ぜひとも来年は多くの方々に朝鮮学校公開授業とこのフィールドワークに友人、知人にもお声がけいただき、また参加してほしいと願います。ご参加をありがとうございました!

 

海峡ゆめ広場

 

以上。