吉備池の瓦 | 神宮の杜から

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名古屋・京都・奈良のこと、その他日常のこといろいろ。
…だったのが、最近はほぼ育児日記。ぼちぼち更新。

今日はお休み~♪

朝から雨雨だったので、おこもりデー。

無心に排水溝の掃除をしたり(笑)、洗濯以外の家事をちゃっちゃと済ませ、読みかけの本を読んだり、瓦の世界に浸ったりして過ごしました(爆)。

日米経済摩擦とかリクルート事件とか(昨日の本の続き)から一気に遡るので、アタマを切り替えるのが大変でしたが(笑)、吉備池廃寺のとりあえず創建軒瓦についてだけ最後まで終わらせました。


古都☆古都雑記


「遺物」のセクションで各出土瓦の所見を掴んでおかないと「考察」を読んでもいまいちピンとこないので、まずはそこからスタート(軒瓦Ⅰ型式のところだけ)。


さすがに専門用語が多いので、製作技法を知らないと理解不能な点がたくさんありました;

キザミとか、瓦当厚の調整とか、側面調整とか、ナデとか、あれとかこれとか…ヽ(゜▽゜;)ノ:

改めて模骨巻作りとか桶巻作りの説明を読んだら、何となく分かるようになりましたが…

何で縄目や布目の圧痕が残るのかとか、側面が綺麗じゃないのがあるのかとかの理屈が。

でも、粘土板合わせ目という概念はわかりましたが、SとかZとか、写真を見てもさっぱりわかりません~!


その後「出土瓦をめぐる諸問題」に入りましたが、様式の特徴、同笵・同型関係、笵・型の移動、時期について分かりやすくまとめられていますね!


それでも、軒丸瓦ⅠAとⅠBの違いなんて、ぱっと見変わらないだけに、いわれないとさっぱり「???」。

中房の直系や蓮弁の盛り上がりの大小とか、重圏文の太さとか、果ては蓮子配置が整然としているか否かなんて、そういわれても同じにしか見えないんですけど!!

さすが、プロの見る目は細かいですね…

でもこの文様、綺麗で好きです。


軒平のⅠA・ⅠBの相違についてはさすがにわかりますが、型の傷なんていわれても「どれが~~?」状態。

まぁ、細かいことが分からなくても、それらがどのように移動したのかが分かれば良いんですけど。

今まで軒丸瓦の瓦当文様ばかり注目していたけれど、軒平のそれも面白い!

斑鳩寺と共通するというのもありますけど(笑)、重弧文を描く際に始点と終点がずれた跡とか、押し型が重複した跡とか、奥が深いですね。


で、最も不思議に思うこと。

吉備池廃寺の創建軒平瓦の型は、斑鳩寺から齎されたとのことですが、吉備池廃寺創建当時の斑鳩は山背大兄王の時代。

この報告書には、山背大兄王の積極的援助によるものと書かれていますが、かつて大王位を争った相手の発願寺院に対して、そんな協力的に瓦の提供をした、というのが謎。

それとも、対立していたのは周囲の群臣たちだけで、本人同士は案外野心をもっているわけではなかったとか…?

某N木先生が、豊浦寺の高句麗系瓦をめぐる同様の事情をもとに、蘇我蝦夷と山背大兄王の関係を考察していたのを読んだことがありますが、案外考古学的遺物が、文献史料の伝えない人間関係を語っているということもありうるのかもしれない。何よりも強い物的証拠ですからね。

そういえば、かつて卒論を書いたときも、国文科なのに鎌倉まで出向いて発掘調査報告書なんて読んでいたからなぁ。何を調べようとしているんだっけ?とか不思議に思いながら(笑)。


それと、なぜ斑鳩からは軒平の型だけが移動したんだろ?軒丸の笵は?

解説を読んでて、吉備池廃寺の軒丸瓦の文様は和様で、日本独自の文様構成の始まり(子葉とか重弧文の登場)と解釈したんですが、そのことと関連するんでしょうかね。


瓦だけを基準に寺同士の関係を考えるわけにはいかないと思いますが、他の要素で導き出せない事柄を出土瓦が大きく担っているのは魅力的ですね。


いろいろと知るにつれて、なんかアタシも遠いところまで来てしまったなぁ、という感が否めません(爆)。