油掛地蔵を拝んだあとは、しばらく長閑な田圃の畦道を南へ向けて歩きます。
寺川に差し掛かったところで、そのまま川沿いに進んでいったのですが、この川を挟んだ南西に島の山古墳があります。周囲に濠を廻らした前方後円墳ですが、全長200m(前方部・後円部それぞれ98m)という大規模な古墳だそうです。埋葬施設は残っていないものの、大量の石製腕飾類が出土しているそうで、武器類が少なく鏡や櫛、玉類が多く副葬されていたことから、被葬者は女性である可能性も指摘されているとのことでした。(ちなみにこの古墳へは立ち寄っていません)
左手に糸井神社を見て、寺川を南へ渡ります。
この糸井神社は、由緒ある延喜式内社で、境内には「なもで踊り」などの絵馬が多くあるようなのですが、立ち止まる暇もなく、一行はそのまま素通り(笑)。結構ペース速いです。
まもなく川西町から三宅町に入ります。この時点で、11時少し前。
中学校を過ぎたところに白山神社と杵築神社が道路を挟んで向かい合って建っています。
この杵築神社で、三宅町商工会の皆さんによる歓迎セレモニー(笑)がありました。
聖徳太子の扮装をした町長の挨拶、地元のおばさま方の踊りの後、境内で昼食休憩。福祉事業に尽力したことで著名な忍性菩薩の生誕地であることに因んで、小豆粥やほうじ茶の接待もありました。温かいお粥をいただいたら、これ1杯で結構お腹が膨れたのですが、せっかくおにぎりを持参したので熱いほうじ茶と一緒に食べました。どさくさ紛れですが、スタンプをもらうのも忘れちゃなりません(笑)。
この三宅町は、皮革製品や靴下の生産が盛んなところで、お土産に米糠繊維を使った靴下をもらいました![]()
結構お若いです。
古代米の赤米を使った小豆粥。たいそう美味でございました![]()
昼食の後は、出発時間まで30分くらい時間があったので、境内を見て回りました。
拝殿の中には「お陰踊り」や「聖徳太子接待の絵馬」が奉納されていました。特に前者は、民俗学的資料として貴重なもので、県の有形民俗文化財に指定されているそうです(中に入れず、入り口から覗くだけだったので、間近で見られず残念でした;)。
この神社にはもうひとつ有名な「屏風の清水」があります。
聖徳太子がこの地で休憩したとき、従者の持っていた弓で地面を打つと、冷水が湧き出たといわれているところです。拝殿の向かって左奥にあるのですが、見つけられなかったので案内の方に聞いて教えていただきました。
杵築神社向かいの白山神社には、太子が休息の際に使ったという「腰掛石」が残っています。
そういえば、八部衆に担がれていた太子像は、私たちが歓迎セレモニーを受け、昼食をとっている間、ここにじ~っと座って待っておられました(笑)。
その隣には、かつて聖徳太子が愛馬の「黒駒」に乗って従者調子麿を従えた像があったそうなのですが、第二次世界大戦の折に供出されてしまったため、今は残っていません。「また作られないんですか?」と聞いたところ「予算が…(笑)」との返事でした。やはりどこも厳しいですよね…。
その黒駒の手綱を結わえた「駒つなぎの柳」も三代目が植えられていました。
この辺りの「屏風」という地名は、里人が屏風を廻らせて太子を接待したという故事に因んでいるそうです。
駒つなぎの柳。法隆寺から移植された三代目だそうです。
ややこしい…
12時5分、三宅町の皆さんに見送られて神社を出発。
途中、三宅町役場に寄って中学生による太鼓の歓待を受けました。ここでも太子町長が登場(笑)。
町長もいろいろ大変ですね…。
伴堂地区を通り過ぎ(これで「ともんど」と読むそうです)、三宅町ともお別れ。近鉄田原本線の黒田駅で踏み切りを渡り、ずんずんずんずん進みます。本当にずんずん行ってしまう。ほとんど強歩状態ですよ(笑)。
この屏風から南の辺りは、かつての太子道が残っているという地区だそうで、「三宅の原」の万葉歌碑とか、黒田大塚古墳とか、孝霊神社とか、見所も多いのでもうちょっとゆっくり行きたかったのですが、この人数だし時間の制約もあるだろうし、仕方ないですね。
近くには京奈和自動車道の高架が見えていたりして、風情ある道ではないのですが、ふと気づくと左前方に三輪山が見えていました。二上山も雌岳が見えてきています。
薬王寺地区を過ぎて、飛鳥川沿いのサイクリングロードに入ります。13時過ぎくらいだったと思いますが、1日でもっとも気温が高い時間帯の上、天気もよく、おまけに強歩を強いられたため(笑)、ちょっと汗ばんでいました。
ですが、右手に二上山をはじめ葛城・金剛山、左手に三輪山を見ながら飛鳥川沿いを歩くのは気持ちよかったです。気がつくと前方に畝傍山も見えてきて、何だか元気が出てきました![]()
あと少しで多神社に到着です♪
~続く~






