2️⃣🟦🟪【2024年9月12日(木)】西宮市の念仏寺にて、毎月、頂いている土井紀明先生がお書き下さる【聞名仏教】を紹介します。
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🟧🟩【聞名仏教】🟧🟩
🌃心に響きましたので、皆さんに紹介させて頂きます。
 
🌟【対話編・浄土真宗⑭】🌟
 
B「前回は第十八願の成就文の中で〈聞其名号 信心歓喜〉までお話をお聞きしました。では次に〈乃至一念〉とは、どういう内容ですか」
 
A「その前に、第十八願成就文を今一度、引用しますと、
🟨諸有衆生 聞其名号 信心歓喜
乃至一念 至心廻向 願生彼国 
即得往生 住不退転 唯除五逆
誹謗正法『無量寿経』
🟩諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん、です。
 
この中の〈乃至一念せん〉ですが、親鸞聖人は一念は〈信の一念〉と見て、それが生涯かけて反復し、相続していく姿を〈乃至〉の言葉であると見られたと伺います」
 
B「一念とは」
 
A「これは信心歓喜の一念のことで、一念は南無阿弥陀仏において 〈汝をまるまる引き受ける〉という大悲のお心を聞いて、はじめて信心が起こったすがたをいいます。
この場合の〈一〉は(はじめ)の意味です。初めて起こった信念、それが一念の信心です。
また一念は信心の起こるのに時間 がかからないことを表します。
瞬間的に信が起こる様を表します。
仏心大悲が私たちの心に届くのに手間暇いらないということで〈タスケル〉の仰せを聞く、即座に起こる信心というので、一念の信ともいわれます。
〈助カラヌ汝ヲタスケル)という本願の仰せを聞くその時、本願の大悲心が人の中枢部に至り届いて、信心になってくださるのです。
ですから、信心といっても人の側から起こす信心ではありません。
信心は凡夫の煩悩の心ではなく、仏心大悲の心が、凡夫の心と離れなくなったのを信心といいます。
そして、信心は本願をふたごころ(二心)なく信じている心ですから、心であり、それを一念と表されたという意味もあります」
 
B「この信の一念が一度起こると、もう、なくならず、反復していくのですね」
 
A「ええ、そうです。反復といっても、とぎれとぎれではなく、我たちの心の底に仏心大悲が相続していくのでしょう。これも不思議なことです。相続している大悲心が、煩悩妄念が沸き起こって、止まない人生生活の中で、ふいふいと心の表に現れてくださいます」
 
B「よく仏凡一体【仏心凡心一体】ということをお聞きしますが、この信心と関係があるのですか」
 
A「信心が発起したということは凡心と仏心が離れず、一体になることと言えます。凡心が仏心に変化することでもなければ、仏心が凡心を駆逐して、仏心ばかりになるのでもありません。今まで通り、煩悩の凡心がありながら、仏心と離れないのです」
 
B「仏心と凡心が二つでありながら、一つになるとのことですが、このことを、もう少し詳しくお話しください」
 
「私たちの心に仏心が離れなくなるのですが、これは人とアミダ仏が離れずに一つになることとも言えます。このことに関して『歎異抄』の第一条に、
 
🟨弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
 
とあります。これが信心が発起した時の内容です。ここでは信心を仏凡一体になったという表現ではなく、摂取不捨の利益と押さえられています」 
 
B「阿弥陀仏の心と人の心が一体になるという言い方ではなくて、人がアミダ仏に摂取されて、捨てられなくなるという風にあらわされているのですね」
 
A「ええ、宗祖は〈摂取不捨〉 という言葉を頻繁に使っておられ、信心が衆生に与えられたすがたを『歎異抄』では〈摂取不捨の利益〉と仰せられるのです。
アミダ仏と人の関係は摂取不捨の関係ですが、それを仏の心と人の心の関係、いわば仏凡一体と表すことに限定せずに、アミダ仏のいのち(寿命無量)と人の有限のいのちとは、不離一体で表すと、より現代の感覚で受け取りやすい様に思います」
 
B「アミダ仏と人の関係を心と心の関係のほかに、いのちといのち、あるいは存在と存在の関係で表す方が、現代的には分かりやすいのですね」
 
A「そのような関係で表すと、さまざまな他の領域との関係が明らかになり、普遍的な意味も明らかになってきます」
 
B「いのちといのちの関係で、アミダ仏と人との関係を表すと、どうなるのでしょうか」
 
A「それを表されたのは、大谷派の清沢満之師ですが、アミダ仏を
🟨絶対無限の妙用と表し、その妙用に運ばれつつある今ここに置かれている一つの物が自己(人・諸物)である、といっています。
すなわち、
🟨自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。(絶対他力の大道)という言葉です」
 
B「難しいですね」
 
A「そうですか。表現は難しいですが、要するに、はかりない命のはたらきであるアミダ仏から、一瞬も離れることなく、今ここに置かれている一つのものが自己ということです。今ここの単純な事実であり、この事実を生起せしめている根本のはたらきが、アミダ仏です」
 
B「そうすると、万人がすでにアミダム(無量寿)と離れていないとも言えるのですね」 
 
A「ええ、そうです。ただアミダ仏と初めから一体であるということを知らない、それを無明、いわば根源的無知といいます。
知らないから、この世の様々なものでもって、自分の人生を支えようとし、あるいは物足りようとして、外のものに過度に執着しているのが、迷いの凡夫のありさまです」
 
B「アミダ仏の本願を信じようと信じまいと、私はアミダ仏のいのちの中にはじめからいる、ということですね」 
 
A「ええそうです。貴方だけではなくて、万人がそうです」
 
B「では、なぜ信心が大事と言われるのですか」
 
A「アミダ仏の中にいる、いわゆるアミダ仏のいのちの摂取不捨の中にいることを知らなければ、気がつかなければ、アミダムの中にいる、という安心も喜びも充実もありません。孤立し、閉塞した自我(私)しか知らないのですから」
 
B「アミダ仏という、はかりないいのちと離れない自分を知る、そこに大きな利益(功徳)があるのですね」
 
A「ええ、アミダ仏のいのちの中にあって、その中で生まれ、行動し、働き、そして死ぬのです。死んでも虚しくならないのです」
 
B「なぜ虚しくならないのですか。
 
A「アミダ仏の御いのちの中で生死するのですから、死んでもアミダムのいのちの他にはありません。元のいのちに帰るのです。
禅宗の高僧・道元禅師の言葉に、
🟨生死は仏の御いのちなり。 (正法眼蔵・生死の巻)とありますが、全くその通りですね。
 
また真宗の高僧、清沢満之師は、この点について
🟨我等は死せざるべからず、我等は死するも、なお我等は滅せず。
生のみが我等にあらず、死も亦、我等なり。
🟨我等は生死を並有するものなり。我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり。我等は生死以外に霊存するものなり。
(絶対他力の大道)とおっしゃっています」
 
B「道元禅師の〈生死はほとけの御いのちなり)とは、どういう意味ですか」
 
A「私に即していいますと、私が生まれて生き、そして死ぬという生死のいのちの営み全体が仏の計りない、いのちのはたらきの中ということです。生死そのものが計りない、いのちの活動相といえます。仏のおん命のはたらきを離れて、髪の毛一本も、心のひと思いも成り立ちません」
 
B「寿命無量の仏の計りない命のはたらきの中に、草木や石ころまで入りますか」 
 
A「入ります。人間や犬猫のみならず、ミミズから蛙、草木、土や瓦や壁、コンクリー トなど、また生き物の意識のはたらき、人間の心のはたらきまで含めて、万物がいのちのはたらき、実在のはたらきによって存在しているのです」
 
B「そうすると、一切アミダ仏のはたらきの他にないのですね」
 
A「ただ真宗の教法で、阿弥陀仏という場合は衆生救済のはたらき、いわゆる、如来の本願力として限定して語られるので、そこは注意しなくてはなりません。
また衆生の心の内容、そして振る舞いの内容は、アミダ仏のなさしめというわけではありません。
少なくとも人間の身口意の行いの善悪正邪の責任は、そのつど人に問われています。ただ身口意の
はたらきが可能なのは、計りないいのちの力によってです。
その違いは注意しなくてはなりません」 
 
B「アミダ仏と私は摂取不捨の関係の中で、私の行いの正邪善悪はそのつど人に問われているのですね」
 
A「はかりないいのちのはたらきの決定によって、一瞬一 瞬、私が何を思い、どう行動するかが問われているのです」 
 
B「私が何を思い、どう行動するかは、そのつど人に問われているのですね。そのことは命のはたらきによって決定されているのですね」
 
A「ええ、そうなのです。自分の行いの責任は、どこまでも私にあるのです」
 
B「では、清沢満之の言葉も説明してください」
 
A「まず〈我等は死せざるべからず、我等は死するも、なお我等は滅せず。生のみが我等にあらず、死も亦、我等なり〉 ということは先ほどの〈生死は仏の御いのちなり)と全く同じ意味ですね。
生死ともに仏の御いのちであり、その他に、まことの自己〈ここでは我等)はないわけです。
今ここにいる有限な自己が、そのまま計りなきいのちの現れの外にはない。
その点からいえば、無限のいのちの自己ともいわれましょう。
それを、ここで〈我等)といっておられるのでしょう」
 
B「では次に〈我等は生死を並有するものなり。我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり。
我等は生死以外に霊存するものなり〉とは」 
 
A「これも同じ意味です。そういう我等は一個のいのち、一個の私の生死全体を包んでいますから、それを〈生死を並有する〉と仰っているのです。
そして〈我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり) とは、私たちのいのちは計りなきいのちの外にありませんから、生まれたり、死んだりという生滅によって左右されない、滅ぼされない、こわれない、そういういのちとしてある。
そして〈我等は生死以外に霊存するものなり)ということは、
これも同じことで、私の本体は生まれたり、死んだりするはかないだけの命ではなく、生まれも死にもしない、生死をこえた実在のいのちとして〈霊存〉しているのだといわれるのです」
 
B「霊存する、とは」
 
A「計りないいのちは不可思議で大変深く有難い命でしょう。
そういう存在として、霊存という言葉で表されたのでしょう」
 
B「お話をお聞きしますと、 とても私には、そういう境地は深くて分かりませんが」
 
A「これらは道元禅師とか、清沢満之という優れたお方の言葉ですから、これを本当に同じように実感することは難しいですね。
しかし〈聞其名号 信心歡喜 乃至一念〉というお念仏を開信する一念の信心には、そういう事実を垣間見る、あるいは、ほのかに感じる智慧が与えられるということも本当です」
 
「つまるところ、この〈乃至一念〉の信心によって、アミダムによって、この私が摂め取られていることを知るという、そういう摂取不捨の利益にあずかるのですね」
 
A「ええ、そうです」(了)
     【終了】