3️⃣🌍️🌍️【7月22日(月)】8時30分より、岡崎市にて聴聞
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【5️⃣質問】

自力についての親鸞聖人のお言葉の解説をお願いします。

🟨「自力というは、わが身をたのみ、わが心をたのむ、わが力を励み、わが様々の善根をたのむ人なり」
       【一念多念証文】

🟨「自力の心を捨つというは、ようよう、さまざまの大小聖人、善悪凡夫の、自らが身をよしと思う心を捨て、身をたのまず、悪しき心を賢(さが)しく顧みず、また人の善し悪しと思う心を捨てて」
        【唯信抄文意】

🟨「まず自力と申すことは、行者の各々の縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わが身をたのみ、わが計らいの心をもって、身・口・意の乱れ心を繕い、めでとうしなして、浄土へ往生せんと思うを、自力と申すなり」【末灯抄・御消息】

【5️⃣回答】

自力の心というのは、
🟨「自らの身をよし、と思う心を捨てて」

分かりやすく言えば、心でやましいと思っていたことがあったとしても、言わなければいいでしょう。
言わなければ、悪ではないと思う。言ったら、問題になる。
私達は口に出したこと、行動したことばかりを問題にして、心で思っていることを問題にしない。
身体でやらなければ、善だという心がある。

🟨「身をたのまず」
身をたのむとは、何事も思い通りにいく。思い通りに進んでいく。
いつも正しいところに自分を立たせて、いつも自分のやることは正しいと思う。
相手を責めても、
「責めてしまった、よくないなあ」と思うことはなく、
「相手が悪いんだから、責めても、いいでしょう」と思う。
人がやると「あんな言い方はないでしょう!」
自分がやることは全部、正しいと思い、正当化する。それが身をたのむ。

🟨「悪しき心を賢(さが)しくかえりみず」

さがしくとは、頭だけで人が悪いとなると自分もやってみて、いや、これはよくないというなら、分かる。
でも自分が見ただけで、こういうことはよくないよね、と。
それが自分の心にあってでも、どうしょうもないことがある。

ゲーム、アニメを見てしまう。
それは現実が苦しくて、誤魔化してやってしまうもので、どうしようもないものなのに、高いところにいる自分がいて、
「これはよくないよ」
「いや、ゲームをしないで日常生活を頑張りましょう」と言われると「やらないといけないんだ!」
というふうに思って否定する。

浄土真宗の多くの方は自分は悪人だと言うけれど、心では思っていない。
煩悩具足といわれているから、煩悩は変わらない。変えようとしていない。変わらなくていいんだ。
自分が実地にかけて知らされたものでなくて、そう書いてあるから、そうなんだと思う。

🟨「また人の善し悪しを思う心を捨てて」
人の善し悪しというのは、自分が正しい所に立って、この人はいい人だね、この人は悪い人だね、と判断する。

自分が高いところに立って、そこだけを見て、自分が絶対的に正しい所に立って、物事を判断する。

自分には正しく判断する力を持っていると自惚れる。
他人に対して「これがいいんだ、これが悪いんだ」と見る力が自分にはあると判断するのを自力という。

🟨「我が身をたのみ、我が心をたのみ」

自力の心がいつも正しい所に立って、我が身、我が心をたのみとする。

🟨「我が力を励み、我が様々な善根をたのむ人なり」

分かりやすくいえば、何とかすれば、何とかなる!と自惚れている。
自分が頑張れば、何とかなるんだ、というふうに思っている。
思っているから、人に対しても、
「やれば出来るでしょう!」といってしまうし、やってしまう。
やれば出来ると思っているから、人に対しては、厳しい。

🟨「まず自力と申すことは、行者の各々の縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わが身をたのみ、わが計らいの心をもって、身・口・意の乱れ心を繕い、めでとうしなして、浄土へ往生せんと思うを、自力と申すなり」【末灯抄・御消息】

🟨「余の仏号を称念し、余の善根を修行する」のは、私達は不安を抱えているからです。

本当は不安を解決しないといけない。ところが毎日、自分は頑張ったから、念仏をとなえたから、それでその不安を隠そうとする。
後生が不安になって、十八願だけで救われるという教えを聞いて、
安心しようとする。

⭕⭕会では、間違った善を一杯やりまくってきたので、自分としては、もう善をしたくない。
善をする喜びがない。本来、善とは、やっていくこと自体が喜びのはずなのです。
善とは凄いなあ、やりたいなあ、というものです。

⭕⭕会の善は有り金をはたいて、やらないと駄目なんだ。
ボーナスを貰ったら、ボーナスを全部、ご報謝にまわさないといけないんだ。生活が極貧になっても全部、ご報謝させられる。

そういうのが⭕⭕会では善になっているから、やめた人はみんな善をやりたくないのです。
だから、何もしなくても救われる。信じるだけで救われるという教えに飛び付くのです。

自力とは、不安なことを自分のやった善によって、絆創膏のように張って安心しようとする。それが自力です。

🟨「わが計らいの心をもって、身口意の乱れ心を繕い」

わが計らいとは、分かりやすくいえば、たとえば、救われたいと思った時に、
「救われるためには、こういう道を通りますよ」と聞くと
「自分の中で、こういう道を進めば大丈夫だ」と思う心です。

たとえば、十八願だけで救われると思っている人は、
「阿弥陀仏を信じていれば、死ねば浄土へ行けますよ」と聞いて、
「そうですね、信じます」
「信じていれば大丈夫だ」と思い切り、計らっています。

「そういうふうにすれば、救われる」
「こうすれば救われる。これからも、こうします!と自分の中で計らっている。

「悪人が救われる」と聞くと、自分に悪が見えてくると喜ぶ心が見えてきた!これで救われるぞ!と思う。これが計らいです。

🟨「乱れ心を繕って」安心させようとする。

🟨「めでとうしなして」教えの通り実践をしているように思って。

🟨「めでたく」いいという意味だけど、客観的にいいということではない。
たとえば、悪人と知らされたとなると「悪をした方が、より悪が知らされるのではないか」とか思う。

ちょっと善をして、自分は出来ないと悪が知らされた!とか、都合のいいように理解をする。
本当はその計らいを捨てていかなければならない。
その計らいを捨てるとは、どうしたら、どうしたら、となっていくのが進んでいく道です。

【本願に 計らい尽きて 計らわれ】

でも多くの人は、正しい教えを説いても、真っ向から自分が正しいと思っている浄土真宗の教えをぶつけてくる。
でも、それが計らいで、心には不安がある。
問題はその不安を取り除くことが大事なのに、それを
「この通りにやっているから、安心だ」とか、
「こうやって善をやっているから、安心だ」と思って、不安を覆い隠して、安心している状態なのです。
この覆い隠しているものは死んだら、全部、崩れ去るから、不安だけが残ってしまう。

この不安をどう取り除いていくか、本当は大事なのです。不安が問題なのです。

その不安というのは最後には、何も価値がなくなったら、見捨てられるという疑情であって、一番、取り除いていかなければならない筈なのに、不安が見えないようにしている。

どうしても、正しく聞くことは難しい。大前提に計らいがあって、計らいの目で教えを見て、話している。
自分は悪人の側に立つのが不安なので、善人の側に立とうとする。

でも、本当は、悪人の側の自分を否定せずに受け入れることが一番の目的なのです。

だから機の深信という世界があるのです。

🟨マイナスの自分を受け入れるには、どうしたらいいのですか?

六度万行です。同じ人に心をかけていくと、相手は生意気になったり、責めてきたり、自分のマイナスの自分を一杯見せてくれる。

本当に相手を安心させようと努力すると、相手は安心して、私を雑に扱ってきますから、そうすると相手を通して、自分の心が見えてきます。

それを「ああ、ごめんね」とか言っていくことによって、マイナスの自分の我が受け入れられるようになっていきます。
      【終了】