【質問】

「どうすれば信心獲得できるのか?」について、
「聴聞に極まる」が答えだということは分かりました。
では、どんな話を聞けば信心獲得できるのでしょうか?
「この話を聞けば、一発で獲信できる」というような、
「特効薬」のような話が有れば、教えてください。

【回答】

最初に言っておきますが、そんな「特効薬」のような話は
どこにも有りません。もし有るならば、釈尊も七高僧も親鸞聖人も最初から、そのような話を説かれたはずです。
蓮如上人は「弥陀をたのめ」と何度も説かれ、
「とにかく、阿弥陀様におまかせするだけでよい」と言われていますが、それは決して簡単なことではありません。
「弥陀をたのむ」とか「阿弥陀様におまかせする」と言われても、
具体的に何をどうすれば良いのかが、凡夫の知恵では分かりません。
「自力の心を捨てよ」と言われても同様です。
「捨てようとする心も自力」などと聞かされると、
ますます訳が分からなくなります。
「自力の心を捨てようとするのも自力なのだから、
 とにかく他力の世界に入ればよい」と言う人もいますが、
「では、どうしたら、他力の世界に入れるのか?」と問えば、
「自力の心を捨てればよい」という話になり、
これでは「堂々巡り」であり、「循環論法」です。
蓮如上人は、簡単に信心獲得できるかのような言い方もされていますが、
その一方で、前回の問答で紹介した『蓮如上人御一代記聞書(193)』では、
結局「地道に聴聞を重ねるしかない」という意味のことを言われています。
そして、そのために、
「『心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん』
といえる古き詞」を引き合いに出しています。
この言葉の出典は鎌倉時代に書かれた『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)という書物であり、それは「明詮」(みょうせん)という平安時代の元興寺の僧侶が聖道門の修行で悟りを求めていた時のエピソードが元になっています。
🟥https://w.wiki/AaeR

つまり、蓮如上人は、浄土真宗で他力の信心を求める場合でも、
結局は「地道に聴聞を重ねるしかない」と仰ったわけで、
しかも、それを言うために、聖道門の修行を引き合いに出したわけです。
私が、他力信心の本質(正体)を解明したくて、そのために唯識を学び、
さらに遡って、初期仏教までも学び、その内容を皆さんに紹介しているわけですが、
「浄土真宗と聖道門をごちゃ混ぜにするな!」というお叱りを受けることが、しばしばあります。
しかし、上記のように、蓮如上人も、
「浄土真宗と聖道門をごちゃ混ぜ」にしたようなお言葉を言い残されたのは事実です。
この事実を、どう理解すればよいのでしょうか?
とにかく、簡単に救われる方法が有るならば、それを誰よりも知りたいと思っているのは、私自身です。ぜひ、誰か教えてください!
ただし、「何もしなくてよい」では答えになりません。
何もしないで救われるのならば、十方衆生は十劫の昔に救われて、
今はもう、みんな浄土に往生しているはずです。そしたら、衆生は六道には一切存在しないはずであり、「還相」で衆生済度のために人間界に生まれる必要さえもないはずです。これは現実と反しています。
阿弥陀仏は全力で衆生を救おうとなされているのに、
未だ救われていないのは【衆生の側に原因(責任)がある】としか、考えようがありません。(極めて明白な論理的帰結です!)
蓮如上人が「蓋ある水に月は宿らじ」と言われたのも、
それを言われたものと思われます。
最終的には、その「蓋」を取り去るのも阿弥陀仏のなされることでしょう
けれども、その段階まで到達するには【自分自身が】何をすべきなのか?
これが、最大の難問であり、真宗学のあらゆる問題の核心部分であると私は思います。

      【終了】