3️⃣🟥🟨③唯識三十頌【18頌】十因と十五依処【随説因と語依処〖増上縁〗・観待因と領受依処〖等無間縁・増上縁〗・牽引因と習気依処〖因縁〗・生起因と有潤種子依処〖因縁〗】【令和6年05月18日】
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🟥https://youtu.be/nsnkmvFLYpY?si=nh0FPazMf-inaIGJ

🌃🪐〖レジメ資料〗
❇️『唯識三十頌【第十八頌】』
🌟『成唯識論要講【第三巻】』

🟩🟪【十因について】🟪🟩
🟨倶舎論は、六つの因でしたが、
🟨唯識は、十の因です。

🔷十の因は、随説因、観待因、牽引因、生起因、摂受因、引発因、定異因、同事因、相違因、不相違因。
🟩これを十因といいます。
🟩それを、十五依所に分けていきます。

🌟図表【p.99 】
0️⃣十因 🟨十五依所

1️⃣一、随說因 🟨① 1、語依処
🟩(増上縁)名によりて、想あり、想によりて、語あり、語によりて、見聞覚知する

2️⃣二、観待因 🟨② 2、領受依処
🟩(等無間縁・増上緣)
🔶能受 — 受心所
🔶所受 — 一切法

3️⃣三、牽引因 🟨3、習気依所 🟩(因縁)漏無漏・内外の未熟の種子

4️⃣四、生起因 🟨4、有潤種子依所
🟩(因縁)種子が現行として、現れようとする位

🔷これは十因と説くけれど、四縁の別の角度からの理解である、という訳で、
🔶十因という因が全部、縁に入れ替えられていることを見て頂くことが大事です。

❇️そこで、本文を読んでみます。
🟨「是の如く四縁を十五処に依りて義、差別なるが故に立てて、十因と為す。云何ぞ、此を十五処に依りて立つるや」

🔷ここに「是の如く四縁を」これが主語になります。
🔶四縁、四つの縁【因縁・等無間縁・所縁縁・増上縁】です。

🟨それを「十五処に依りて、義、差別なるが故に」
🔷色々と違った意味があるので、十因とする。
🔶そこの主語が四縁です。

⏹️慈恩大師が言っておられるものをここに書き出してみました。

🔶十因のお話では、ありますけれど、内容的には、四縁のお話の延長です。

🟨「一には語依処。謂く法と名と想とに起こす所の語の性なり。
🟨即ち此の処に依りて、随説因を立つ。
🟨謂く此の語に依りて、見聞等に随って、諸の義を説くが故に。
🟨此は即ち、能説を所説の因と為す。
🟨有る論に説かく。此は是れ、名と想と見となり。名字の如く相を取り、執著して随って、説を起こすに由るが故にと。
🟨若し彼の説に依りて、いわば便ち此の因は是れ、語の依処なることを顕す。」

1️⃣第一の「随説(ずいせつ)因」は「語依処(えしょ)」言葉の依り所です。

1️⃣「随説因」【十因】
✡️「語依所」【十五依処】
🌃「増上縁」【名によりて、想あり、想によりて、語あり、語によりて、見聞覚知する】

🟨「法と名と想とに起こす所の語の性なり」
🔶この法という字は、ここではモノ。それと名前。想は思うという心です。
🔷モノがあって、名前があって、そして、その名前に依りて、私達は物事を考えていく。
🟨「名によりて、想あり、想によりて、語あり。語によりて、見聞覚知する。」
🔶言葉に依りて、見聞覚知する、というのを「語依処」というのだ。
🔷私達はものがある、とそのものを自分の主観をまじえないで、直接的にそのものを見ていると思っています。
🔶しかし唯識は私達の見ているものや、感じている全てのものは、それは、私共の主観に依って捉えられたものです。

🔷物事と言った時には、主観が入っている。私共はそのモノに対して、名前を付与している。
🔶そして、その名前を繋ぎながら、語、言語というものを造り出しながら、その言葉に基づきながら見聞覚知していく。
🔷それが、私達のモノの認識の仕組みである。それを一つ立てて、随説因という。

🔶私共は自分の頭の中に、一つの価値観を持っていて、これが違うと認識が変わってくる。
🔷一つの動作が価値観によって変わる。私達の見聞覚知、見たり聞いたり、考えたりしていることが、意外と自分の中に予め持っている言葉に依って行われている。
🔶自分の主観に依って見ている。
それを知ることです。

🟨ここの十因の第一に、言葉が我々の認識の中で、大きな役目を果たしている、ということを語ろうとする訳です。

2️⃣🟩第二番目は、観待因です。
🟨「二には、領受依処。謂く観待する所の能・所受の性なり。
🟨即ち此の処に依りて、観待因を立つ。
🟨謂く此に観待して、彼の諸事をして、或は生じ、或は住し、或は成し、或は得せしむ。
🟨此は是れ、彼の観待因なり。」

🔷観待因はわかり難い言葉ですが、ものを見たり、聞いたりする時に、相対的に私達は認識を成立させている。
🔶相対的にということは、これは善いこと、これは悪いこと、というふうに二つに分けて、
🟨これは善いことだ、これは悪いことだというふうにして認識している領域が沢山あります。

🔷二つに分けると非常に物事がはっきりしてくるのです。
🟨これが観待因。
🟩🟥相対的にものを考えていく、という考え方。

🔷私達は自分の見たものは正しいと思うので、そこにせっかちになるのです。
🔶俺の思うことに間違いはない、というふうに、無意識の中で思ってしまうのです。

1️⃣🟫⏹️第一の方は、言葉で理解をしている。自分の価値観や、自分の心で色をつけながら、見ている。
2️⃣🟫⏹️第二の方は、人間の世界は相対的なものだと。相対的な形で、モノを理解している、ということが多いという、
🟨その現実の認識の仕組みについての反省をもつことが、観待因であります。

3️⃣「牽引因」【十因】
✡️「習気依処」【十五依処】
🌃「因縁」【漏無漏・内外の未熟の種子】

🟨「三には習気依処。
🟨謂く、内外の種の未だ成熟せざる位なり。
🟨即ち此の処に依りて、牽引因を立つ。
🟨謂く、能く遠き自果を牽引するが故に」【成唯識論】

🔷今度は牽引因、これは「謂く内外の種の未だ成熟せざる位なり」内外の種です。
🔶種は種子、種子は私達の素質と経験です。本有種子と新熏種子にあたります。
🔷経験を通して、溜っていく種子が新熏種子です。
🔶新しく熏じ付けられる。匂いが染み込んでくる。
🟨人間には持って生まれた素質とか、性質とか、器の大小とか、いうようなものがあります。それが本有種子です。
🔷成長の過程で、私達はいろいろな経験を積み重ねて、自己を造りあげていく、それが新熏種子で、その種子が現れてくるのを現行といいます。

🟨「内外の種の成熟せざる位なり」
🔷内外、内は私共の心の中、外は外の種子で、植物の種子です。

🔶植物の種子と、唯識でいう人格の根底にあるところの二つの本有種子と新重種子を、まとめて種子と呼ぶようです。
🔷この内外の内は、唯識の種子の方で、植物の種子が、外の種子です。
🟨その種子が「未だ成熟せざる」未成熟である。

🔶種子は第八阿頼耶識の中に、人格の深い所に残されている。
🔷モノではなくて力で、功能、働きですが、それが残されて、それが縁にふれると、その種子が芽を出して、現行を生み出していく。
🟨これが唯識の人間観の一つです。種子から現行が生まれる。

🔶そして、ここは阿頼耶識は無意識領域ですから、他人も判らないし、自分も判らない。
🔷けれども、それが自己を造りあげていく。そして現れてきた現実の行動、現行は同時に、この中に種子を残していく。
🔶「未成熟の」はここに今、溜められている。人格の中に溜められた一つの力として残っている。
けれども、それが外に現れる以前の状態。
🔷ただ心の中に蓄えられている状態。それが未成熟です。
🟨習気依処は、そういう「未だ成熟せざる位」
🔶これを牽引因というのです。

🟨これは「能く遠き自果を牽引するが故に」
🔷遠い結果、自果は自業自得の自です。自分の行為についての自分の結果を遠く未来に受ける。

🔶これが遠いという字です。これがまだ完全に現れていない、整っていないのです。
🔷ですから、心の中に染み込んでいるその段階。それが未成熟の段階です。

4️⃣「生起因」【十因】
✡️「有漏種子依所」【十五依処】
🌃「因縁」【種子が現行として現れようとする位】

🟨「四には、有漏種子依処。
🟨謂く、内外の種の已に成熟せる位なり。
🟨即ち此の処に依りて、生起因を立つ。謂く近き自果を生起するが故に。」

🔶先程の文章と、この文章と並べてみて頂きますと、前のは、
🟨「内外の種の未だ成熟せざる位なり」
🔷今、読んだ所は、
🟨「内外の種の巳に成熟せる位なり」
🔶今度は、種子が熟しているのです。
🟨「此の処に生起因を立つ」
🔷前は
🟨「能く遠き自果を牽引する」
🔶今すぐは現れないけれど、遠いいつの日か、結果が現れる。
🔷後の文章を見て頂きますと、
🟨「能く近き自果を生起する」と出ています。


🔶今は判らない、今は現れない。
それが習気依処。牽引因です。
🔷それが縁にふれて「近き自果を生起する」
🟨今度は身近に結果が現れてくる、という形がある、というのが生起因であります。

✡️ここは言葉の問題から始まりまして、私共の認識が決して絶対的なものではない。
🔶私達の認識も、存在も実体的なものではなくて、様々なものに支えられている。

🔷縁が無ければ、成熟という縁と外の縁が出合わなければ、どんなすばらしいものに出合っても、それは通り過ぎていきます。
🟨「遠き自果を牽引する」
いつ芽が出るか、わからないけれども残るのです。
🔶残ることは残る。こちらの力不足で、すばらしいものに出逢いながらも、出逢わない。
🔷それは、ここの言い方をすれば、習気依処の段階なのです。

🔶私達も何か幸せなものに出合っていながら、縁が熟していない為に、何の味も、何の認識も成立しないまま、過ぎ去っていくことがある。

🔷せっかく善き縁にふれながら、そこを素通りしてしまわないようにしたいものです。

🔶十因というかたちでいうのだけれど、問題は四縁である。
🔷四縁が、私共の存在と認識を捉えた最も根本になる教えである、ということを見てきました。
     【終了】