【質問】

『十八願だけで阿弥陀仏に救われるのか?』の説法を聴聞して、
それでは、信心決定してしまうと即身成仏してしまう事になるではないですか。
七祖、宗祖の聖教上に、そんな典拠があるなら、示して頂きたい。

【回答】

阿弥陀仏に救われることは、阿弥陀仏から、仏心を頂くことです。
その仏心は、私の心を変えてゆき、仏の心にしてゆきます。

根拠は、真宗聖典〖法蔵館〗【p.354】
🟨「是心作仏」というは、言うこころは、心よく作仏するなり。
🟨「是心是仏」というは、心の外に仏ましまさずなり。
🟨譬えば、火木より出でて、火木を離れることを得ず、木を離れざるを以ての故に、則ちよく木を焼く、木、火の為に焼かれて、木、則ち火となるが如し、とあります。

この作仏とは、無上菩提心を起こし、仏を目指して、修行に励むことです。
もちろん、親鸞聖人の教えは不体失往生ですから、肉体の生き死には問題ではなく、生きている時に必ず仏になる訳ではありませんが、肉体は問題ではなく、生きている時に仏を目指すようになります。

それは、阿弥陀仏から仏心を頂くからであり、それによって、仏になろうと無上菩提心を起こすからです。

このことは、真宗聖典〖法蔵館〗【p.354】に、
🟨彼の安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、必ず無上菩提心をおこすなり、とあります。

また、真宗聖典〖法蔵館〗【p.353】に、
🟨真実信心は則ち、これ金剛心なり
🟨金剛心は則ち、これ願作仏心なり
🟨願作仏心は則ち、これ度衆生心なり、
🟨乃至、この心は則ち、これ大菩提心なり。
🟨この心は則ち、これ大慈悲心なり
🟨乃至、大慈悲は、これ仏道の正因なり。

仏道とは、仏になる道であり、仏として進む道でもあります。
この道を進むのは、死んでからではなく、生きている時であり、
その結果、生きている時に仏になることもあります。

このことは、真宗聖典〖法蔵館〗【p.396】に、
🟨即ち彼の仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟して平等法身を得証す、とあります。

肉体が死んで仏になるとしたら、それは、体失往生であって、親鸞聖人の教えではありません。

多くの浄土真宗の人は、浄土真宗の教えは阿弥陀仏に救われたら、肉体が死んで、浄土に往生して仏になれる、と思っていますが、
「この生まれるとは、肉体の生き死にではない」と親鸞聖人も『教行信証』に明らかにされています。

真宗聖典〖法蔵館〗【p.283】
🟨いかんぞ天親菩薩「願生」というや。答えていわく、
🟨「衆生、無生にして虚空の如しと説くに、二種あり。
🟨一つには、凡夫のおもう所の実の生死の如き、凡夫の見るところの実の生死の如き、この所見の事、畢竟して所有なきこと、亀毛の如く、虚空の如し。
🟨二つには、いわく諸法は因縁より生ずるが故に、即ちこれ不生にして、諸有なきこと、虚空の如し。
🟨天親菩薩の願生する所は、これ因縁の義なり。
🟨因縁の義なるが故に、かりに「生」と名づく。
🟨凡夫の実の衆生、実の生死ありと思うが如きにはあらざるなり。

ここからも、親鸞聖人は、
肉体の生き死には、問題にせず、
「肉体が死ななければ、浄土に生まれられない訳ではない」と教えられています。

阿弥陀仏に救われるとは、阿弥陀仏から大慈悲を頂くことです。

大慈悲を頂くから、人々を幸せにしたい、その為には仏にならなければならないと大菩提心が起きます。
大菩提心を起こした人が、仏になろうと求めないことがあるでしょうか。

たとえ「自分は極重の悪人」と知らされて、
「自分なんか仏には、到底なれない」と知らされたとしても、
「目の前に苦しんでいる人がいる」
「その人を救いたい」と思ったならば、自分の中には、ありありと仏の心がある。

仏になれないにしても、この仏の心に近づいてゆきたいと思うはずです。
それが、大菩提心であり、仏になりたいと思う心です。

それを死んだら、浄土に行けるから、目の前の人は助けられなくてもいい、というのは、あまりにも無慈悲ではありませんか。

「本当に救ってあげたい」と人の中に飛び込んだなら、どんなに最もらしいことを述べたとしても、何の力もありません。

ただ相手の苦しみを受け取り、
相手を傷つけないように、
相手の心を癒してゆくしかないのです。

そんな時、煩悩があると間違いなく、相手を傷つけます。
そして、幸せにしたいのに、返って苦しめることをしてしまうのです。

私も過去、どれだけ傷つけてきたか、知れません。
だからこそ、傷つける度毎に、
煩悩から離れた清らかな心になりたいと思いました。

この道は、頭の理解だけでは通れません。人と向き合ったら、そんなものは、何の役にも立ちません。

ただ純粋に清浄な心を目指して、できない自分を懺悔してゆくしかないのです。

これが、阿弥陀仏に救われた人の進む道だと思いますし、
「一人でも幸せにしてあげたい」と思う心が、仏を目指す原動力になります。

阿弥陀仏に救われるとは、阿弥陀仏から、阿弥陀仏と同じ心を頂くことです。
そして、阿弥陀仏がすべての人を救うと誓われたように、
私も一人でも多くの人を救いたいと思う心です。

だからこそ、苦しんでいる人と向き合い、どうしたら、この苦しみを取り除くことができるか、悩みました。

私の願いは、苦しみを抜いて幸せにしてあげたいだけです。
それが、阿弥陀仏から頂いた心であり、今の私の心にもなりました。

もちろん、始めは、阿弥陀仏に救われて欲しいと一念の水際を説いていました。

しかし、救われる為には、自力を捨てなければならず、
自力を捨てる為には、心から清浄になりたいと、善をしてゆかなければならないと知らされ、
「今、目の前にいる人達は、とても心から清らかになりたいと思っている人はいないこと」が分かり、
今、大乗の教えを説いても、誰もその心さえも起こすことはできない。

先ずは心を育てなければならないと思い、お釈迦様の歩んだ道を私も進もうと決意しました。

人と向き合ったら、分かります。

先ずは、話を聞いてあげたり、
相手の気持ちを受け止めてあげたり、素直に謝ったり、認めてあげることが大事だということです。

私も心田を耕す労働者です。

心を育て、やがて私も至心になりたいと菩提心を起こしてもらえるように、これからも頑張ってゆきます。これが私の心です。

🟨②十八願だけで阿弥陀仏に救われるのか?【人を大事にしてあげたいという心が報土・自分を大事にしてもらいたいという心が化土】我が国に生まれたいという心は阿弥陀仏と同じ心【令和6年6月23日】
🟦YouTube で見る
🟥https://youtu.be/fAC-VqqfurM?si=Rgkc24hbsUHFYZ-l
     【終了】