1️⃣【6月25日(火)】名古屋東別院会館〖愚深会〗にて、鶴田義光先生の「御文を読む会」に参加しました。
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🔷宿善について、教えて頂きました。⭕⭕会以外では浄土真宗で話をする人が殆どいない中で、典拠をあげて、分かりやすく教えて頂きました。
🔶私自身は⭕⭕会以外では、初めて宿善について、聴かせて頂きました。
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🌟【配付資料】🌟
🌉🌃蓮如上人「御文』を読む会 資料 10 (「愚深会」令和六・6月)
💮◎五帖御文「第四帖 第一通《真宗念仏行者の御文》」 (『聖典』p813~p815)⇒ 蓮如六十三歳。河内国出口にて

🌟※真宗念仏行者の在り方を、自行と化他との二つに分けて示す。
🔷特に化他については、宿善の有無が重視されている。

🟨それ真宗念仏行者の中において、法義について、その心得なき次第これ多し。

➡教えをきちんと理解をしていない。

🟨然る間、大概、その趣をあらわし終りぬ。

➡おおまかに表してきました。

🟨所詮、自今已後は、同心の行者は、この言葉をもって、本とすべし。

➡次に掲げる言葉をもって基本としてください。

🟨これについて、二つの心あり。
🟨一つには、自身の往生すべき安心を先ず治定すべし。

➡先ずは自らが信心決定して下さい。

🟨二つには、人を勧化せんに、宿善・無宿善の二つを分別して、勧化を致すべし。

➡人を勧め、教えを説く。勧化を積極的になされた。

➡親鸞聖人は御弟子に教えを他に勧めなさい、という言葉はあまり見当たらない。時代背景かも知れない。

🟨この道理を心中に決定して保つべし。
🟨しかれば、わが往生の一段においては、内心に深く一念発起の信心を貯えて、しかも他力仏恩の称名を嗜み、その上には、なお王法を先とし、仁義を本とすべし。

➡内心に、まだ勧化する段階ではない。
➡信心をたくわえて、一念一念、深まっていく。
➡世間を優先して、慣習、礼儀を重んじなさい。

🟨また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賎せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門の人に見せざるをもって、当流聖人の掟を守る真宗念仏の行者と言いつべし。

➡諸法や諸宗を軽んじてはいけない。問題を起こす元になるので。
➡世間の常識にしたがって、自分は親鸞聖人の教えを聴いております!と堂々と見せないようにしなさい。
➡軋轢がずっと繰り返されてきた。掟を守らない、この反対のことをやってきたために弾圧、批判を受けてきたので、もう少し賢く生きましょう。

🟨ことに当時、この頃は、あながちに偏執すべき耳をそばだてて、謗難の口唇をめぐらすをもって、本とする時分たる間、堅くその用捨あるべきものなり。

➡特に最近は、世間の風潮は、昔も今も変わらない。

🟨そもそも、当流に立つるところの他力の三信というは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」(大経)と言えり。
🟨これ即ち三信とはいえども、ただ弥陀をたのむところの、行者帰命の一心なり。

➡三心一心問答で明らかになされた。

🟨その故は如何というに、宿善 開発の行者、一念弥陀に帰命せんと思う心の一念おこる刻み、仏の心光、彼の一念帰命の行者を摂取したまう。

➡衆生の身の上に起きる。

🟨その時節を指して、至心信楽欲生の三信ともいい、またこの心を願成就の文には「即得往生住不退転」(大経)と説けり。

🟨あるいは、この位を即ち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人とも言うべし。

➡平生業成とは、正定業、往生が決定する

🟨されば弥陀に帰命すというも、信心獲得すというも、宿善にあらず、ということなし。

➡ここが一番言いたい。宿善にあらずということはない。

🟨しかれば、念仏往生の根機は、宿因の催しにあらずは、われら今度の報士往生は不可なりと見えたり。
🟨この心を、聖人の御言葉には「遇獲信心・遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。

➡教行信証では、たまたま行信を獲ば、と言われている。

🟨これによりて当流の心は、人を勧化せんと思うとも、宿善・無宿善の二つを分別せずは、いたずら事なるべし。

➡分別をしなかったら、無駄事になります。

🟨この故に、宿善の有無の根機をあい計りて、人をば勧化すべし。

➡相手をよく観て、勧化をする。
色々誤解を招きたくない。誤解を招かないように説きなさい。

🟨しかれば、近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく、当流の義を荒涼に讃嘆せしむる間、真宗 の正意、この謂れによりて、相廃れたりと聞こえたり。

➡風情とありさま。自慢しまくり、相手の事を全く考えずに教えを説く。
➡正しい教えが廃れてきている。➡正しく受け止めている人は少ない。

🟨かくの如きらの次第を、委細に存知して、当流の一義をば讃嘆すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

➡詳しく知って、親鸞聖人の正しいお心を賛嘆すべきである。

🟨文明九年 丁酉正月八日

✡️【語句の解説と領解】✡️

⭕「この言葉をもって本とすべし」⇒ 今から述べる、この言葉を法義をいただく根本とするべきである。

⭕「わが往生の一段においては」⇒ 第一の心得である自身の往生ということについては。

⭕「あながちに偏執すべき耳をそばだて・・かたくその用捨あるべきものなり」⇒ むやみに誇る種をうかがおうと耳をそば立て、口を開いては、相手を非難することばかりを大事とするようなご時世であるので、自分勝手な振る舞いは、堅く差し控えるべきである。

⭕「きざみ」⇒ 時、場合。

⭕「深厚」⇒ 大変深く厚いこと。

⭕「荒涼」⇒ 遠慮のないこと、横柄なこと。

🙆‍♀️【問題提起】🙆‍♀️
①「内心にふかく一念発起の信心をたくわえて」とあるが「信心を内心に深くたくわえる」とは、どういう意味であろうか?
また、なぜ「信心を内心にたくわえる」必要があるのであろうか?

➡如来より賜る信心を貰ったから、吟味もせずにすぐに表に出すな、という意味合いがあるのではないか。
➡自分は本当に信心を頂いたと言えるのか?
➡信心自身の吟味、自己批判をする、外に出すな、我々の信心は浅いに決まっているけど、余計な揉め事が起きるのは、自分がしっかりと信心が頂けていないのではないのか。

➡真実の信心であるのか、自分の頂きの吟味を言われているのではないか。
➡よく金剛心は、原石みたいなもの、不純なものがひっついている。取り除いてやるべきである。➡どこまでも聞思、頂けていない。
➡一念一念、信心を吟味する。
➡深くたくわえる。信心を本当に金剛心として、磨いていくといわれているのでは?
➡我々の信心は浅い。念仏申すにしても浅い。真心が自分に果たしてあるのか、真剣に求めて下さい。砕け散るまで。
➡自分には果たして、真心があるのか、ないのか、真剣に求めていく。
➡自分は、真心をもって求めていく、19願にすら、立っていないのではないか?
➡19願を卒業したと、思うなら二乗に堕ちる。

②「弥陀に帰命すというも、信心獲得すというも、宿善にあらずということなし」とあるが「宿善」とは、具体的にどのようなことを言うのであろうか?

➡相手を観て、判断出来るレベルとして言われている。深い意味でいうならば、我々が仏法が聞けたのは宿善があったから。
➡後生を大事に思う気持ちは、とても大事なこと。娑婆を厭う、この世は生きづらい心がおきて、往生を願う、救いの道を求めていくのが、仏法です。
➡仏法に求めて聴こうとする。それが具体的に宿善ということになる。

➡我々が聞けるのは、神話的表現になりますが、兆載永劫の法蔵菩薩からのご念力によって、今、聴かせて頂いている。

➡今、現在、誰もが宿善はあるかも知れないけど、開発していない。
➡まだ時期尚早、宿善が全くないとは言えない。深い意味では人間に生まれたのは宿善がある。
➡しかし現実には仏法を全く聞かない人がいる。
➡けれども、やがて仏法を聴くようにはなると思うけど、求めている人はいる。先ず有縁の人を度すべし、と親鸞聖人は言われている。

また自分に「宿善」があるかないかは、どのようにして分かるのであろうか?

➡「後生を大事に思い、仏法を尊く思う心あらば」【五帖目十七通】

③「宿因のもよおし」という言葉、また親鸞聖人の「遇獲信心遠慶宿縁(遇信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ)」という言葉が引用されているが「宿縁」と「宿因」と「宿善」とは、それぞれ、どのような違いがあると言えるだろうか?

➡あえて違う言葉がある、使い分けてある。

➡ダイバ尊者と親鸞聖人は言われ、善があった人だけでなく、悪をも包んでいる。我々の善悪も包まれていく。疑謗も縁として、と言われている。
➡「われ作仏せん時、前世に悪のために我が名字を聞き」【行巻】『無量清浄平等覚寿経』
➡宿因は全てを包んでいる。宿因は、やはり弥陀の本願。涅槃の真因は信心なので。

➡曽我量深先生は、機の深信は、明るい。機の深信があれば、本当に自分に自信を持てると言われる。
      【終了】