3️⃣✨🔯【2024年6月06日(月)】西宮市の念仏寺にて、午後7時から9時まで、土井紀明先生の聖典講座の御縁を頂きました。
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🌠【対話編・浄土真宗⑪】🌠
B「前回は第十八願について、ことに〈乃至十念若不生者不取正覚〉のお誓い、いわゆる念仏往生の誓いのお心をお聞かせ頂きました。
今回は第十八願の〈至心信楽欲生我国〉についてお話しください」
A「まず第十八願を今、一度、引用します。
(原文)
設我得仏十方衆生
至心信楽欲生我国 乃至十念
若不生者不取正覚
唯除五逆誹謗正法
(書き下し)
たといわれ仏を得たらんに、
十方の衆生、至心信楽して、
わが国に生ぜんと欲いて、
乃至十念せん。
もし生ぜずは、正覚を取らじ。
ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(和訳)
たとえ私が仏になりえたとしても、十方の世界にあって、さまざまな悩みをいだきつつ生きるすべ
てのものが、私の救いにうそいつわりのないこと(至心)を疑いなく信じて(信楽) わが国に生まれることができるとおもって(欲生我国)、たとえわずか十返なりとも念仏申すばかりで、もし浄土に生まれることができないようなら、私は正しくめざめたもの(阿弥陀仏)にはなりますまい。
ただ五逆の罪を造り、仏法を否定するものは、この限りではない。
この中〈至心信楽欲生我国〉は〈至心に信楽して、我が国に生まれんと欲え〉で、意味は、
〈我が誓いをまことと信じて我が浄土に生まれるとおもえ〉という内容で、この中心は信楽すなわち信心です」
B「では〈至心〉とは」
A「本当に、まことにという意味です」
B「信楽とは」
A「信ぜよ、という意味で信じてくれよという、アミダ仏(法蔵菩薩)が私たちにお勧めの言葉です」
B「何を信ぜよとお勧めくださるのですか」
A「〈乃至十念 若不生者不取正覚〉の誓いです。この念仏往生の誓いを本当と信ぜよとのおこころです」
B「〈我が名を称えるばかりで助ける)という念仏往生の誓いを本当に信じてくれよ、との仰せなのですね」
A「ええそうです。信じなければ、念仏往生の(まるまる助ける)という、アミダ仏の救いの法が我身の救いにならないからです。
たとえば、東京に行くのに、新大阪駅のホームにいて、東京行きの新幹線が来て〈お乗りください、東京行きです〉と、アナウンスがあっても乗らなかったら、東京に行けないように、浄土行きの南無阿弥陀仏のお誓いのはたらきが来ても、それに乗らなければ、浄土に行けないようなものです」
B「そうすると至心信楽とは、念仏往生の願はまこと (至心)だから、どうか信じてくれよ、乗れよというアミダムのお心なのですね」
A「ええそうです。
〈称えるばかりで、まるまる引き受ける)で、どうか任せてくれよ、タノメのおこころが、至心信楽のアミダ仏の大悲のお心です」
B「では、欲生我国(我が国に生まれんとおもえ)とは」
A「(お誓いを信じて)我が浄土に生まれることができると思って安心してくれよというご親切です。
南無阿弥陀仏となって、口に耳に現れてくださるお助けを聞いて、
〈ああ、浄土に生まれさせてくださる、ありがたい〉と喜ばせていただく。
そういう未来を与えてくださるところの喚びかけが〈我が国に生まれんとおもえ〉のアミダ仏の仰せなのです」
A「次に〈至心信楽欲生我国〉の思し召しを、もう少し親鸞聖人のお心にそって深掘りしますと、至心とは、アミダ仏の真実心です。
法蔵菩薩は、人間には真実の心はなく、清浄なる心もなく、仏に成るような因は一つもないと知り抜いて、このような衆生を救うために、法蔵菩薩は清浄真実の心でもって、一切衆生を助けたいという願を起こし、修行して衆生を救う力を成就されました。
そして私たちに、
〈この誓いの力によって汝を救うから、どうかこの誓いに身をゆだねてくれよ〉とのお勧めの言葉が至心信楽といわれます」
B「真実は衆生にはなく、アミダ仏の誓願のはたらきが真実なのですね」
A「ええ、ですから、その真実の現れが南無阿弥陀仏であり、
〈汝を間違いなく救う〉という仰せとして喚びかけられているのです」
B「お念仏の南無阿弥陀仏のお声は、アミダ仏からの喚びかけなのですね」
A「ええ、私たちの口に現れたもう南無阿弥陀仏は私への喚び声であり、具体的な大慈大悲の現れです」
B「信楽とは?」
A「ここの信楽は、アミダ仏の信心であって、法蔵菩薩は人間には清浄な信心がなく、信心を起こし得ないと見て、信心までも衆生に与えようとして、願行成就されたのが南無阿弥陀仏です。
ですから、この信楽は〈この南無阿弥陀仏で衆生が助かることに一点の疑いもない〉という法蔵菩薩の信心です。
そして、どうかお願いだから、素直に聞き受けておくれ、とのやるせないお心です。
にもかかわらず、それを聞いても私たちは受け入れないのです。
それで、アミダ仏は何度も何度も私たちに喚びかけておられるのです。申し訳ないことです」
B 「では、欲生我国とは」
A「これも法蔵菩薩が〈衆生を我が浄土に生まれさせたい〉とのお心です。
一切衆生を我が国に生まれさせたいという願で、ご修行を成就された南無阿弥陀仏、これを私たちに与えようとされる心が、欲生我国の心に籠もっています」
B「衆生を浄土に生まれさせたいというお心から、私たちに南無阿弥陀仏を与えてくださるのですね」
A「南無阿弥陀仏を与えて聞かそうという心でもありますから、欲生我国の心を回向心ともいわれます。
この回向のお心は、浄土に生まれさせたいという、アミダ仏の願心からの南無阿弥陀仏の回向です。
回向とは、ふりむけ与えようとのはたらきです。私たちにアミダ仏の救いである南無阿弥陀仏をさしむけたもうお心で、それは第十七願として、ことに誓われています」
B「第十七願とは」
A「阿弥陀仏を衆生に回向、すなわち与えて下さるお誓いです。
私たち一切衆生に南無阿弥陀仏を称えさせ、聞かせて、信じさせてくださるお誓いです」
B「私たちにお念仏が申されるその元は、アミダ仏の第十七願の回向によるのですね」
A 「ええそうです。そのために、法蔵菩薩は、十方世界の仏たちに南無阿弥陀仏を讃歎されたいと誓われました。それに拠って、私た ちに南無阿弥陀仏を届けたいとの法蔵菩薩のお心です。
もし南無阿弥陀仏が仕上げられていても、誰も南無阿弥陀仏をほめることも、讃えることも、勧めることもしなければ、衆生は南無阿弥陀仏を信じないからです」
B「身近なことで言うと、私たちが念仏を申すようになったのは、人から念仏を勧められるとか、
勧めてくださる本を読んだりなどを縁として、
〈それじゃあ、私も〉となって称えるようになりますね」
A「なお第十八願には、信心を衆生に成就させずにはおかないというお心が入っています。
それが〈十方衆生 至心信楽欲生我国 若不生者不取正覚〉という信心の誓いです。
このお心から、親鸞聖人は第十八願を〈至心信楽の願〉ともいわれました。
そして第十七願にも、念仏往生の誓いを信じなければ、衆生は助からないので、衆生に信じさせたい、信じさせずにはおかないというお心がこもっています」
B「十八願に信心さえも成就して衆生に与えて救おうと誓われたとのことですが、衆生はアミダ仏から本願を信じる信心をどのようにしていただくのですか」
A「アミダ仏の〈大悲の心を聞く〉ばかりで、その大悲心が衆生に届いて信心となってくださるのです。ですから、念仏往生の願を信じる信心と言っても、信心というモノガラを与えるのではありません。
如来の大悲の願心を聞かせることが与えることになるのです。大悲の願心を聞くところに衆生に信心が起こるのです。
なぜかと言えば、聞くところに如来の大悲心が衆生の心に流れ込んで信心となってくださるからです。念仏往生の願を信じる信心は如来の大悲心の外にはありません」
B「大悲の願心をいただく信心なのですね」
A「衆生の信心の元は大悲の願心であり、大悲の願心は念仏往生の願に現れてい ます。
この大悲のお心を聞くところに与えられるのです。もう少し具体的に言えば、称える念仏の一声を聞く。
それは、一声称えるばかりで浄土に往生せしめる、という絶大なる大悲の心を聞くのです。
ここのところを、法然聖人は「煩悩の薄く厚きをも顧みず、罪障の軽き重きをも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と称えて、声につきて決定往生の思いをなすべし」と仰せられ、
声について往生を間違いないと定めなさいと仰せくださるのです」
B「称えている念仏の声に於て、〈一声なりとも称えるばかりで助ける〉の願心を聞き受けるのですね」
A「ええそうです。香樹院徳龍師のお話に、
嘉永三年(一八五〇)九月某日、或る同行、師を剣先の寮に伺い申しつけるが、仰せに、
必ず難しいことを云うな。地獄へ堕ちるものを、このまんま助けて下さるる事を喜ぶの じゃほどに。帰ったら他の同行へも申してくれ。
又、翌朝、御暇乞いの御礼に参りければ、仰せに、
念仏するばかりで、極楽〈生まれさせて下さるるのじゃほどに。
それを念仏するばかりと云えば、また称えるに力をいれる。
そこで法然様の仰せに、差別が出来たのじゃ。ただ称うるばかりで助かることを、聞くのじゃほどに。他の同行へもよう云うてくれ、と仰せられています。
〈称うるばかりで助かることを聞くのじゃほどに)と、いわれるところが大事です。
ですから、称名を離れて聞くのではありません。
それを十八願成就文では、
〈その名号を聞く〉といわれるのです。
念仏往生の誓いの名号を聞くのです。
〈一声称えるばかりで助ける〉を、称える一声に於て聞くのです。 それは、おのずから〈ソノママナリデ全面的に助ける、引受ける〉と聞かされるのです」
B「一声の念仏の声において、〈一声ばかりで助ける)の仰せは、〈そのままなりで全面的に引受ける)というアミダ仏の大悲心なのですね」
A「ええそうです。古来、真宗のお助けは、
〈善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、そのままなりのお助け〉 と伝えられてきたのは、この故です、この十八願に元があるのです」
B「そうすると、本願を信じる信心は〈そのままなりで助ける)の大慈大悲のお心を聞くところに与えられるのですね」
A「ええ、アミダ仏の大慈大悲の広大な情けを聞く、そこに大悲が我が身に潜み入り、私の心に本願を信じる信心として発起してくる のです。ですから、信心も私の心から起こるのではなく、アミダ仏の大悲心によって起こるのです。
これを聖人は、信巻の初めに、
「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」といい、
また「この心(信心)すなわち、これ念仏往生の願より出でたり」と仰せられるのです」
B「しかし、それほどのアミダ仏のご親切にもかかわらず、なかなか信心が起こり難いのは、なぜですか」
A「それは我身がアミダ仏に助けていただかなくてはならないほどの無知無力の煩悩だらけの存在であると感じていないからです。
助けられねばならない私と思っていないからです。ですから、阿弥陀仏のタスケルが響かないのです。受け取れないのです」
B「〈私はこのままで良い、助けられる必要はない〉と高ぶっているから、アミダ仏のお助けが受け取れないのですね」
A「そうなのです。私たちが救われ難き愚かな身であることを知らないからです。大悲の本願を聞くことによって、逆に救われ難き我が身と知らされるのです」
B「弥陀の本願は私たちを助からぬ者と知らせて救うてくださるのですね」
A「ええ、南無阿弥陀仏は助からぬ者を助ける大悲心です。全く救いの無き者、望み無き者をまるまる引き受けたもう南無阿弥陀仏なのです。それが正信偈の〈極重悪人唯称仏〉のお心です」
B「アミダ仏は、私たちが救いなき身であることを、どのようにして知らせてくださるのですか」
A「第十八願の〈唯除五逆誹謗正法〉の仏語などによってです。
これについては、次号でお話しします」(了)
【終了】
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240619/11/yk19610402/8c/10/j/o1080100315453366244.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240619/11/yk19610402/c2/5d/j/o0769108015453366253.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240619/11/yk19610402/46/e4/j/o0786108015453366261.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240619/11/yk19610402/5c/ec/j/o0795108015453366266.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240619/11/yk19610402/4f/50/j/o0695104315453366270.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240619/11/yk19610402/88/1e/j/o1080108015453366278.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240619/11/yk19610402/be/5e/j/o1080102615453366288.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240619/11/yk19610402/b2/5e/j/o0685108015453366291.jpg?caw=800)
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🌠【対話編・浄土真宗⑪】🌠
B「前回は第十八願について、ことに〈乃至十念若不生者不取正覚〉のお誓い、いわゆる念仏往生の誓いのお心をお聞かせ頂きました。
今回は第十八願の〈至心信楽欲生我国〉についてお話しください」
A「まず第十八願を今、一度、引用します。
(原文)
設我得仏十方衆生
至心信楽欲生我国 乃至十念
若不生者不取正覚
唯除五逆誹謗正法
(書き下し)
たといわれ仏を得たらんに、
十方の衆生、至心信楽して、
わが国に生ぜんと欲いて、
乃至十念せん。
もし生ぜずは、正覚を取らじ。
ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(和訳)
たとえ私が仏になりえたとしても、十方の世界にあって、さまざまな悩みをいだきつつ生きるすべ
てのものが、私の救いにうそいつわりのないこと(至心)を疑いなく信じて(信楽) わが国に生まれることができるとおもって(欲生我国)、たとえわずか十返なりとも念仏申すばかりで、もし浄土に生まれることができないようなら、私は正しくめざめたもの(阿弥陀仏)にはなりますまい。
ただ五逆の罪を造り、仏法を否定するものは、この限りではない。
この中〈至心信楽欲生我国〉は〈至心に信楽して、我が国に生まれんと欲え〉で、意味は、
〈我が誓いをまことと信じて我が浄土に生まれるとおもえ〉という内容で、この中心は信楽すなわち信心です」
B「では〈至心〉とは」
A「本当に、まことにという意味です」
B「信楽とは」
A「信ぜよ、という意味で信じてくれよという、アミダ仏(法蔵菩薩)が私たちにお勧めの言葉です」
B「何を信ぜよとお勧めくださるのですか」
A「〈乃至十念 若不生者不取正覚〉の誓いです。この念仏往生の誓いを本当と信ぜよとのおこころです」
B「〈我が名を称えるばかりで助ける)という念仏往生の誓いを本当に信じてくれよ、との仰せなのですね」
A「ええそうです。信じなければ、念仏往生の(まるまる助ける)という、アミダ仏の救いの法が我身の救いにならないからです。
たとえば、東京に行くのに、新大阪駅のホームにいて、東京行きの新幹線が来て〈お乗りください、東京行きです〉と、アナウンスがあっても乗らなかったら、東京に行けないように、浄土行きの南無阿弥陀仏のお誓いのはたらきが来ても、それに乗らなければ、浄土に行けないようなものです」
B「そうすると至心信楽とは、念仏往生の願はまこと (至心)だから、どうか信じてくれよ、乗れよというアミダムのお心なのですね」
A「ええそうです。
〈称えるばかりで、まるまる引き受ける)で、どうか任せてくれよ、タノメのおこころが、至心信楽のアミダ仏の大悲のお心です」
B「では、欲生我国(我が国に生まれんとおもえ)とは」
A「(お誓いを信じて)我が浄土に生まれることができると思って安心してくれよというご親切です。
南無阿弥陀仏となって、口に耳に現れてくださるお助けを聞いて、
〈ああ、浄土に生まれさせてくださる、ありがたい〉と喜ばせていただく。
そういう未来を与えてくださるところの喚びかけが〈我が国に生まれんとおもえ〉のアミダ仏の仰せなのです」
A「次に〈至心信楽欲生我国〉の思し召しを、もう少し親鸞聖人のお心にそって深掘りしますと、至心とは、アミダ仏の真実心です。
法蔵菩薩は、人間には真実の心はなく、清浄なる心もなく、仏に成るような因は一つもないと知り抜いて、このような衆生を救うために、法蔵菩薩は清浄真実の心でもって、一切衆生を助けたいという願を起こし、修行して衆生を救う力を成就されました。
そして私たちに、
〈この誓いの力によって汝を救うから、どうかこの誓いに身をゆだねてくれよ〉とのお勧めの言葉が至心信楽といわれます」
B「真実は衆生にはなく、アミダ仏の誓願のはたらきが真実なのですね」
A「ええ、ですから、その真実の現れが南無阿弥陀仏であり、
〈汝を間違いなく救う〉という仰せとして喚びかけられているのです」
B「お念仏の南無阿弥陀仏のお声は、アミダ仏からの喚びかけなのですね」
A「ええ、私たちの口に現れたもう南無阿弥陀仏は私への喚び声であり、具体的な大慈大悲の現れです」
B「信楽とは?」
A「ここの信楽は、アミダ仏の信心であって、法蔵菩薩は人間には清浄な信心がなく、信心を起こし得ないと見て、信心までも衆生に与えようとして、願行成就されたのが南無阿弥陀仏です。
ですから、この信楽は〈この南無阿弥陀仏で衆生が助かることに一点の疑いもない〉という法蔵菩薩の信心です。
そして、どうかお願いだから、素直に聞き受けておくれ、とのやるせないお心です。
にもかかわらず、それを聞いても私たちは受け入れないのです。
それで、アミダ仏は何度も何度も私たちに喚びかけておられるのです。申し訳ないことです」
B 「では、欲生我国とは」
A「これも法蔵菩薩が〈衆生を我が浄土に生まれさせたい〉とのお心です。
一切衆生を我が国に生まれさせたいという願で、ご修行を成就された南無阿弥陀仏、これを私たちに与えようとされる心が、欲生我国の心に籠もっています」
B「衆生を浄土に生まれさせたいというお心から、私たちに南無阿弥陀仏を与えてくださるのですね」
A「南無阿弥陀仏を与えて聞かそうという心でもありますから、欲生我国の心を回向心ともいわれます。
この回向のお心は、浄土に生まれさせたいという、アミダ仏の願心からの南無阿弥陀仏の回向です。
回向とは、ふりむけ与えようとのはたらきです。私たちにアミダ仏の救いである南無阿弥陀仏をさしむけたもうお心で、それは第十七願として、ことに誓われています」
B「第十七願とは」
A「阿弥陀仏を衆生に回向、すなわち与えて下さるお誓いです。
私たち一切衆生に南無阿弥陀仏を称えさせ、聞かせて、信じさせてくださるお誓いです」
B「私たちにお念仏が申されるその元は、アミダ仏の第十七願の回向によるのですね」
A 「ええそうです。そのために、法蔵菩薩は、十方世界の仏たちに南無阿弥陀仏を讃歎されたいと誓われました。それに拠って、私た ちに南無阿弥陀仏を届けたいとの法蔵菩薩のお心です。
もし南無阿弥陀仏が仕上げられていても、誰も南無阿弥陀仏をほめることも、讃えることも、勧めることもしなければ、衆生は南無阿弥陀仏を信じないからです」
B「身近なことで言うと、私たちが念仏を申すようになったのは、人から念仏を勧められるとか、
勧めてくださる本を読んだりなどを縁として、
〈それじゃあ、私も〉となって称えるようになりますね」
A「なお第十八願には、信心を衆生に成就させずにはおかないというお心が入っています。
それが〈十方衆生 至心信楽欲生我国 若不生者不取正覚〉という信心の誓いです。
このお心から、親鸞聖人は第十八願を〈至心信楽の願〉ともいわれました。
そして第十七願にも、念仏往生の誓いを信じなければ、衆生は助からないので、衆生に信じさせたい、信じさせずにはおかないというお心がこもっています」
B「十八願に信心さえも成就して衆生に与えて救おうと誓われたとのことですが、衆生はアミダ仏から本願を信じる信心をどのようにしていただくのですか」
A「アミダ仏の〈大悲の心を聞く〉ばかりで、その大悲心が衆生に届いて信心となってくださるのです。ですから、念仏往生の願を信じる信心と言っても、信心というモノガラを与えるのではありません。
如来の大悲の願心を聞かせることが与えることになるのです。大悲の願心を聞くところに衆生に信心が起こるのです。
なぜかと言えば、聞くところに如来の大悲心が衆生の心に流れ込んで信心となってくださるからです。念仏往生の願を信じる信心は如来の大悲心の外にはありません」
B「大悲の願心をいただく信心なのですね」
A「衆生の信心の元は大悲の願心であり、大悲の願心は念仏往生の願に現れてい ます。
この大悲のお心を聞くところに与えられるのです。もう少し具体的に言えば、称える念仏の一声を聞く。
それは、一声称えるばかりで浄土に往生せしめる、という絶大なる大悲の心を聞くのです。
ここのところを、法然聖人は「煩悩の薄く厚きをも顧みず、罪障の軽き重きをも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と称えて、声につきて決定往生の思いをなすべし」と仰せられ、
声について往生を間違いないと定めなさいと仰せくださるのです」
B「称えている念仏の声に於て、〈一声なりとも称えるばかりで助ける〉の願心を聞き受けるのですね」
A「ええそうです。香樹院徳龍師のお話に、
嘉永三年(一八五〇)九月某日、或る同行、師を剣先の寮に伺い申しつけるが、仰せに、
必ず難しいことを云うな。地獄へ堕ちるものを、このまんま助けて下さるる事を喜ぶの じゃほどに。帰ったら他の同行へも申してくれ。
又、翌朝、御暇乞いの御礼に参りければ、仰せに、
念仏するばかりで、極楽〈生まれさせて下さるるのじゃほどに。
それを念仏するばかりと云えば、また称えるに力をいれる。
そこで法然様の仰せに、差別が出来たのじゃ。ただ称うるばかりで助かることを、聞くのじゃほどに。他の同行へもよう云うてくれ、と仰せられています。
〈称うるばかりで助かることを聞くのじゃほどに)と、いわれるところが大事です。
ですから、称名を離れて聞くのではありません。
それを十八願成就文では、
〈その名号を聞く〉といわれるのです。
念仏往生の誓いの名号を聞くのです。
〈一声称えるばかりで助ける〉を、称える一声に於て聞くのです。 それは、おのずから〈ソノママナリデ全面的に助ける、引受ける〉と聞かされるのです」
B「一声の念仏の声において、〈一声ばかりで助ける)の仰せは、〈そのままなりで全面的に引受ける)というアミダ仏の大悲心なのですね」
A「ええそうです。古来、真宗のお助けは、
〈善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、そのままなりのお助け〉 と伝えられてきたのは、この故です、この十八願に元があるのです」
B「そうすると、本願を信じる信心は〈そのままなりで助ける)の大慈大悲のお心を聞くところに与えられるのですね」
A「ええ、アミダ仏の大慈大悲の広大な情けを聞く、そこに大悲が我が身に潜み入り、私の心に本願を信じる信心として発起してくる のです。ですから、信心も私の心から起こるのではなく、アミダ仏の大悲心によって起こるのです。
これを聖人は、信巻の初めに、
「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」といい、
また「この心(信心)すなわち、これ念仏往生の願より出でたり」と仰せられるのです」
B「しかし、それほどのアミダ仏のご親切にもかかわらず、なかなか信心が起こり難いのは、なぜですか」
A「それは我身がアミダ仏に助けていただかなくてはならないほどの無知無力の煩悩だらけの存在であると感じていないからです。
助けられねばならない私と思っていないからです。ですから、阿弥陀仏のタスケルが響かないのです。受け取れないのです」
B「〈私はこのままで良い、助けられる必要はない〉と高ぶっているから、アミダ仏のお助けが受け取れないのですね」
A「そうなのです。私たちが救われ難き愚かな身であることを知らないからです。大悲の本願を聞くことによって、逆に救われ難き我が身と知らされるのです」
B「弥陀の本願は私たちを助からぬ者と知らせて救うてくださるのですね」
A「ええ、南無阿弥陀仏は助からぬ者を助ける大悲心です。全く救いの無き者、望み無き者をまるまる引き受けたもう南無阿弥陀仏なのです。それが正信偈の〈極重悪人唯称仏〉のお心です」
B「アミダ仏は、私たちが救いなき身であることを、どのようにして知らせてくださるのですか」
A「第十八願の〈唯除五逆誹謗正法〉の仏語などによってです。
これについては、次号でお話しします」(了)
【終了】
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