🟨①此の観経は菩薩蔵・頓教に摂む・如是とは法を指す定散両門なり・機行ずれば必ず益す・如とは衆生の心の如し【漸教と頓教・相と空・人法と天空の教え】【令和6年06月01日】
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🟥https://youtu.be/f4CWkjJdh70?si=XfF5e5z4Qzsu8Dv_

1️⃣〖レジメ資料〗
🌍️【教行信証化土巻】🌍️
🟥【原文】🟥
🟨「教の大小」と言うは、
🟨問うて曰わく、此の『経』は、二蔵の中には、何れの蔵にか摂する、二教の中には、何れの教にか収むるや。
🟨答えて曰わく、今此の『観経』は菩薩蔵に収む、頓教の摂なり」と。
🟩菩薩蔵とは、菩薩の人の教えで、観無量寿経には、定善と散善が教えられる。
🟩特に定善の部分が、観無量寿経の肝の部分で、定善の部分は菩薩の進む道で、普通の凡夫では進めない、想像もつかない道です。

🟩観無量寿経は、菩薩の進む道であり、頓教とは、速やかに進む道である。
🟩これを出すことによって、観無量寿経は、方便の教えであり、実践しなければならない教えであることが分かります。

🟩観無量寿経は、凄くレベルの高い教えなので、レベルの高い教えをやらなければならないとなった時に、普通は、自分はやれないとなる。
🟩しかし、やれないけれども、やっていきなさい、という教えになります。これは化土巻ですから。

🟩だから「如是」という言葉を言われて、如是とは、その通りに実践すれば、その通りに結果が必ずやって来る、と教えるのです。

🟨又、云わく(序分義)「又「如是」(観経)と言うは、即ち此れは法を指す。
🟩「法を指す」とは、善悪の基準です。出来る、出来ない、ではなくて、それが善だということです。だから、善をやっていかなければならない。
🟩たとえ、出来なくて、自分の中では、それが善だし、やっていかなければならないと思って頂きたい。

🟨定散両門なり。
🟩ここでの観無量寿経の教えは、定善と散善の両方の教えだということです。

🟨是れ即ち、定むる辞(ことば)なり。
🟩教えとして、これが教えなのですよ。たとえば、
「⭕⭕さん、こうして下さい」と教えのレベルが、たとえ高かったとしても、それを、
「これをしなさい」と言われたのですから「これをしていこう」と思う。
🟩出来なかったら、なぜ出来なかったのだろうかと考える。これが教えです。

🟩浄土真宗では、悪しか出来ないと言われているから、自分に都合の良いように教えをねじ曲げてしまっているところがある。
🟩今の自分の機に合うように、都合のいいように、悪しか出来ないから、善をしなくていいんだ、と教えを曲げてしまったところがある。

🟩ここは「是れは定まる言葉なり」これが基準ですよ。
「この基準に従って、やっていきなさいよ」
🟩教えを実践して、自分は悪しか出来ない自分が知らされた。それを実践もしていないのに「自分は悪しか出来ない」ことを最初に聞いてしまって、
🟩「ああ、そうなんだ」と善を実践することは要らない、必要はないんだ!と自分の都合の良いように教えを変えてしまったところが今の浄土真宗にはある。
🟩それでは、方便にならない。

🟨機行ずれば、必ず益す。
🟩教えの通りに実践すれば、その通りに得られる結果・利益が必ず得られますよ。
🟩そう思って、やっていくことが大事ですよ。

🟨此れは如来の所説の言(ことば)、錯謬(しゃくびょう)無きことを明かす。
🟩これは、お釈迦様のお言葉だから、教えを実践すれば、間違いなく、結果・利益は得られる。

🟨故に「如是」と名づく。
🟩誤りがないから、如是という。

🟨又「如」と言うは、衆生の意の如しとなり。
🟩今度は、是に対して、如とは、私達の心の如しだと教えられます。

🟨心の所楽に随いて、仏、即ち之を度したまう。
🟩観無量寿経という教えは、定善という教えと、散善という教えであり、今の自分の心に教えを合わせて、説いてくれているものなのです。
🟩善人には、善人の教えを、普通の人には、普通の人の教えを、悪人には、悪人の教えが説かれている。

🟩だから、観無量寿経という教えは、善人であっても、助かるし、悪人であっても、助かる教えなのである。だから
🟨心の所楽に随いて、
🟩今の自分というのは、善人なのか?普通の人なのか?悪人なのか?
🟩そこに随って、実践すれば、
🟨仏、即ち之を度したまう。
🟩それに合わせて、教えが説かれている。

🟨機教、相応せるを、復た称して「是」とす。
🟩機とは、私達の心と教えが一致しているのを是とします。

🟨故に「如是」と言う。
🟨又「如是」と言うは、如来の所説を明かさんと欲す。
🟩だから、これは、このあとに、如し、如しと色々と書いてありますけれども、
🟩要は、お釈迦様という人は、私達に合わせて、教えをそれぞれ、説いて下される。

🟩だから今、この観無量寿経という教えを膨らませて、善知識が教えを説くとなったら、
🟩⭕⭕さんに対しては、⭕⭕さんに合った教えを説いて下さる。

🟩観無量寿経の教えを膨らまして、その人にあった教えを説いて下される。
🟩だから、この人の教えを聞いて、自分はとても出来ないと落ち込むのではなく、
🟩あなたには、あなたに合った教えを説いて下さるので、機に合わない教えを自分が聞いて、
「いや、自分はダメなんだ」と思う必要はない。

🟩如是とは、全ての人に対して、説いているので、
🟨一切の法を説くこと、千差万別なり、といわれている。

🟨如来の観知、歴歴了然として、心に随いて行を起こして、各おの益すること同じからず。
🟩仏様の智慧というのは、極めて智慧が明らかであり、相手に合わせて教えを説いて下さるから、心に従って行を起こして、各々が実践すれば、それぞれが、それぞれの利益が得られる。

🟩どうしても、⭕⭕会みたいに教えを固定して、杓子定規になりがちだけど、仏教とは相手に応じて、因果の道理に従って、教えが説かれているので、誤りがない。
🟩だから、是、自分の守るべき教えであるから、如是という。

🌟【善導大師は、20通り『如し』と言われる】🌟

🟨漸を説くことは、漸の如し、
🟩漸教【救いに時間のかかる教え】

🟨頓を説くことは、頓の如し。
🟩頓教【救いに時間のかからない教え】

🟨相を説くこと、相の如し、
🟩相とは、かたち、何かを例え話で話をしていく時に、目に見えないものを形にあらわして、話をしていく。

🟨空を説くこと、空の如し。
🟩言葉にあらわせないものを言葉にあらわせないものとして、説く。どんな言葉をもってしても、言葉であらわせないものを説いていく。

🟨人法を説くこと、人法の如し、
🟩人間に生まれる教え。

🟨天法を説くこと、天法の如し。
🟩天上界に生まれる教え。
     【続き】

🌟【二蔵(にぞう)】
🔷仏教の分類で、声聞蔵(しょうもんぞう)と菩薩蔵(ぼさつぞう)。
🔷小乗教徒である声聞・縁覚のために説かれた教法(声聞蔵)と、大乗教徒である菩薩のために説かれた教法(菩薩蔵)。

⏹️🟩【全体の意訳】🟩⏹️

🔷問うていう。
🔶この経は、 大乗と小乗とのどちらに入るのか、 また頓教と漸教との、どちらの教えに入るのか。

🔷答えていう。
🔶この観無量寿経は、 大乗の中に入り、 また頓教の中に入る」

🔷また次のようにいわれている (序分義)。
🔶「また如是というのは、 仏の説かれた法を指していて、 定善・散善の法門のことである。
是とは間違いないという言葉である。 教えを受けるものが、この行を修めれば、必ず利益を得る。

🔷これは、 如来の説かれたお言葉には誤りがない、ということを示している。 だから如是という。

🔶また如とは、 衆生の意のままということである。
衆生の願いにしたがって、 仏はお救いくださる。
教えとそれを受けるものとが、相応しているのを、 また是というのである。 だから如是という。

🔷また如是というのは、 如来の説かれる教えについて明らかにしようとするのである。
🟨漸教は、漸教のままに、
🟩頓教は、頓教のままに、

🟨ものの相は、ものの相のままに、
🟩空は、空のままに、

🟨人間の世界に生れる教えは、
人間の世界に生れる教えのままに、
🟩神々の世界に生れる教えは、
神々の世界に生れる教えのままに、

🟨小乗【自利の教え】は、小乗のままに、
🟩大乗【利他の教え】は、大乗のままに、

🟨凡夫は、凡夫のままに、
🟩聖者は、聖者のままに、

🟨因は、因のままに、
🟩果は果のままに、

🟨苦は苦のままに、
🟩楽は楽のままに、

🟨遠いことは、遠いままに、
🟩近いことは近いままに、

🟨同じことは同じままに、
🟩別のことは別のままに、

🟨清らかなことは、清らかなままに、
🟩穢れたことは、穢れたままにお説きになる。

🔶このようにすべてのことを、それぞれに応じて、種々さまざまにお説きになるのである。
🔷如来は、すべてをありのままに観じて、明らかに知り尽しておられる。
🔶衆生は、自らの願いのままに行を修めるから、 それぞれに受ける利益が同じではない。
🔷しかし、 如来の行為と、その結果は道理にかなっていて、 すべて誤りがないのである。
🔶これを、また是という。 だから如是という。」
     【終了】