1️⃣【2024年5月12日(日)】西宮市の念仏寺にて午後3時半より5時半まで、土井紀明先生〖念仏座談会〗での御縁を頂きました。【途中参加】 ………………………✴️✴️……………………✡️【座談会での質疑応答】【質問】私は○○会の元会員で、現在は清森さんと親しくしている者です。それで、土井先生の『一仏教徒の旅物語』という御著書の中に、2006年に台湾の寺院をいくつか訪問されたという内容が書かれていると聞きました。私自身も、同じ内容の文章をブログで拝見しました。http://nenbutsuji.info/index.html/taiwan/その話を切っ掛けに、思い出した出来事があります。実は、2006年よりももっと以前に、台湾の浄土仏教の僧侶の方々(男女を問いませんが、尼僧さんが多かったように思います)が、大勢、○○会の会員になった時期がありました。(平成10年(1998年)前後がピークだったと思います。)しかし、その後、それら台湾の僧侶の方々が、大勢、退会してしまわれました。理由については、あくまで推測の域を出ませんが、元会員だった台湾の僧侶の著書をネットでたまたま見つけて、機械翻訳で読んでみたところ、「○○会に在籍して聴聞していても、今生で信心獲得することは到底無理だ」という判断に至ったことが一番の理由のようです。そして、それらの方々は、今では、台湾で、善導大師を中心とした浄土仏教での求道をされているようです。台湾の浄土門は日本の浄土門と比べると、かなり聖道門的だと思います。(善導大師を見習って、きちんと戒を守り、「僧侶の肉食妻帯なんて、とんでもない」という立場を今でも貫いていますので。)それで、土井先生に質問が3つあります。1️⃣.台湾の僧侶の方々が、大勢、○○会を退会したという判断は正しかったと思われますか?2️⃣.浄土真宗とはかなり違って、聖道門的な求道をされていますが、その聖道門的な求道は、末法の現代でも意味があると思われますか?3️⃣.親鸞聖人や法然上人の教えに依らずに、善導大師の教え(あるいは、七高僧のうち善導大師までの「五高僧」の教え)だけでも、信心獲得できる(または、聖道門的に自力で悟れる)可能性はあると思われますか?以上、ご回答のほど、宜しくお願い申し上げます。-----------------------------------------------------【回答】1️⃣について、私は⭕⭕会にいたこともないので分かりません。会から出た人に聞いてください。私が答えたら、不正確になりますから。2️⃣について、台湾仏教でなくても、禅宗でも、チベット仏教でも、一生懸命にやっておられますので、それを私は云々することは出来ませんし、私はそういう方でも、悟りを開くことは出来ると思います。ただし、お釈迦様もそうでしたけれども、転換がある。何とか悟ろうとして、自力の修行をして、その延長ではなくて、悟ろうとして、自我がどこかで否定されるところを通ると、私は思います。悟る時は他力、真理そのものは、こっちに来ないといけない。向こうから来ないと、私の力では悟れない、ということは本当だと思います。真理は向こうから、自我否定としてやって来る。真実がある。真実を見失っている時は、見えない不安がある。本当のものに遇いたい、促し。真理に背くと気持ちが悪い。例えば、ボタンでも一つかけ違えると気持ちが悪い。なぜ気持ちが悪いという心が起こるか?それは、かけ間違えているからです。真理に背き、真理を見失っている時は、何か落ち着かない。不安がある。何か空しい。そういうものが真理からの促し。これではあかん!真理そのものから来ている促しというものがあって、それが段々と自覚的になって、もう、ええわ、と終わる場合もある。一生、気持ちが悪いんだけれども、それは置いといて、今は楽しいことがあるから、やっていこうか。これは一般の世間の方々はそう。でも促しがあって、気持ち悪い。これはおかしいと、自覚をしていくところに道を求めていくことがあるので、元々、真理が働いているから、そこから、これではいけないという心の囁き。これを清沢先生は「深心の資養より起きる至誠の要求だ」と言われた。こういう気持ちが起こってくる。これは真理そのものから来ているから、他力といえば他力。真理に逆らうと、真理そのものから要求されてくる。私の命、そのものから要求されてくる。これではあかんぞ!と。心の底から起きてくる、命の底から起きてくる要求、それが自覚的に起きてきたのが、聞法。あるんだけれども、気がつかずに一生を終える人も当然、多いです。3️⃣について、それは私はあると思います。真理は広いので、当然、あると思います。それこそ、宗教に関わっていない人でも、目覚めというのは起こる。我々が生きているというのは、如来の働き、これは親鸞聖人の言葉では、十方微塵世界に満ち満ちている、と。阿弥陀様とは、どんなところでも満ち満ちている。だから、それが気づくというのは、あるのが本当だと思います。聖道門とか、浄土門とか、というよりも真理の偉大さ、ああそうか!と知る。そういう人がいても、積極的に布教をしていかない人もいる。お釈迦様以外でも、ヒマラヤで悟った人は、何人もいた。無名の目覚めた人は、インドでは沢山いたと私は思います。それを詳しく正確に説いたところにお釈迦様の偉大さがある。だから、独覚者がいたと言われます。ラーマクリシュナという人がいました。ある時に講演をされた。ヒマラヤにいろんな行者がいるんだ、と。だけど語らずに一生を終えていった人がいる。真理は普遍的であり、どんな処でも、働いているものですから。そして、仏教とは自我否定ですから。たとえば、六祖の慧能禅師は、お坊さんが金剛経を読んでいた時に悟り、お寺の小僧さんになった。鳩摩羅什は経典を読んで、十七歳で覚ったと聞く。だから、どんな所で覚るか、覚りとは目覚めといってもいいし、自覚といっていい。いろんな言い方がある。そういう人は、ちょこちょこといるし、どれだけきちんと説くか、それによって影響力が違ってくる。何でもない人でも、凄い人はあり得ると思います。どんな人でも、この人はと、軽蔑は出来ないですね。      【終了】 ………………………✴️✴️……………………🌍️【配布資料】🌍️🌟今井昇道師『南無の釈』より🟨一五三、南無と云ふは、変わらぬ心を変わる心の中に求めたことの愚かさを笑う心なり🟨一五四、南無と云ふは、此心はどうもなられぬときまりをつけるさへ、いらぬ心なり🟨一五五、南無と云ふは、御助けをむこうにながめて、ひきよせる世話のいらなくなった心なり🟨一五六、南無と云ふは、異安心と云ふ異安心にほんの壁一重の隣になりて、どれにもよく似るやうになった心なり🟨一五七、南無と云ふは、計らひが我心の名前と合点の出来た心なり🟨一五八、南無と云ふは、計らふても助けるとある心なり🟨一五九、南無と云ふは、計らふほど御助けの確かに喜ばるる心なり🟨一六〇、南無と云ふは、計らへば計らふほど、計らひの間にあわぬ事の知れて喜ばるる心なり🌟親鸞聖人『末燈鈔』より🌟【高田派聖典・2012】🟨さては、仰せられたる事、信の一念、行の一念、二つなれども、信を離れたる行もなし、行の一念を離れたる信の一念もなし。その故は、行と申すは、本願の名 号を一声称えて、往生すと申すことを聞きて、一声をも称え、もしは十念をもせんは行なり。この御誓いを聞きて、疑う心の少しもなきを信の一念と申せば、信と行と二つと聞けども、行を一声するを(と)聞きて疑わねば、行を離れたる信はなしと聞きて候う。また、信離れたる行なしとおぼしめすべく候う。これ皆、弥陀の御誓いと申すことを心得べし。行と信とは、御誓いを申すなり。     【終了】