1️⃣🌉🌠【2024年5月12日 (日)】
10時00分より
🌍️芦屋仏教会館【日曜仏教講座】
❇️講題:七高僧の教え ー曇鸞大師(3)
❇️講師:元大阪大谷大学教授
    梯 信暁 先生
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🔯【講義の走り書きメモ】🔯
🔶曇鸞大師のみこころを味わわせて頂きます。論註という書物は難しい書物で、親鸞聖人は論註を深く読み込まれました。
🔷おそらく親鸞聖人が論注を発掘して下さったと言っても、過言ではないと思います。

🔶というのは、浄土教思想史を私は研究をしておるのですが、浄土教思想史の中で、初めて浄土教の教理を組織した書物が、曇鸞大師の論註なのです。
🔷生没年から見ても、古いのです。中国の南北朝時代の北魏の時代です。日本では、まだ歴史時代には入っていない。それぐらいの大昔の時代なのです。

🔶ところが、この論註という書物はあまり流布されていない書物なのです。
🔷中国では、論註、あるいは曇鸞大師の功績に、最初に注目なさったのが、道綽禅師です。

🔶そして曇鸞大師の研究をなさって、その考えをお弟子の善導大師にお伝えされた。
🔷善導大師は7世紀、長安で活躍なされて、並み居る教学者を相手に、自身が今まで学んできた、伝わってきた浄土の教えを善導大師が広く広められたのですが、理解が出来なかった。

🔶しかし、七世紀に論註が深く研究なされた形跡がありません。
これは長安で善導大師が論註の教えを広く説き広められたのですが、多くの人に理解をされなかったのではないかと思われます。
🔷実は論註という書物が七世紀の長安で、話題にのぼることは殆んどなかったのであります。それまでずっと埋もれていた。

🔶このあとに朝鮮半島の新羅時代に、浄土教研究が優勢となります。
🔷日本では、八世紀以降に南都や、比叡山で、浄土教研究が非常に優勢になります。

🔶その中で論註を使って、浄土教の研究をした人は、実は日本で一人だけいる。
🔷奈良の元興寺という寺がある。元々は飛鳥にあった寺、日本の最初の寺、蘇我氏が建てた寺。
智光というお坊さんがいらっしゃいました。この人が論註を使って研究をしている。

🔶ですから、八世紀の日本で既に研究がなされていたのは、確かなのですけれども、ところがこの論註の研究が智光以降に、ずっと途絶えていた。
🔷比叡山では、10世紀に浄土教研究が勃興致しまして、そして隆盛となって、直接、法然上人の浄土教学に繋がっていくことになります。

🔶ところが比叡山で、論註の研究をしている形跡がないのです。
それをどう理解をするか?
🔷私は10世紀の比叡山には、論註は伝わっていなかったというように考えて、方々で言っているのですけれども、あるかないかは、難しい話です。ないものをないというのは、難しいです。

🔶たとえば、源信僧都は、往生要集を書き表した。その中で天親菩薩の浄土論の教えを理解をする時に、曇鸞の論註ではなくて、智光の書物を使っている。
🔷ということは、論註が源信僧都のお手元にあったならば、智光よりも論註を使ったと思います。
それでないものをない、という時には、あるべきところにないということが言えたら、とりあえず言えるのではないか。

🔶あるべきところ、つまり源信僧都がお使いになっていない。ということで10世紀の比叡山には、論註はなかったと私は言いました。🔷今のところ、承認されているところであります。

🔶せっかく八世紀の奈良で伝わっていた論註が研究されなかったのか?
🔷善導大師が長安に持ち込んだ論註が、長安では、なかなか広まらなかったのは、それは難しいからだったから、と思います。

🔶論註は難しい。では、どこが難しいのかと言いますと、浄土論の註釈書にもかかわらず、曇鸞大師は、浄土論の基本的教学、つまり瑜伽行派の教学ではなく、龍樹菩薩のお立場で、浄土教を理解なさった。
🔷それで龍樹菩薩の系統は、空の思想で、のちに三論宗で中観派といわれる。印度の大乗物販の二大学派ですね。

🔶龍樹菩薩の中観派と、天親菩薩の瑜伽行派。この二つの流派が大乗仏教の学派なのですけれども、曇鸞大師は、天親菩薩の思想を龍樹菩薩の思想で理解をしようとされた。
🔷なぜか?それは浄土教は凡夫のために説かれた教えなのだ、というのが曇鸞大師の基本的な考えであり、凡夫が救われていく。

🔶論註は私達どもが救われていく。私達のような、つまらんものを救う教え。それが阿弥陀様の教えなのだ。
🔷龍樹菩薩の考え方に基づいて、天親菩薩のお書きになった浄土論を註釈したものですから、これは中々、理解し難い、難しい本。

🔶どうして曇鸞大師は天親菩薩のお書きになった本を註釈なさったのか?謎ですよね?
🔷菩提流支三蔵が曇鸞大師に対して浄土教の典籍を授けられた。
これがきっかけになって、浄土教の研究を始められた。

🔶伝記書物によりますと、授けられたのは、観無量寿経だと書かれている。
しかし一説には、これは、浄土論である。これもわりと有力な説であります。
🔷流支さんが翻訳した、ほやほやの文献を曇鸞大師に授けられた。直接、三蔵法師から、授けられたのだから、この本で浄土教の勉強をしようとされた。これが一つです。
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🌍️【配布資料】🌍️
【4】曇鸞『論註』巻上
芦屋仏教会館・日曜公開講座資料(梯)
七高僧の教え -曇鸞大師(3)-

4.曇鸞『論註』巻上

問う。業道経に「業の道理は秤のようなもので、重い方が先に引かれる」と言う。『観無量寿経』に「五逆・十悪の罪を造り、悪の限りを尽くした者は、悪道に堕ちて無量の苦を受けるのが当然だが、命終に善師の教えに遇い、心を込めて十遍〈南無阿弥陀仏) と称えることができたならば、即座に安楽国に往生し、三途の苦難を味わうことは二度と無い」と説かれる。業の道理に反する教えではないか?

答え。五逆十悪の罪と、臨終十念の念仏の軽重を、三つの道理によって比較してみよう。

第一に、心の状態、第二に、縁の関わり方、第三に、決定心の有無である。

第一に、心の状態を較べてみると、罪を造る人の心は、自身の誤った見解から起こり、十念念仏の心は、善師の導きによって真実の法を聞いて起こる。
一方は真実、一方は虚妄の心である。較べようもなかろう。
千年の間、闇に包まれていた部屋に、一瞬でも日の光が差し込めば、たちまち明るくなるようなものだ。
長年の闇だから、少しばかりの光では破られないというようなことがあろうか。

以上が、心による比較である。

第二に、縁の関わり方を較べてみると、罪は自身の妄念から生ずるものであり、煩悩が造り出す嘘偽りの存在であるヒトという生き物を縁として起こるものである。
十念の念仏は、この上なく、尊い信心から生じ、阿弥陀仏が成就された真実の功徳が込められた名号 を緑として起こされるものである。
毒矢に射られ、骨まで砕けてしまっても、毒消しを塗った鼓の音を聞けば、たちまち毒矢が抜け落ち、毒が消えるようなものである。・・・毒が強烈ならば、どうしても抜けないということはない。

以上が、縁による比較である。

第三に、決定心の有無を較べてみると、罪は散漫な心、後に挽回の余地があると思う心によって起こされるが、十念の念仏は、専一の心、もう後がないという心から起こる。これが決定心による比較である。

以上、三つの比較によって、十念念仏が重いことは明白である。

よって業の道理により、三途の苦を脱することができるのである。

5.曇鸞『論註』卷下

「阿弥陀如来の名を称える」とは「限りない光」という意味をもつ如来の名を称えるのである。
「如来の智慧の表象としての光明のはたらきに応じて」とは、仏の光明は、すなわち真如をさとる智慧の現れだということである。
その光明が、すべての世界をくま なく照らし出して、あらゆる人々の煩悩の闇を打ち破るのである。
太陽や月あるいは宝玉の光が、ただ、わずかな空間の闇を破るのみであるのとは、おおいに異なる。
「如来の名の意味通りに正しく称えて、如来の名前の意味に契ってゆこうとするの」とは「限りない光」という如来の名は、我らのすべての煩悩の闇を打ち破り、我らすべての願いを満たそう、という意志の込められたものだということである。

①如来の名前の意味通りに正しく称えて、如来の名前の意味に戻ってゆこうとする「彼の名義の如く如実に修行し相応せんと欲す」の訳。
『浄土論』には「彼の名義の如くす。如実に相応を修行せんと欲す」とあり、
「阿弥陀(限りない光)」という仏の名の意味をよく理解した上で「南無阿弥陀仏」と称えれば、それは真の菩薩行となると説かれている。曇鸞はそれを独自に読み替えて「南無阿弥陀仏」と称えれば、そこには「限りない光」という名の意味に込められた仏のはたらきが備わっているから、その意味の通りに、限りない光に包まれ救われると理解した。
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      【終了】