1️⃣🌃【2024年5月11日(土)】興福寺・佛教文化講座にて聴聞させて頂きました。………………………✴️…✴️……………………❇️場所・興福寺会館🌎️🌟第1講 午後1時~午後1時50分🟨「海を渡った興福寺僧②)🟨興福寺・貫首 森谷英俊先生………………………✴️…✴️……………………🔷日本にも三蔵法師がおられたことを初めて知りました。🔶最澄や空海のような凄い人が、法相宗、興福寺におられたことが最近、分かってきたようです。🌎️【配布資料】🌎️❇️〖海を渡った興福寺僧〗【下】❇️2024年05月11日1️⃣1、靈(霊)仙~828年?2️⃣2、行賀 天平元年(729)?~延暦22年(803)2月8日✨【遣唐使 略年表】🟨(推古15年 607 第2次遣隋使 小野妹子『日本書紀』)🟨舒明 2年 630 第1次遣唐使 犬上(いぬがみ)御田鍬(みたすき)『日本書紀』🟨和銅3年 710 平城遷都 興福寺創建🟨霊亀2年 716 首皇子(母は異母姉宮子) 光明子と結婚🟨養老元年 717 第9次遣唐使 大伴山守 玄昉(げんぼう)留学(るがく)僧🟨養老 2年 718 安倍内親王(孝謙天皇) 誕生🟨養老 4年 720 造 興福寺仏殿司・翌年に興福寺の北円堂が完成🟨神亀 3年 726 聖武天皇、元正太上天皇の病気平癒 東金堂🟨天平元年 729 光明子、皇后となる🟨天平2年 730 興福寺・五重塔を創建 悲田院・施薬院🟨天平 5年 733 第10次遣唐使 多治比広成 榮叡興福寺留学僧🟨天平 6年 734 興福寺・西金堂造立 玄昉 種子島に着🟨天平勝宝6年 754 第12次 藤原清河 霊仙と行賀が渡唐?🟨延暦23年 804 第18次 藤原葛野麻呂 霊仙と行賀に渡唐?🟨寛平 6年 894 第20次遣唐使(菅原道真 任命のみ)🌃【略伝】🌃🟩靈(霊)仙(りょうせん)🟩🔶一説に弘法大師、伝教大師と同じ頃に入唐。🔶その卓越した才を、唐朝の憲宗(けんそう)皇帝に認められ、詔により、カシミール出身の僧・般若三蔵の漢訳事業に参加。🔶般若三蔵を助け、筆受・訳語を務め、弘仁2年(811)『大乗本生心地観経』の梵文漢訳を完成し、三蔵に任じられ、宮中の仏事を司る内供奉(ないぐぶ)十禅師となる。🔶日本人で、唯一人の三蔵法師。🟩行賀🟩🔷僧綱補任(興福寺 重文)🌠宝亀10(779)年10月16日🔷律師に補任。俗姓は上毛野公。大和国の広瀬郡(奈良県北葛城郡周辺)の出身。 🔷裏書に「十五歳で出家し、廿歳で受戒」或る本に云ふ「生年廿五入唐、住唐世二年」。🟨延暦元(782)年 任 興福寺別当🟨3(784)年9月9日 任 小僧都、廿五入唐、廿一帰朝🟨15(796)年12月24日 任 大僧都🟨22(803)年2月8日 入滅⏹️遣唐留学僧 靈(霊) 仙の事績⏹️🌏️石山寺・所蔵『大乗本生(ほんじょう)心地観経』巻1跋文(ばつぶん)🟨元和五(810)年七月三日🟨内出梵夾 其月廿七日 奉詔於 長安醴泉寺至 六年三月八日 翻訳進上🟨罽賓(けいひん)国 三蔵 賜紫沙門 般若宣梵文 醴泉寺 日本国沙門 靈仙筆受 幷訳語🟨経行寺沙門 令碁(ぼ) 潤文 以下略🌠【用語】🌠🌍️「罽賓国」➡️ 現アフガニスタンのガズニー周辺(ガンダーラ・カシミール)🌍️「宣(訳主)」➡️ サンスクリット文を口述。「筆受幷訳語」梵語を漢語に改める。🌍️「潤文」➡️ 訳語の表現を吟味、必要なら潤色。○ 出生地 1、徳島県(阿波国)と2、滋賀県説。1️⃣1 、天長三(826)年二月廿九(淳和天皇) 🔷『日本後紀』巻卅四逸文 唐留学僧霊船《霊仙》の弟妹に阿波国の稲一千束を賜わる。2️⃣2、米原町の南東に霊仙山 (1084m)、また志賀郡志賀町にも同名の山(7 51m)あり。🔷霊仙訳出参加の『大乗心地観経』古写本が石山寺に伝わる。⭕霊仙三蔵の主たる資料🟨円仁『入唐求法巡礼行記』🟨高楠順次郎博士『靈仙三藏行歷考』。⭕その他の資料🟨恵心僧都・源信の『一乗要決』巻下🟩「彼の經(『大乗心地観経』)の筆受は靈仙法師なり。本は當朝の興福寺に住し、法相宗を習學す。」🟨慈蘊『法相髄脳』奥書き🟩「延暦二十二年、この書『法相髄脳』を遣唐留学生、霊仙 闍梨に附け、大唐に渡る」🌟『入唐求法巡礼行記』🌟1️⃣①長慶(822)5年(和暦)天長2(825)年巻三🔶靈仙は嵯峨天皇が賜わる金百兩を受く。🔶靈仙は一萬粒の舎利と新經二部を献じ、國恩に謝す。2️⃣②大和二(828)年4月7日。🔷淳和(じゅんわ)天皇は再び百金を賜るも、靈仙は巳(すで)に逝く。🔷靈境寺の浴室院に於て、人に毒殺さる。法孫の貞素(ていそ)は詩を賦(ふ)し、哭(こく)す。⏹️遣唐留学僧・行賀の事績⏹️🟨大寺の僧、明一、宗義を難問す。頗(すこぶ)る塞(ふさが)る所、有り。即ち罵(ののしり)て云く。🟨両国の粮(かて)を費し、学を植うるに傭(おろか)にして浅し。🟨何ぞ朝の寄(つとめ)に違い、実(みち)て帰らざる乎。 🟨法師は大いに愧じ、涕泣し、滂沱(ぼうだ)す。久しく他郷に在りて、粗(ほぼ)、言(ことば)と話(はなし)を忘る。🟨長途の一躓(いっち)、豈に千里の行を妨げんや。深林の枯枝(こし)、何ぞ万畝(まんぽ)の影を薄めとん。🟨何則(なんとなれば)、在唐の時、百高座の第二に居す。🟨法華経疏・弘賛(こうさん)略唯識僉議(せんぎ)等、四十余巻が有るは、是れ則ち、行賀法師之筆削也。🟨又、聖教・要文、五百余巻を持ち来りて、写し得る。🟨聖朝(しょうちょう)深く弘益を喜び、授けるに僧を統(すべ)るを以(もって)し、詔(みことのり)して門徒、卅(さんじゅう)人を付し、その業(こうせき)を伝へ令む。         『日本後紀』     【終了】