1️⃣🌃❇️【2024年5月09日 (木)】【一味会「親鸞聖人のお手紙」】午後6時30分~8時30分講師:天岸 淨圓 先生会場:大阪市立総合生涯学習センター第3研修室(5階)………………………✴️…✴️……………………🔷北御堂でのご縁は、働き方改革のため、夜が使えなくなり、一般会場での「一味会」天岸先生のご縁を頂きました。🔶会場に入りきらないほど、沢山の方が、来られ、しかも学生さんが多く、一瞬、かつての⭕⭕会ではないかと思うほど、こんなに若者が熱心に仏教を聞く方があるのか?と驚きました。🔷よくよく聞いてみると皆さん、行信教校の学生さんで、法衣を身に付けておられないので、普通の学生さんと風貌は、変わらず、髪型も今、流行りの髪型であり、かつて、私がパンチパーマをかけていた、不良っぽい学生時代を思い出しました。🔶若い方、全員が註釈版の真宗聖典を持参して、読み込んでいる姿は尊いなあ、と思いました。🔷今回は、親鸞聖人御消息集の第六通について、教えて頂きました。🔶天岸先生は、本当に博学で、難しいところもきちんと押さえてお話を下さいました。………………………✴️…✴️……………………🟨【原文】(六) 笠間の念仏者の疑い問われたる事こと。それ浄土真宗の​こころは、 往生の根機に他力あり、 自力あり。 この​こと​、既に天竺 (印度) の論家、 浄土の祖師の仰せ​られ​たること​なり。まづ自力と申す​こと​は、 行者の​各々の縁に​したがいて、 余の仏号を称念し、 余の善根を修行して、 わが身を​たのみ、 わが​計らいの​心をもつて、身口意の​乱れ心を​つくろい、 めでたう​し​なし​て浄土へ往生せん​と​思うを自力と申す​なり。また他力と申す​こと​は、 弥陀如来の御誓いの​中に、 選択摂取し​たまへる第十八の念仏往生の本願を信楽する​を他力と申す​なり。 如来の御誓いなれば、 「他力には義なき​を義と​す」 と、 聖人 (法然) の仰せ事にて​あり​き。 義ということ​は、 計らう言葉なり。 行者の計らいは自力なれば、 義というなり。 他力は、 本願を信楽して往生必定なる​故に、 更に義なし​となり。🟩【意訳】笠間の念仏者が疑問に思い、お尋ねになったことについて。浄土真宗の教えでは、往生を願うものについて、他力のものと、自力のものとがあります。このことは既にインドの菩薩方をはじめ、中国や日本の浄土の祖師方が仰せになっていることです。まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らの計らいの心で、身・口・意の三業の乱れ心をとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった、第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、法然上人は仰せになりました。「義」というのは、計らうという言葉です。行者の計らいは自力ですから、「義」というのです。他力とは、本願を疑いなく信じることで、間違いなく往生が定まるのですから、全く「義」はないというのです。………………………✴️…✴️……………………✡️講義終了後の質問について。【質問】「選択摂取し​たまへる第十八の念仏往生の本願」とある、選択摂取について教えて下さい。【回答】選択本願という言葉を法然上人は、御聖教に用いる訳ですが、無量寿経には、選択という言葉はないのです。この選択という言葉が出ているのは、大阿弥陀経に出ております。無量寿経は、漢文では五種類あります。大きく違うのは、はじめは阿弥陀様の本願は、24願でありました。そして48願になって、そしてまた36願になった。また47願になったり、49願になって、しじゅうくるしみます。【笑い】七高僧、親鸞聖人は、無量寿経という経典を拠り所として、ご法義を展開します。ところが、無量寿経の中に選択という言葉が出てこない。無量寿経には選択に対応する言葉が、摂取という言葉として書いてある。おさめとる、とある。そうしますと、取るですから、捨てる、ということが強調が出来ない。そこで、24の本願が誓われている。比較的に古い形態の無量寿経に、同じ意味で、同じ所で使われています。そうすると、無量寿経の摂取ということと、大阿弥陀経という経典の選択は、イコールである。無量寿経にも、選択という意思はありますよ、ということで四十八願を読まねばなりませんよ、という言い方です。選択・摂取と両方にかけることが出来る。これは法然上人の独創なのです。選び取るというのは、大概、そうです。沢山の中から、一つのものを選び取る。選びとったら、あとは阿弥陀さんは全部、捨ててはる。私達は選択本願で当たり前になっていますから、捨てるということは何も思っていない。これを法然上人が言われたために弾圧を受けられました。これを言わなければ、弾圧を受けなかった。自力は無意味だと言われた。救済に於いては、自力は無意味だとされた。当時の仏教は全て自力の仏教ばかりだから、怒るわな。つまらんと言われたら、怒るに決まっている。阿弥陀さんが捨てたとなると、誰が捨てるか!となる。選択という言葉を使い出してから弾圧を受けるようになった。これが摂取なら、言い訳がたつ。それまでは、殆んどは、これで通っていた。源信僧都もそうですが、法然上人は、阿弥陀様は愚かな私を助けるために念仏という易行をもって往生の業としてくださったのです。私以外に立派な方々は大勢、いらっしゃる。その方々は、その方々は、その方々なりに修行に励めば、なされれば、よろしいのではありませんか、というパターンでいく。私はそれは否定はしません。でも、私は、あなたのようには出来ませんから。私のようなものに合わせて下さった阿弥陀様のこ念仏を頂いて、この道で往生させて頂きます。何か文句はありますか?ということです。源信僧都も、私は念仏が大事だというけれども、他の行がつまらんとは、いいませんよ。善導大師も、同じことを言われています。それを捨てた!といったら、アカンわ。一つの言葉を使うにしても、選択と摂取をイコールで結んだ上で、選択という概念を摂取という言葉に対応させて、四十八願の意味付けをされる。こういう手続きをしないといけないので、選択と摂取は同じだ!と言われる。ここでは、御開山は、たまに選択摂取という言葉で選び取った!ということを非常に強調しようと、なさったと見ていいんだろうな。     【終了】