1️⃣【2024年5月08日 (水)】✴️青木山西林寺にて、午後2時~4時✴️講師:四日市市 信明寺 日置宗則先生……………………✴️✴️……………………🟩【講義の走り書きメモ〖前半〗】🔶私は大阪育ちの大阪生まれで、16年前に今の三重県に養子に寺に迎えて頂きました。🔷仏様について誤解をしている人がいます。ひと昔の前の刑事ドラマでは、仏のみもとは分かったか?と聞く。🔶最近のテレビドラマでは、仏とは言わなくなり、御遺体というようになりました。誰かが苦情を出したのでしょうか。🔷ほとけとは、日本語でしょうか?インドでは、仏をブッダとお呼びする。インドの少し北にガンダーラという場所がある。🔶そこに仏教が入ってきますと、ブッダが、濁りがなくなり、フッタになりました。🔷中国に近づいてきますと、フトになりました。浮図(ふと)当て字をあてて、今の佛は、ずっと、あとに出来たのです。🔶それか朝鮮半島に入ると、フトけ、と「け」がついた。フトケになりました。そうすると、日本では、ほとけとお呼びするようになった。🟨ブッダ、フッタ、フト、フトケ、そして、ほとけになった。🔷意味は覚者、目覚めたもの。覚りを開かれた方を覚者と言った。覚りを開くということは、目覚めるということです。🔶ハッキリと物事が見える。寝ていては見えない。🔷うちのご門徒さんに、覚の一字でさとるさんという方がいますよ。🔶仏の本来の意味は、目覚めているか、目覚めていないのか、ということが、仏かどうかの違いです。🔷私達は仏様のことは、分からない。寝ている人が起きている人のことが分からないのと同じ。🔶大事なのは、目覚めたものからは、寝ている人のことは分かる。今日は、皆さん、目を覚ましておられます。🔷目覚めていない側からは、目覚めた世界のことは分からない。仏様は私のことを分かって下さっている存在だということです。🔶最初の讃題の言葉は、一番最初の真仏土巻の御言葉を読みました。🟨「謹んで真仏土を案ずれば、仏は則ち是れ、不可思議光如来なり、土は、亦是れ、無量光明土なり」🔷仏も浄土も、どちらも光が入っている。光とは覚りの智慧をあらわす。🔶覚りの智慧は親鸞聖人は計り知ることは出来ないと教えておられます。🔷私達は仏様のことはわかりませんが、私達のことをよく分かって下さっているのが、仏様であります。🔶私は朝、起きた時に昔、思ったのは、鼾をかいているものは、うるさいのに、自分がうるさくしていることが分かっていない。🔷寝ている時には、自分が人にうるさくしていることが分かっていない。🔶我々の命を仏様は御覧になっておられる。私達が悪夢にうなされているような状況なのではないでしょうか。🔷仏様は私達に必ず目覚めよ、目覚めさせてやる、と揺さぶって下さっていると思います。本当は、悪夢にうなされているのが私達の毎日だと思います。普段は思っていないけど。🔶朝、起きた瞬間から、私達は自己中心に生きていると思います。天気に本当は良い、悪いはない。🔷雨の大変な時に、私は乗らないタクシーに乗りました。するとタクシーの運転手さんは、「我々にとっては、雨は良い天気なのですよ」と言われました。🔶良いはずですよ。乗るはずのない私がタクシーを乗っているのですから。良い天気、悪い天気というのは、私の都合で言っている。🔷自分の幸せのためになら、人に押し付けて、相手を傷つけている。まさに私達は悪夢にうなされているのが、仏様から、見た姿でしょう。🔶好き、嫌いというのは、仏教では、本当は好きな人がいる訳でない。嫌いな人がいる訳でない。私にとって都合がいいか、悪いか、だけなのです。🔷こいつの都合が変わると、がらっと変わります。🔶私は、大阪から三重県に養子に迎えられた。その時にある一軒にご法事に行きました。🔷総代さんが私を物凄く誉めてくれるのです。ええ養子が来た!顔は良いし、声は良いし、お経は上手いし、誉め殺しをされました。好意的に見てくれていました。🔶ところが法事にきていた後ろの壁際に一人が、見るからに聞く気がない。完全にソッポを向いてんねん。🔷たまにこちらを見るとギロッとこちらを睨む。あっちから見ると私は良い男でもない。早くお経をあげて帰れ!顔に滲み出ている。🔶敵のように見る。私は一人ですけど、私はどっちなのですか?それをそれぞれの都合によって、好き嫌い、良い悪いが分かれてくる。🔷それが、ゴロッとひっくり返るのです。法事が無事に終わってお茶を頂いていた。🔶そしたら、まだずっと総代さんは誉め続ける。「法話としてくれて、私はいつお浄土へいってもええ」と言われる。🔷話の流れでタバコの話になったのです。私は一日、三箱を吸うヘビースモーカーなのです。「僕、一日、三箱は吸いますよ」と言った時に、そのご主人が、顔つきが変わりまして、後で知りました。🔶そのご主人は物凄く煙草が嫌いなのです。「何!あんた!このご時世にまだ煙草を吸うのか!煙草を吸う奴なんか、信用せん!」と言われた。🔷えー、さっきまでのは何やったのか?同時に、これも後でわかった。🔶さっきまでの奥のおじさんは、親戚中でも、唯一、煙草を吸うのです。肩身の狭い思いやったのです。🔷私が煙草を吸うと言った瞬間から、こっちを向いて、「煙草を吸うの?ワシもやー!」急に味方のようになった。🔶これが我々の見ている世界です。私が描き出している自己中心的な世界ですよ。自分が見ている世界は間違いない!と思っている。🔷仏様からは、悪夢にうなされているように御覧になっていると思います。命を揺さぶって下さっているのが、南無阿弥陀仏ですよ。🔶必ず目覚めさせるぞ、と私を揺さぶって下さっている。目覚めていない私達からは、目覚めている仏様を知ることも見ることも出来ない。🔷仏様はこの命を御覧になって下さっている。昔の日本は目に見えないものを大事にしていたはずなのです。御天道様が見てくださっている。今は誰も言わない。🔶今は、誰も見てへんわ!というようです。誰も見ていない命を生きるのは寂しいと思いませんか?🔷分からへん、分からへん、といいますけど、誰かに見られている。常に一人ではないのと同時に、眼差しを感じて、生きる。🔶見られている人生には、張りというものが出てきますよ。見られていると思うと、隠れようがない。    【前半終了】