1️⃣🪐❇️【2024年5月06日(土)】西宮市の念仏寺にて、午後7時から9時まで、土井紀明先生の聖典講座の御縁を頂きました。 ………………………✴️✴️……………………🟩【講義の走り書きメモリ】🟩🔷今日は正信偈の最後の方です。還来生死輪転家、生まれ変わり、死に変わりをする。これは感性で感じることだと思います。🔶今、自分はここにいる。心というものを仏教では深く観察をする。🔷お釈迦様から、修道の歴史がございまして、瞑想をしてきたので、そういう方たちが心を見つめて、生まれて何十年で心が出来た訳ではない。🔶欲、怒りが起こってくるのは、浅いものではない。生まれ変わり、死に変わりをして、煩悩というものが続いてきたんだ、と。🔷また生き物には色んなタイプ、違いがある。なぜか?カルマ、業というのがあると考えられる。今、人間として、生きる。不思議なことです。🔶生まれたのは、どこからか、生まれてきた。急に生まれたのではない。過去が終わって現在の生、現在の生が終われば、未来へと続く。🔷観察をしていった時に、深い歴史があって、現在の心というもの、姿形になっているんだ、と。実際にいえると思います。🔶仏教では、内観によって感じていく。過去から迷ってきた、と内観する聖者たちがいたのです。それが仏教として伝わってきている。🔷生死輪転の家に還って来ると、これは中々、深いものがあると思います。そこにとどまってしまって、出れない。🔶決以疑情為所止、決するに疑情をもって所止とす。阿弥陀仏の本願を疑うことによって、とどまってしまうんだ。いつまでも生死輪廻の家から、出れない。🔷速入寂靜無為楽、速やかに寂静無為の楽に入ることは。楽はみやこ、安楽国、極楽浄土のことです。🔶寂静とは煩悩が静まった世界、涅槃界。無為とはつくられたものではない。🔷作られたものを越えた、命そのものといって良いでしょう。静かな、安らかな覚りの領域は楽である、みやこである。🔶必以信心為能入、必ず信心をもって能入とす、といえり。信心一つで入ることが出来る。🔷本願を疑うか、信ずるかによって、迷いの世界から出れるかどうか、決まるんだ、という教えになっている。🔶仏教全体からいえば、無明と言います。無明とは、真理に明らかでないことを言います。無明を除いて覚りの智慧を得る。智明とも言います。🔷仏教とは、無明から、覚りの智慧に到らせる構造なのです。迷える衆生を仏にしたい。働いて下さる慈悲の働きなんだ。これを説かれたのが仏説無量寿経なのです。🔶座禅によって覚りを開こうとする教えもある。ビバッサナー瞑想など、色んな方向がある。🔷浄土三部経では、弥陀の本願が説かれる。弥陀の本願というものを疑うか、信ずるかが問題となる。決定的となる。🔶無明はどうなるかというと、疑無明となってくる。疑いが破れると無明が破れたことになる。これによって、決まる。🔷法然上人は、選択本願念仏集に信心一つで助かると教えられた。念仏を称えたら、助かるとは言われていない。🔶ここで親鸞聖人は法然上人の言葉として教えられている。念仏を信ずる。本願を信じて念仏を申す。🔷法然上人は、ハッキリと教えておられる。ここで、きちんと親鸞聖人は疑い一つで苦しむと、法然上人は教えておられる。🔶そこで信心とは、どういうものか?目覚めということがある。単に阿弥陀様を信じるということでなしに。本当のものに出会う、摂取不捨。🔷弥陀の本願を信ずるとは、普遍的な真理、事実に出逢うということがあって、いつの時代でも、どんな人にも通用する真理があって、働いている真理に出逢うことがないと。🔶私が大学時代に学長が曽我量深という先生で、講演をなさった。🟨「恍惚の信か、自覚の信か?」という題で講演をされた。🔷恍惚の信というのは、私はもう信じきっている!特別なものを握っている信心を恍惚の信ということで表した。🔶そういうのは一部の人には通じるけれども、世界には通用しない。特殊な信心になってしまって、そういう信仰はよくあるのです。特殊な信仰をよく聞くことがあります。🔷浄土真宗の信心は智慧です。本当のものに出逢う、確かなものに出逢う。しかも、それは誰にでも貫徹しているような事実に出逢うということがなければ、その信心は普遍的なものではない。🔶それが自覚の信と曽我量深先生はおっしゃった。目覚めということがある。🔷覚りというものに通じていると思います。信心と覚りは決して別のものではない。質的には同じものです。🔶真実というものは、どういうものか?    【続き2️⃣へ】✡️【配布資料】✡️『正信偈講話』還来生死輪転家 決以疑情為所止速入寂靜無為楽 必以信心為能入(書き下し)生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。1️⃣一、『唯信鈔文意』(「真宗法要」本)🟨「弥陀の願力を信ずるがゆへに、もとめざるに一切如来の功徳善根を 仏のちかひを信ずる人に得しむるがゆゑにしからしむといふ。はじめて功徳をえんとはからはざれば自然といふなり。誓願真実の 信心をえたるひとは、摂取不捨の御ちかひにをさめとりてまもらせたまふによりて、行人のはからひにあらず、金剛の信心となるゆゑに正定聚のくらゐに住すといふ」2️⃣二、「自然法爾章」(顕智本)🟨「自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、 しからしむるという言葉なり。然というはしからしむという言葉、行者のはからいにあらず、如来の誓いにてあるがゆえに。法爾というは、この如来の御誓いなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾はこの御誓いなりけるゆえに、すべて行者のはからいのなきをもて、この法の徳のゆえに、しからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義とすと知 るべしとなり。自然というは、もとよりしからしむという言葉なり」3️⃣三、「唯信鈔文意」より🟨「この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち一切群生海の心なり」      【終了】