🟨②唯識と浄土真宗【四つの善事は悪果報を獲得する・白は六度万行、定散なり、自力小善の路なり・万行諸善の小路より本願一実の大道に、帰入しぬれば涅槃のさとりは即ち開くなり】【令和6年04月24日】
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🟥https://youtu.be/2fwlKlguDlo?si=qTRbmnLnc0EC6Gki

❇️〖レジメ2️⃣資料〗
🟩【真理に到る道〖修行の五段階〗五位の修行】

『万行諸善の小路より
 本願一実の大道に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりは即ち開くなり』
      【曇鸞大師和讃】

『白は、則ちこれ
 六度万行・定散なり
 これ則ち、自力小善の路なり』
          【愚禿抄】

🌎️🌃親鸞会はどこを間違えたのか?🌃🌎️
🔷『本願寺なぜ答えぬ』という本に、本願寺は善の勧めがない。親鸞会は善の勧めがある、とある。🔶確かに親鸞会は善の勧めがあるけど、その善は果たして仏教で教えられているところの善なのか?

🟨「心を清らかにする」
これが仏教では、とても大切なこです。仏教の究極の目的は覚りですが、覚りとは心が清らかになった境地です。

🔷有名な『七仏通戒偈(つうかいげ)』でも「自らその心を清らかにする、これが諸仏の教えだ」
🔶これこそ「仏教だ!」とお釈迦様は、断言なされています。

🟨諸悪莫作(しょあくまくさ)
➡️もろもろの悪を作すこと莫(な)く
🟨衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
➡️もろもろの善を行い
🟨自浄其意(じじょうごい)
➡️自ら其の意(こころ)を浄くす
🟨是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
➡️是が諸々の仏の教えなり

🔷善というのは、自ずから心を清らかにしていくものなのです。心を清らかにするものが善なのです。
🔶ところが親鸞会では、心が清らかになることは、問題にしていない。
🔷心が清らかとは、煩悩から離れていくこと。だから。煩悩一杯でやっても善は善だ!と親鸞会では言う。
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🌃🔶親鸞聖人は、
🟦勝他(しょうた)
🟥名聞(みょうもん)
🟨利養(りよう)
を戒めておられます。

🔶この三つの気持ちが減っていく、煩悩がなくなっていくのが、真の仏法者です。

🟦他人を蹴落としてでも、他に勝ちたい。
🟥不特定多数の人々から、認めてもらいたい。
🟨一円でも多く、お金が欲しい。

🔶煩悩とは、言い換えると、勝他・名聞・利養の心です。
🔷『口伝抄』に法然上人の御言葉として、浄土真宗では紹介されて、私達に煩悩を戒めて教えられます。
🔶真実の人は、確実に煩悩から離れていきます。

🟩【教行信証化土巻〖涅槃経〗】
「四つの善事あり、悪果を獲得する。何等をか四つとするか。

🌟一つには、勝他(しょうた)の為の故に、経典を読誦(どくじゅ)す。

🌟二つには、利養(りよう)の為の故に、禁戒を受持す。

🌟三つには、他属(たぞく)の為の故に、布施を行ず。

🌟四つには、非想非非想処の為の故に、繋念(けねん)思惟(しゆい)す。

🔷この四つの善事は、悪果報を得る。
🔶若し、かくの如きの四事を修習せば、これを「没し已りて還りて出づ、出で已りて還りて没す」と名づく。
🔷何が故ぞ「没」と名づくる、三有を楽ふ(ねがう)が故に。
🔶何が故ぞ「出」と名づくる、明を見るをもっての故に。明は、即ち戒・施・定を聞くなり。
🔷何を以ての故に、還(かえ)りて、出没するや。
🔶邪見を増長し、憍慢(きょうまん)を生ずるが故に。
🔷この故に、われ経の中において、偈を説かく、
🔶「もし衆生ありて、諸有(しょう)を楽(この)んで、有(う)の為に善悪の業を造作(ぞうさ)する。
🔷この人は、涅槃道を迷失するなり。
🔶これを『暫出還復没(ざんしゅつげんぶもつ)』と名づく。
🔷黒闇生死海を行じて、解脱を得といへども、煩悩を雑するは、この人は還(かえ)りて悪果報を受く。
🔶これを『暫出還復没』と名づく。」

【解説】
⭕「勝他の為に」➡️ 他人に勝ちたい為に。相手を見下したい為に。優越感を得るために。

⭕「利養の為に」➡️ 自分の利益の為に、自分の生活の為に、自分が得するために。

⭕「他属の為に」➡️ 他に属させるために、他に属するために、他人を自分に従わせるために。

⭕「非想非非想処の為に」➡️ 欲界・色界・無色界のうち、無色界の最高の天のことで、有頂天ともいう。そこには高度な精神だけが存在するとされる。
「意識も無意識も存在しない禅定の境地」を指す。

⭕「繋念思惟」➡️集中瞑想、サマタ瞑想をすること。

⭕「戒・施・定」➡️ 六波羅蜜の一部で、❶布施 ❷持戒 ❸忍辱 ❹精進 ❺禅定 ❻智慧のこと。

⭕「明」➡️宗教的覚醒による智慧のことで「無明」の対義語

🔶「経典の読誦」「持戒」「布施」「禅定」は、全て「善事」であり、「行」だとするならば、「善行」である。「善行」は、
🟨「良い動機」だけで為されるだけでなく、
🟨「悪い動機」であっても為すことは出来る。
🔷それが「行」というものである。

🔶仏教は「動機論」である。行いは善事であっても、心がけが間違っていたら、「悪果報」苦しみを受けなければならないと教えられる。

🔷どんなに形は善でも、煩悩のためにやっていたら、悪だと親鸞聖人は教えられる。
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🔶どんなに形は善であっても、煩悩のためにやっていたら、それは悪だから、せっかく穢土から離れて浄土へ向かっていても、仏教を聞きながら、地獄へと堕ちていく。
🔷そこが親鸞会の最大の問題点です。

🔶善の勧めといいながら、悪を勧めている。そのために大問題にないっている。そこで善なんか、やりたくない、というようになってしまった。
🔷「親鸞会でやっていることが善だ!」と一つのラインが引かれている。

🔶だから、みんな浄土真宗の人は、善が勧められているんですよ、と言われても、善をやりたい、善をやろう!とはならない。
🔷仏教で教えられている善とは、本当に素晴らしいものなのです。

🔶それを煩悩一杯の善を善だと言われている。
🔷善をするということは、心が洗われるいくもの、清らかになっていくものなのです。

🔶親鸞会で教えられる善は、凄く醜くなる、汚くなる。そういうものが善になっている。
🔷相手を負かそうとして、破邪をする。それは親鸞聖人が教行信証に「闘諍堅固なる故に白法隠滞したまへり」と教えておられる。

🔶相手の間違いを正すために仏法を使うようになった。
「こいつは、こういうところが間違っている!」と。
🔷仏法というのは、私達が幸せになるための教えです。相手の間違いを正して、正義に塗り替えていく教えではない。

🔶そうなっていくとお釈迦様は言われている。それが闘諍堅固なる故に「こいつの、こういうところが間違いだ!」と、ギャフンと言わせようとした。そうすると心が醜くなる。
🔷「自浄其意」でも、心が清らかになるように教えられる。

🔶親鸞会で教えられている善をやればやるほど、心は醜くなる。
だから、親鸞会の会員も講師部員もみんな心は醜い、という。
🔷実際、人の悪口ばかりを言っている。人の非難ばかりを言っている。それを楽しんでいる。

🔶それが仏教だと思っている。みんなで悪を一生懸命にしている。
🔷煩悩を利用して、競争心を掻き立てて、教学をやらせる。
🔶会員に入らせようとして、布施をする。誰もそれを悪だとは教えない。

🟨「四つの善事あり、悪果を獲得する」
🔷せっかく迷いから離れたのに、親鸞会に入って、また地獄へ堕ちていく。それは可愛そうだ、と。
🔶これも結局、善というもの、仏教では心を清らかにする、ここが分かっていないのが原因だと思います。

🔷心が清らかになろうと思って、善をしていない。端から、自分には善は出来ないと思っている。
🔶「発菩提心」を親鸞会では「よーし、やるぞ!」となっている。
とにかく形だけでも一生懸命に善をすることだ!と思っている。

🔷実際は「至心発願」とは、仏の心でやる。仏の心とは真実心と清浄心のこと。真の心で、清らかな心で実践する。
🔶ところが親鸞会では、煩悩は変わらないと教えられている。だから、清らかな心でやろうと思っていない。端から、善は出来ないものだ!と思っている。

🔷そうすると親鸞会では三願転入を教えながら、三願転入の教えが根本的に間違っている。教え方が間違っている。
🔶だから、誰も救われない教えになってしまった。

🔷親鸞会の講師部員は煩悩は変わらないと、高らかに言って、心は清らかになろう、と努力も何もしていない。
🔶だから、心が清らか、醜いとかという感覚もなくなっていく。

🔷親鸞聖人も法然上人も、心を清らかに【至心発願】しようとされたからこそ、醜い自分の心に気が付かれて、悩まれたのです。
🔶だから、私の心は醜いなあ、と懺悔なされた。
🔷しかし煩悩は始めから、変わらないんだ!と思っていたのでは話にならない。

🟩「掃けば散る、掃かねばなおも、より積もる、庭の紅葉も己れが心も」
🔷庭の紅葉も己れの心も、綺麗にしようとするから、汚れている心に気付くのです。
🔶綺麗にしようとしなければ、醜い自分の心には絶対に気付かない。

🔷そこには懺悔もなければ、慚愧もない。それどころか、
「いや、醜い心を利用して善をやったらいいんだ」
🔶それでは浄土真宗の前に、仏教ではなくなってしまう。
     【終了】