2️⃣【4月20日(土)】午後1時半より、私の住んでいる岡崎市福岡町での蓮如祭り・浄専寺にて法話を聴聞しました。

🔷「どうする家康」の大河ドラマにも携わったお方で、出演もされました住職の同朋大学教授である安藤弥先生より、蓮如上人のご一生の絵解きについて、聞かせて頂きました。

🔶蓮如上人は、三河の地にて三年、布教活動をなされた後に、吉崎へと向かわれたそうです。

🔷自分が住んでいる福岡町にも、蓮如上人がお越しになったとのことで、興味深い資料を頂きましたので、参考までお知らせします。

🌏️【配布資料】🌏️
🟩土呂山浄専寺🟩
✨〈土呂の蓮如さん)のお寺✨
   真宗大谷派・岡崎市福岡町

🌟〈浄専寺の歴史・伝承〉🌟

🟨1. 蓮如上人の三河への来訪

🔷戦国時代、本願寺の蓮如上人 (1415-99) が三河国にやってきます。
🔶本願寺教団をつくりあげ、親鸞聖人が開いた浄土真宗 (専修念仏)の教えを全国にひろめた蓮如上人は、後に本願寺第8代住職に数えられ、真宗の中興上人と称えられています。
🔷蓮如上人が三河に来たのは、応仁2年 (1467)のこととされ(文安 3年(1446)説もあります)、土呂と西端(現碧南市)を拠点に、三河各地をめぐり、真宗の教えを説いた、と言われています。

🟨2. 蓮如上人と土呂

✨蓮如上人影像

🔶蓮如上人が土呂にいた時、唯念という人が、蓮如上人のお世話をした、と伝えられています。
🔷蓮如上人が土呂を去る時、唯念は一緒についていこうとしますが、蓮如上人はそれを止められ、唯念には土呂にとどまって、真宗の教えを伝えるように言い聞かせます。
🔶蓮如上人が、唯念と土呂の人々人にのこしたという歌が伝わっています。

🟩「なき跡に我を忘れぬ人あらば 、唯弥陀たのむ心おこせよ」

🔷この歌と、蓮如上人・唯念連坐像が浄専寺には残されており、深いつながりを感じます。

🟥【蓮如上人の大蛇・済度】

🔶蓮如上人が土呂にいた時のこととして、次のような話が伝わっています。
🔷土呂で真宗の教えを説く蓮如上人のところに毎日通ってくる一人の女性がいました。
🔶その女性が蓮如上人に、
「実は自分は、この近くの淵に棲む大蛇です。罪業が深いために蛇身となりましたが、こんな私でも 救われるのでしょうか」と問います。
🔷蓮如上人は「ありのままの姿のあなたとお会いしましょう」と言い、淵までやってきます。
🔶淵から姿を現した大蛇に対し、蓮如上人は真宗の教えを説きます。
🔷するとあたりに紫雲たなびき、空から無数の花が散り、大蛇は救われていった、とのことです。

🌠蓮如上人三河絵伝「大蛇済度」の場面

🔷蓮如上人の大蛇済度の説話には様々な形があり、言い伝えも、また様々ですが、 蓮如上人とその教えが多くの民衆に慕われていたことを物語る興味深い伝承です。

🟥【蓮如上人の御分骨】

🔶明応8年(1499)、蓮如上人は京都山科本願寺にて往生します。
🔷その遺言により、三河門徒にもその遺骨が分け与えられたという伝承があり、今も御堂山に蓮如上人塚がのこされています。
🔶土呂の人々が、いかに蓮如上人を慕っていたかが、よくわかります。

🟨3. 浄専寺の形成

✨阿弥陀如来絵像

🔷蓮如上人が去った土呂の地では、唯念を中心として真宗念仏の教えを伝える同行集団が形成され、真宗道場が営まれていたものとみられます。

🔶その後、蓮如上人の跡を継いで本願寺住職となった実如上人によって、御坊(本願寺の別院) が建立され、その息子の実円上人が住職となります。
🔷この御坊が本宗寺となり、その周囲には「寺内」といわれる町場が形成され、大きく繁栄します。
🔶その「寺内町」の中に浄専寺 もあったと伝えられています。
🔷浄専寺に伝わる阿弥陀如来絵像は、この頃のもので、最初の本尊と考えられます。

🟨4.三河一向一揆

🔶永禄6年(1563)、三河国内の統一を目指した若き家康と、三河本願寺教団を中心とした一向一揆との間に戦いが起こります。
🔷この戦いで、一向一揆は敗北し、一向一揆の最大拠点であった土呂の地は焼け落ち、本宗寺は退転します。
🔶しかし、その中で浄専寺だけが焼け残ったと伝えられています(浄専寺蔵「焼け残りの名号」)。
🔷天正13年(1585)「一向宗」禁教の解除をうけて、復興が進む土呂の地でしたが、そこに本宗寺が帰ることは許されませんでした。
🔶これ以後、浄専寺が土呂の地において、蓮如上人の御旧跡を伝える真宗寺院として歩み始めます。

🟨5. 近世以降の浄専寺

🌠顕如上人真影
✨焼け残りの名号

🔷浄専寺には、次のような裏書を持つ、顕如上人影像が所蔵されています。
🔶東本願寺を分立した教如上人がその先代、顕如上人の絵像を慶長10年(1605)に、浄専寺に下付したことを示すものです。
🔷この裏書が「浄専寺」という寺号がはっきり確認できる、現在のところ、もっとも古い史料です。
🔶慶長年間に顕如上人影像が下付されるということは、それ以前に本尊や親鸞聖人影像なども下付されていなければなりませんので、浄専寺が、戦国時代から存在していたと見てよいことになります。

🔷その後、家康の重臣で、四天王の一人に数えられる本多忠勝が伊勢の桑名に転封となった時、浄専寺を菩提寺の一つとして、分割移転させましたが、土呂の浄専寺も、三河三か寺の一つ、勝鬘寺より縁者が入って、存続します。
🔶その縁者が訳あって、浄専寺を退出した後、土呂の人々が話し合って、正保年中、浄専寺を再興させることになります(『土呂旧記』)。

🔷江戸時代の後期、文政年間に記された『蓮如上人御隠棲実記』に浄専寺の項があり、その中に
🟩「例年三月御忌七日間ノ間。群参市ヲナセリ」 とあって、
「土呂の蓮如さん」が、その頃以前から行なわれていたことがわかり、にぎわいを見せていたことがわかります。

🔶明治維新の廃仏毀釈以降、また苦難の道のりを歩む浄専寺でしたが、今もなお「土呂の蓮如さん」の歴史を伝える寺院として、真宗の念仏道場として、その歩みを続けています。

(2006/4/24作成、2012/4/22改訂)
     【終了】