1️⃣【2024年4月17日 (水)17時~19時まで】
🌟「恵信尼様からのお手紙」 ~『恵信尼文書』に聞く~
🌏️講師:星野親行先生 【行信教校講師・西法寺住職】
🌃本願寺名古屋別院
❇️今回も新たな気付きが沢山あり、良かったです。
❇️親鸞聖人の奥様は、法然上人から、直に一緒に聴聞をしていたみたいで、恵信尼様は京都の教養を身につけた方ですね。
❇️また御手紙の敬語の使い方から、教えて頂き、明解に理解が出来ました。
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🌉⭐講義の走り書きメモ⭐🌉
      【前半】
🔶直接の言葉に触れて頂くことが大事だと思いますので、読んでみたいと思います。
🟨恵信尼消息【原文】
去年の十二月一日の御文、同二十日あまりに、確かに見候いぬ。
何よりも殿(親鸞)の御往生、中々はじめて申すに及ばず候ふ。
山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世を祈らせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現に預からせたまいて候いければ、やがてそのあか月、出でさせたまひて、後世の助からんずる縁にあひまいらせんと、尋ねまいらせて、法然上人にあひまいらせて、また六角堂に百日籠らせたまいて候いけるように、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも参りてありしに、ただ後世のことは、善き人にも悪しきにも、同じように生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候いしを、受けたまわり定めて候いしかば、「上人の渡らせたまわんところには、人はいかにも申せ、たとい悪道に渡らせたまうべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそ、ありけめとまで思いまいらする身なれば」と、やうやうに人の申し候いし時も仰せ候いしなり。」

🟩恵信尼消息【一般の意訳】
去年の十二月一日付のお手紙、 同二十日過ぎに確かに読みました。 何よりも聖人が浄土に往生なさったことについては、改めて申しあげることもありません。
聖人は比叡山を下りて、六角堂に百日間こもり、 後世の救いを求めて祈っておられたところ、 九十五日目の明け方に、 夢の中に聖徳太子が現れて、お言葉をお示しくださいました。 それで、 すぐに六角堂を出て、後世に救われる教えを求め、 法然上人にお会いになりました。 そこで、 六角堂にこもったように、 また百日間、 雨の降る日も晴れた日も、 どんなに風の強い日も、お通いになったのです。
そして、 ただ後世の救いについては、 善人にも悪人にも同じように、 迷いの世界を離れることのできる道を、 ただひとすじに仰せになっていた上人のお言葉をお聞きして、 しっかりと受けとめられました。 ですから、 「法然上人のいらっしゃるところには、 人が何と言おうと、 たとえ地獄へ堕ちるに違いないと言おうとも、 わたしはこれまで何度も生れ変り、死に変りして迷い続けてきた身であるから、 どこへでもついて行きます」 と、 人が色々といった時も仰せになっていました。
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🔷旧暦なので、十二月一日というのは、今の暦でいいますと、一月十六日あたりになります。
🔶同じき二十日あまりというのは、今の二月六日になります。

🔷ここには色んなことが書いてありますが、ここで、今まで分からなかった親鸞聖人の若い時、法然上人にお出逢いになるまでの事実が奥様の証言によって、ハッキリする。
🔶そういう意味でも、ここは大変重要な資料ということになりますし、また内容も親鸞聖人という方が、どういう形で阿弥陀様のご法義というものを味わっておられたか、というものを今に伝えて下さっている、とても大切な御聖教といってもいい。

🟨「何よりも殿(親鸞)の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候ふ」
🔷この二行は、多くの今に伝わっている解説書の八割、九割方は、「親鸞聖人がご往生して下さったことは決して間違いがありません」と理解されています。

🔶それは、聖典p.813の、
「されば御臨終はいかにもわたらせたまえ、疑い思いまいらせぬ上」とあるからです。
🔷御臨終は、どうであっても、この言葉に引きずられて、類推されて、覚信尼さまのお手紙の中に、「親鸞聖人には特段の奇瑞というものがありませんでした」と書かれていたものと推測される。

🔶それに答える形で、
「親鸞様の往生は決して間違いないのですよ」と解釈下さる方が、殆んどでありました。
🔷数少ない読み方として、山本摂叡先生は、
🟩「とても言葉では言い表せません。ああ、親鸞様は往生なられたんですね。もうお目にかかれることは出来ないのですね。言葉には出来ません、という感嘆の御言葉、表現ではないか」とおっしゃる。

🔷そのあとに「山を出でて」と続く、ご解釈がより親しいのではないかと、私は致します。
「いやー、親鸞様は往生なされましたか。とても言葉では言い表せませんね。言い尽くせないですよね。あなたのお父様は山を出でて」と始まっていかれる。

🔶恵信尼文書というのは、親鸞様の御生涯、親鸞様からお聞きになったことを改めて反芻する中で、親鸞聖人のことを末娘の覚信尼にお伝えをしている書物であります。
🔷母と娘の間に通う、いろんな思いの中で、
「親鸞様、あなたのお父様って、こういうお父さんなのよ!」
というふうに、改めてご紹介下さる書物でなかったのか。

🔶覚信尼様は、親鸞聖人が52歳の頃にお生まれになっている。
60歳を過ぎて、京都に恵信尼と一緒にお帰りになっておられる。
🔷84歳の時に親鸞聖人がおられたお家が焼ける。その時は恵信尼様はいない。既に越後に帰られていた。

🔶80過ぎまで、京都で恵信尼はおられたと類推されます。
推測ができるのは、越後におられたお子様たちが、なぜおられたのか、その土地を子供さんに分けているから。
🔷その土地の管理、そして娘さんが、お隠れになっている。その子供たちが残って、その世話もしなければならなくなった。
🔶そして、本人も越後に一度は帰ったけれども、病気になられて、京都に戻ってくることが出来なくなった。

🔷親鸞聖人と恵信尼様とは、9つ、歳が違います。親鸞聖人が90歳で往生された時は、恵信尼様は81歳で、もう京都に戻ることはない。
🔶親鸞聖人が往生されたことをお聞きになって、溢れ出るような思いをしたためてくださったのが、この恵信尼文書の第一通ということになります。

🟨「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ」で始まる。
🔷山といえば、比叡山を指す。比叡山を山という表現をするというのは、京都の人達の特徴、常識であったようです。

🔶そんなことも含めて、親鸞聖人も恵信尼様もおっしゃっていないのですけれども、推測の域を出ませんが、いつご結婚されたのか?
🔷恵信尼様は、どうも京都の教養を深く持っておられる。日記をつけておられる。越後の田舎の人が日記をつける、という文化が普通にあったとは考えられない。

🔶日記をつけておられて、日付の訂正をしておられるのが、このお手紙の中に出て来ますから、相当の教養、素地を持ったお方であることが推測出来る。
🔷山を出でて、六角堂に籠らせたまいて、ここは、すっと読み飛ばす言葉なのですが、山を出ることと、六角堂に籠るという言葉、それで法然様のところへ行かれた。

🔶この三つが、どういう繋がりを持っているか?
🔷六角堂に籠られた時に親鸞聖人は、山というものをどのように捉えておられたのか?

🔶結論的に申しますと、山を出でて、という言葉に大きな意味があるんだ。山を出てしまって、六角堂に籠られた。
🔷山を出ようか、どうしようかと悩まれて、そして山を捨てて、比叡山から、訣別する決意の後に、六角堂に籠られた。

🔶それが山を出でて、という言葉遣いです。それが今日、お配りした資料のプリントです。
🔷六角堂に籠る、とは比叡山と訣別されている。比叡山の修行に行き詰まって六角堂に行かれて、比叡山を捨てようか、どうしょうかなあ、という中途半端な気持ちではなくて、比叡山と訣別して、六角堂に籠られたのです。

🔶これが山を出でて、六角堂に入られた、と読むべきでしょう。
山本摂叡先生は、文法的にそう読むべきだ!とおっしゃる。
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🌃【配布資料】🌃
🌠〖山本摂叡先生の論文より〗🌠
■「山を出でて・・・」の意味
🔶まず言葉の用法から考えましょう。「山を出でて」の「て」という接続助詞は、辞書に次のように説明されています。
🟨前の事態に後の事態が順に続くことを示す。・・・て。そして。
   (『旺文社全訳古語辞典』)

🔷ここの文に、この解釈を当てはめると、まず「山を出る」という行為が、第一の事態です。
🔶それに続く第二の事態が「六角堂参籠」に当たります。短い言葉ですが、恵信尼さまは正確に、聖人の行動を描写してくださったのです。

🔷端的にいうと「山を出る」という決意は、示現によるものではなく、聖人自らのものであったのです。
🟩山を出る、六角堂に参籠される、法然聖人のもとに行かれる。
🔶これらのすがたを、恵信尼さまは具体的に、精緻な描写で描いておられます。

🔷それは恵信尼さまが、間近にその姿をご覧になっていたから、できることだったのです。
🔶私が『恵信尼消息』について初めて書かせていただいた論文があります。
(「恵信尼文書 再読」『行信学報』通巻第十号〉)

🔷この論文の中で私は、文法的な考察をよりどころとして、恵信尼さまが京都におられたということを論証してみたのです。
🔶「過去」のことを表す言葉には「き」と「けり」という、二つの助動詞があります。

🔷言葉というのは極めて合理的なものですから、全く同じ意味を表すものが、漫然と二つ並ぶことはありません。
🔶まず、端的に「き」と「けり」という二つの助動詞の違いを述べてみます。

🟩②「き」は、自分自身が体験した過去を表す場合に使います。
🟩②「けり」は、伝聞などによって知った過去を表す場合に使われます。

🔷このことから「けり」は「気づき」「発見」「詠嘆」などのニュアンスをも表すようになりました。
🔶恵信尼さまの時代には、この二つの語の使い分けは、極めて厳格なものでした。

🔷第三通(一)には、親鸞聖人が比叡山を出て、六角堂に参籠し、法然聖人のもとへ行かれる様子が描写されています。
🔶今、『註釈版』の本文を用いて、この部分に「き」と「けり」 が、どのように使い分けられているか見てみましょう。

🔷わかりやすいように「き」には〈〉 を、「けり」には【】を付してみます。

【「き」(直接経験の過去)と「けり」(過去伝聞)の活用】

🌎️【き】🌎️
✴️基本形 き
✴️未然形  (せ)
✴️連用形 ○
✴️終止形  き
✴️連体形 し
✴️已然形 しか
✴️命令形 ○

🌎️【けり】🌎️

✴️基本形 けり
✴️未然形  (けら)
✴️連用形 ○
✴️終止形 けり
✴️連体形 ける
✴️已然形 けれ
✴️命令形 ○

      【-4-】

山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひ【ける】に、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひ【けれ】ば、やがて、そのあか月、出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんと、たづねまゐらせて、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてあり〈し〉に、ただ後世のことは、よき人にも、あしきにも、おなじやうに、生死出づべき道をば、ただ一すじに仰せられ候ひ〈し〉を、うけたまはりさだめて候ひ〈しか〉ば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひ【けれ】ばこそありけめ、とまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひ〈し〉ときも仰せ候ひ〈し〉なり。

🔷ここでは「き」は五回、「けり」は四回、使われています。
🔶その上で、伝聞の「けり」が使われている箇所に注目してください。

🔷六角堂参籠に関する記述には必ず「けり」が使われています。
それ以外の箇所は、例外なく「き」です。
🔶六角堂参籠というのは、親鸞聖人が一 人でなさったことです。
恵信尼さまが、ご覧になっていたのではありません。

🔷間違いなく、参籠の様子は、後になって、親鸞聖人の口からお聞きになったのでしょう。
🔶ここでは聖人の言葉によって、参籠の様子を聞かれたのですから、伝聞の「けり」が使われているのです。

🔷ただし「世々生々にも迷ひ【けれ】ばこそ、ありけめ」の部分は例外です。
🔶ここの「けり」 は解釈上、極めて重要な問題がありますので、後で考えることにします。
🔷六角堂参籠以外の記事は「き」が使用されていて、これは恵信尼さまが、直接、体験された過去の経験だったのです。

🔶傍線部の直前まで、恵信尼さまは、親鸞聖人の行為に対して、例外なく敬語を使っておられます。
🔷しかし傍線部の「また百か日・・」からは一転して、親鸞聖人に対する敬語はなくなり ます。

🔶そして傍線部の後「人はいかにも申せ」から、また敬語が使われます。
🔷ここからは 「人々の」法然聖人や親鸞聖人に対する批判と、それに対する答えですから、それを第三者としての恵信尼さまが、敬語を使って描写されているのです。

🔶先の描写の中、法然聖人のもとへ通われる記事にだけ、親鸞聖人に対する敬意が省かれていることになります。
🔷これまで恵信尼さまは、自分の経験した過去については、
🟨助動詞の「き」を使い、
また親鸞聖人に対しても、
🟨例外なく尊敬語を使用されていることを見てきました。

🔶ところが先の文で、傍線を引いた箇所、具体的には、法然聖人のもとへ通われる記事の部分のみ、描写法が異なっているのです。
🔷自分の経験である過去を「き」で表現されていることは同じですが、親鸞聖人に対する尊敬語がありません。
      【-5-】