🟨③唯識と浄土真宗【大経和讃】至心発願欲生と十方衆生を方便し、衆善の仮門開きてぞ、現其人前と願じける・臨終現前の願により、釈迦は諸善を悉く、観経一部にあらわして、定散諸機を勧めけり【令和6年03月27日】
🟦YouTube で見る
🟥https://youtu.be/tNUWCJAi8jM?si=MHC2gPKTFxcNKkoF
3️⃣🌟🌍️唯識と浄土真宗〖レジメ資料〗
🔶和讃とは、和語をもって讃嘆する詩、という意味で、親鸞聖人の和讃は500首をこえる。
🔷特にその中で『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』をまとめて『三帖和讃』と称している。
🔶『浄土和讃』は経典などによって、阿弥陀如来とその浄土の徳を讃嘆したもので「大経讃」22首の中の19願のお心の説法。
🟩(61)【第十九願】
至心・発願・欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける
🟧【意訳】
阿弥陀仏は、第十九願に 「様々な功徳を積み、 まことの心でわたしの国に生れたいと願うものを救う」 と誓われて、 全ての世界の、あらゆるものを真実に導き入れようと、 様々な善い行いを実践させて往生させよう、という要門を開いて 「命を終えようとする時、 その人の前に現れて迎え取るぞ」 と願われた。
🟨【解説】
🔷至心とは、阿弥陀仏の大慈悲。
🔶阿弥陀仏の十八願では、阿弥陀仏に救われるには、
🟩阿弥陀仏の至心に触れて、
🟩阿弥陀仏の至心を心から敬い、
🟩阿弥陀仏の至心になりたい、と求めてゆくものを「必ず浄土へと生まれさせてみせる」と誓われている。
🔷だから、自惚れ強い私たちは、自分も、阿弥陀仏の至心になれると思って、阿弥陀仏の至心になろうと発願する。
🔶そこで阿弥陀仏は、至心とは、
🟩至誠心【正直な心】
🟩深心【因果の道理を深く信じる心】
🟩回向発願心【相手は自分だと思い、温かい気持ちを自分に冷たくしてくる相手にも、与えてゆくこと】を実践することによって、なれる!と教えられる。
🔷そして、因果の道理を信じて、この至誠心・深心・回向発願心を目指して、善を実践してゆき、
至心になったならば、阿弥陀仏が沢山の菩薩を引き連れて、迎えに行ってあげようと誓われる。
🔶しかし「どんなに頑張っても至心にはなれない」と知らされ、
こんな自分では、阿弥陀仏の浄土へと往生することは出来ないと思っている人もいるだろうから、
それでも、諦めずに自分の出来る善をしなさい。
🔷そうしたならば、あなたの出来る善に合わせて、阿弥陀仏が菩薩を引き連れて、臨終に迎えに行ってあげようと誓われている。
🔶だから、至心になることだけが素晴らしいのではなく、
「善をしてゆくことが素晴らしいのだ!」と勧められ、私たちの心を励まされているのです。
🟩(62)【第十九願】
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらわして
定散諸機をすすめけり
🟧【意訳】
「命を終えようとする時、 その人の前に現れて迎え取る」 という第十九願によって、 釈尊は様々な善い行いの功徳を、全て一部始終を観無量寿経に説き示され、 様々な行を修めるものを導かれました。
🟨【解説】
🔷たとえ至心になれなかったとしても、死ぬまで善に励んだならば、その善に応じて、阿弥陀仏は臨終に、目の前に現れて下さる。
🔶それによって、お釈迦様は仏教で教えられた全ての善を『観無量寿経』一巻の中に、一部始終を表して、定善と散善の二つの善をしなさい!と勧められました。
🔷ここで定善と散善とは何か?
🔶定善とは、自分の心を静めて、心を見つめ、自分がどんなことを念じているかを知り、自分の醜い心を受け入れ、清らかな心に変えてゆく善です。
🔷自分の心を静めなければ、自分の心を知ることは出来ないから、心を静めてやる善が定善で、これに対して、
🔶散善とは、煩悩が強く、心を静めることが出来ない人は、煩悩を静める為に、心を散り乱れてでもいいから、善をやりなさい、と勧めるのが散善である。
🔷私たちは善をする時に、どんな心でやるか、問題にはしていない。
🔶しかし、観無量寿経の教えで、それは心を静め、自分の心から、どんな思いが起きているのか知るためである、と教えられます。
🔷だから、仏教で教えられる全ての善は観無量寿経に収まるから、
🟩全ての善は、すべて心を静め、
🟩自分の心を知るためにやるものであり、
🟩その心から起きる醜い心を、先ず否定せずに認めて、
🟩清らかな心に変えてゆくことが大事なことなのです。
【終了】
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🟥https://youtu.be/tNUWCJAi8jM?si=MHC2gPKTFxcNKkoF
3️⃣🌟🌍️唯識と浄土真宗〖レジメ資料〗
🔶和讃とは、和語をもって讃嘆する詩、という意味で、親鸞聖人の和讃は500首をこえる。
🔷特にその中で『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』をまとめて『三帖和讃』と称している。
🔶『浄土和讃』は経典などによって、阿弥陀如来とその浄土の徳を讃嘆したもので「大経讃」22首の中の19願のお心の説法。
🟩(61)【第十九願】
至心・発願・欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける
🟧【意訳】
阿弥陀仏は、第十九願に 「様々な功徳を積み、 まことの心でわたしの国に生れたいと願うものを救う」 と誓われて、 全ての世界の、あらゆるものを真実に導き入れようと、 様々な善い行いを実践させて往生させよう、という要門を開いて 「命を終えようとする時、 その人の前に現れて迎え取るぞ」 と願われた。
🟨【解説】
🔷至心とは、阿弥陀仏の大慈悲。
🔶阿弥陀仏の十八願では、阿弥陀仏に救われるには、
🟩阿弥陀仏の至心に触れて、
🟩阿弥陀仏の至心を心から敬い、
🟩阿弥陀仏の至心になりたい、と求めてゆくものを「必ず浄土へと生まれさせてみせる」と誓われている。
🔷だから、自惚れ強い私たちは、自分も、阿弥陀仏の至心になれると思って、阿弥陀仏の至心になろうと発願する。
🔶そこで阿弥陀仏は、至心とは、
🟩至誠心【正直な心】
🟩深心【因果の道理を深く信じる心】
🟩回向発願心【相手は自分だと思い、温かい気持ちを自分に冷たくしてくる相手にも、与えてゆくこと】を実践することによって、なれる!と教えられる。
🔷そして、因果の道理を信じて、この至誠心・深心・回向発願心を目指して、善を実践してゆき、
至心になったならば、阿弥陀仏が沢山の菩薩を引き連れて、迎えに行ってあげようと誓われる。
🔶しかし「どんなに頑張っても至心にはなれない」と知らされ、
こんな自分では、阿弥陀仏の浄土へと往生することは出来ないと思っている人もいるだろうから、
それでも、諦めずに自分の出来る善をしなさい。
🔷そうしたならば、あなたの出来る善に合わせて、阿弥陀仏が菩薩を引き連れて、臨終に迎えに行ってあげようと誓われている。
🔶だから、至心になることだけが素晴らしいのではなく、
「善をしてゆくことが素晴らしいのだ!」と勧められ、私たちの心を励まされているのです。
🟩(62)【第十九願】
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらわして
定散諸機をすすめけり
🟧【意訳】
「命を終えようとする時、 その人の前に現れて迎え取る」 という第十九願によって、 釈尊は様々な善い行いの功徳を、全て一部始終を観無量寿経に説き示され、 様々な行を修めるものを導かれました。
🟨【解説】
🔷たとえ至心になれなかったとしても、死ぬまで善に励んだならば、その善に応じて、阿弥陀仏は臨終に、目の前に現れて下さる。
🔶それによって、お釈迦様は仏教で教えられた全ての善を『観無量寿経』一巻の中に、一部始終を表して、定善と散善の二つの善をしなさい!と勧められました。
🔷ここで定善と散善とは何か?
🔶定善とは、自分の心を静めて、心を見つめ、自分がどんなことを念じているかを知り、自分の醜い心を受け入れ、清らかな心に変えてゆく善です。
🔷自分の心を静めなければ、自分の心を知ることは出来ないから、心を静めてやる善が定善で、これに対して、
🔶散善とは、煩悩が強く、心を静めることが出来ない人は、煩悩を静める為に、心を散り乱れてでもいいから、善をやりなさい、と勧めるのが散善である。
🔷私たちは善をする時に、どんな心でやるか、問題にはしていない。
🔶しかし、観無量寿経の教えで、それは心を静め、自分の心から、どんな思いが起きているのか知るためである、と教えられます。
🔷だから、仏教で教えられる全ての善は観無量寿経に収まるから、
🟩全ての善は、すべて心を静め、
🟩自分の心を知るためにやるものであり、
🟩その心から起きる醜い心を、先ず否定せずに認めて、
🟩清らかな心に変えてゆくことが大事なことなのです。
【終了】