1️⃣🌟【2024年4月5日 (金)】18時00分より19時30分まで
✡️ウイングス京都にて✡️
🌎️「親鸞の『正像末和讃』を読む」(講師:一楽真先生)

 🌠【講義の走り書き】🌠
🔷親鸞聖人は和讃を三つ作っておられます。浄土和讃、高僧和讃、そして、正像末和讃です。
🔶この二つは、76歳の時に書かれております。親鸞聖人はこの歳までに著書は書いておられないと言い切って良いと思います。

🔷教行信証を作成させる。これは親鸞聖人の一番大きな自分自身の課題、責任だと言って、良いと思います。
🔶法然上人の教えにお会いして、如何に大事なものであるかを何とかして残さないといけない。
🔷75歳までは教行信証にかかりきりなのです。75歳の時に、一応、尊蓮という方に写させた記録があります。

🔶尊蓮という人は何人か、同じ名前の人がいるのですが、親鸞聖人の京都時代の生活を支えた、親鸞聖人から言えば、従兄弟にあたる。叔父さんの息子さんですが、日野家、ご親戚であったと思います。
🔷親鸞聖人のお子さんの覚信尼が広綱と結婚して一緒になります。又従兄弟で結婚します。尊蓮という法名を持っていますので、同行、お仲間として生きられた。

🔶その方に教行信証を写させた。写させたということは、一応、完成したということです。ここで区切りがついたということです。
🔷教行信証は最晩年の85歳の時にも筆を入れておられます。

🔶大谷派には直筆の教行信証の坂東本が残っておりますので、それをきちんとする活字化をする仕事をしました。
🔷真宗聖典の2版が出ましたが、これを7回も校正をしました。
三木先生は、最後まで丁寧に仕事をしてくれました。それでも間違いは起こる。

🔶言いたいのは、それだけ読んでいる三木さんを見て、しつこいなあ、と思いました。校正を7回もせんでいいやないかと。
🔷でも親鸞聖人はこんな人ではなかったか?と間近で見た気持ちになりました。

🔶また、どう書いたら、正しく教えを未来に伝えられるか?
最後、85歳まで筆を入れておられるのです。勿論、その当時は眼鏡はなかった。電気もない。
🔷実際、御手紙の中には、目も見えず候、と書いておられる。85歳になって、細い筆で書いておられる親鸞聖人を思うと、執念を感じる。
🔶絶対にこの教えを残すために書かないといけない!という熱い思いを感じる。
み教えにあった責任、使命を親鸞聖人には、脈々とあったということであります。

🔷75歳までは、教行信証にかかりきりになっておられたのですが、それが終わると、なさったのが、和讃の制作です。
🔶和讃というのは、歌です。親鸞聖人の少し前の時代から、今様の形で、後白河法王の梁塵秘抄は大変有名です。

🔷これは、はやりうたですから、当時の人は口ずさんでいた。その形式にのせて作られた。四句で七五調ですね。全部を入れて、350首、それだけ、作られた。
🔶なぜかというと、当時は文字が読める人ばかりでなかった。しかし、文字が読めない人でも聞けば、覚えられますから。

🔷昔、覚えた歌詞は、忘れられないもので、凄いものです。ふとした表紙に思い出すこともありますね。歌を思い出すと、その時のことも思い出す。
🔶歌というのは、それぐらいの力があります。今様にのせて、仏教のことを歌いこんだ。

🔷明らかに文字が読めない人にも、ただ念仏の教えの大事さ、阿弥陀様の世界を頂いていって欲しい!という思いが、76歳で二つの和讃を作っていった意義だと思っています。
🔶これは意見が違う人もあります。教行信証の前だ、ということを言われる方もあります。

🔷一番大きいところでは、浄土門類聚抄があります。これは教行信証の抜粋版のように見えます。
あれが柱になって、教行信証を書いた、という説の人もあります。
🔶私は違うと思っております。
これを論証するには大分、手間がかかります。

🔷まだその仕事が出来ていないのですけれども、私は教行信証が先で、私達にどんな利益があるか、どのような形で成就するのか、こちらを抜き出したのが、浄土文類聚抄、抄とありますから、抜き出した。
🔶浄土の文類、教行信証を抜き出した、抜いたのだから、教行信証が先だと思っております。しかし、論証は難しい。

🔷本派の深川先生が、物凄い分厚い本を出されました。安居でなさった講義ですが、あれは浄土文類聚が先だとあります。
🔶親鸞聖人の著作ということを考えると、直筆本が残っていないことが論争をややこしくさせている元なのですが、私は75歳で教行信証を一区切りをつけた、ここに全勢力を注ぎ込まれた。

🔷この後に和讃を作られた。今からみると、古い感じがするかも知れませんが、当時のはやりうたの形式でありますから、人々が口ずさんで、阿弥陀さん、浄土のこと、お念仏のことが出来る形にしておられた。
🔶私は石川県のお寺に生まれて、父親に子供の頃から仕込まれました。小学校に行く前に正信偈を見なくても読めるようになった。

🔷親父の真似をして、口ずさんでおりました。意味が分かるのは、大谷大学に入ってからで、全然意味は分からなかったけど、こんな意味だったのか?と後で知らされることがありますから。
🔶昔、私は嫌だったことだけども、意味がわからなくても、南無阿弥陀仏と称えよと言われていた。反発をしてました。

🔷意味がわからなくて、称えても意味がない、価値がない。でも私に南無阿弥陀仏とは、どういう意味なのか?こんなことを称えて何になるのか?という問いを貰ったのは、称えよと言われたからです。
🔶後から、阿弥陀如来とはどんな仏様なのか、問いから、引き起こされた。

🔷学生時代、嫌だったけど、今の学生には、勤行をしてくれ!といつも言っておるのですけど。
🔶この歳になっても、40年たっても、和讃の一言でも、今でも、どきっとすることがある。

🔷こんなことを言っておられたのか?こっちも日々、歳を取って変わっておりますから、同じ気持ちではないし、問題にぶつかった時や、苦しんでいる時には、同じ和讃が違って響いてきます。
🔶これは言葉の持っている力だと感じます。

🔷親鸞聖人は、76歳から、一気に和讃を作っておられる。
では、正像末和讃は何歳なのか?これは断定は出来ない。

🔶最終的には85歳に最後、まとめられております。二つの和讃を作った後だから、77歳と言ってもいいと思うのですが、今の形の正像末和讃になっていくのは、85歳です。
🔷だから、一応、完成は85歳。
これは何故か?前年に善鸞を義絶しておられるからです。
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