🪐【2024年3月29日 (金)】
🌎️真宗講座<歎異抄>
🌎️同朋大学知文会館❇️午前10時~正午
講題:歎異抄後序
講師:安藤 弥 教授

🔷同じ岡崎市町内のすぐ近くの浄専寺の副住職さんの講話でした。🔶安藤先生は、昨年は大河ドラマに僧侶役として出演され、今度は5/11のBSのドキュメンタリーに出られるそうです。
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❇️【講義の走り書きメモ】
🔷おそらく唯円が20代頃に聞いたことを、70代に書かれたものではないか。
🔶歴史を学ぶものにとっては、歴史学では「お前さんは、何者だ」といわれたことが、何十年前でも今でも心に残っている。

🔷50年前に親鸞聖人から、聞いたことを唯円に甦ってきた言葉を書き記している。
🔶歎異抄は、蓮如上人が禁書にされたといわれますが、しかし実際には、見ることが出来た。

🔷唯円が70代に、おそらく第三世代の頃に、信心が異なっていることを嘆く。
🔶異なることについての端的なエピソードが、ここの内容です。

🔷「源空が信心も、如来より賜りたる信心なり。善信房の信心も如来より賜らせたまいたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておわしまさん人は、源空が参らんずる浄土へは、よも参らせたまい候わじ」
🔶ここが一番のポイントです。

🔷同じ内容が御伝抄にある。
古来、これは、信心一異の諍論と伝えられる。
🔶大事なところは、御同朋達。
今なら、考え方に合わない人を排除する傾向があるけど、排除しないのが仏教。

🔷親鸞聖人は、お仲間たちと議論をされた。同じ信心とはいわれたが、法然上人と智慧や才覚が同じだと言った訳でない。
🔶ここで、彼ら、お弟子たちは終わらない。法然上人にその真意を確かめようとした。

🔷如来より賜りたる信心だから、皆、一緒であると。歎異抄を私が頂戴するならば、喧嘩をする友達ではなく、共に浄土へ歩んでいく私達が、法然上人に確かめ合っていこうとしていることが大事なのではないか。
🔶③の大事なところは、
「おおよそ聖教には、真実権仮ともに相交わり候なり。権を捨てて実を取り、仮をさしおきて、真を用いるこそ、聖人の御本意にて候え」

🔷権仮は、間違いではない。真実に導く時には必要な、大切なのが権仮である。
🔶ダイバは、救われ難い人だけど、親鸞聖人は権化の人と味わっておられる。

🔷教団を書き乱す存在こそが、救われていく。
🔶歎異抄には、一つ他にも証文となる、連なる聖教があったようである。

🔷5月に、自分はまたテレビに出るけど、仏法を知らない人に、悪人正機を知らせることは、大変なことで、中々分かってもらえない。
🔶ここに来ているような教えを学ぼうとする人になら、悪人正機は、何とか分かるけど。

🔷世間一般の人には、中々、分からせることは難しい。自分が悪人だとは中々、思えない。
🔶親鸞聖人も善導大師も、ご自身を「悪人は私だ」と言われている。

🔷議論をするけれども、目的は相手を打ち負かすためにやる、それで仰せになきことを言ってしまう私達がいる。嘆き存じ候。相手の言うことを言わせないようにする。
🔶人間社会では、これはありがちなこと。人間は、負けたくない、勝ちたい。これは亡き親鸞聖人の言われたことです。

🔷幸いにも、私達は、念仏にあわせて頂いている。
🔶信心が異なると、辺地にとどまることになりかねないので、信心を確かめ合って、勢観房、念仏房も、共に浄土に往生させて頂きたいなあ。
🔷そんなことをいえる私でもないけど。
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✡️【配布資料】✡️
〖同朋大学知文会館真宗講座〗
「歎異抄後序」
【2024・3・29 安藤弥(わたる)】

✨『歎異抄』について✨
⭕親鸞聖人(1173~1262)の言行録。著者は、弟子唯円(生没年不詳)という説が、有力(第九章が根拠)。
➡️ 第二章の内容から、親鸞聖人と著者は直接的に対面(なお、1288 河和田の唯円が上洛。覚如上人が師事)。

⭕原本は不明(現存、最古の写本は蓮如写本)。前序に全十八章(師訓篇・異義篇)、最後に後序が付される構成。

➡️ 浄土真宗の教えを端的に示す書として、一般的にもっとも著名。
その受容の歴史にも、複雑かつ重要な課題。

❇️『歎異抄』後序
①右、条々は皆、もって信心の異なるより起こり候か。

② 故聖人の御物語に、法然聖人の御時、御弟子、その数、多かりける中に、同じく御信心の人も、少なくおわしけるにこそ、親鸞、御同朋の御中にして、御相論のこと候いけり。
その故は「善信が信心も、聖人の御信心も一つなり」と仰せの候いければ、勢観房、念仏房なんど申す御同朋達、もっての他に争いたまいて、
「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と候いければ、
「聖人の御智慧・才覚、広くおわしますに、一つならんと申さばこそ、ひがごとならめ。
往生の信心においては、全く異なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、なお
「いかでか、その義あらん」という疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御前にて、自他の是非を定むべきにて、この子細を申しあげければ、法然聖人の仰せには、
「源空が信心も、如来より賜りたる信心なり。善信房の信心も如来より、賜らせたまいたる信心なり。
されば、ただ一つなり。別の信心にておわしまさん人は、源空が参らんずる浄土へは、よも参らせたまい候わじ」と仰せ候いしかば、当時の一向専修の人々の中にも、親鸞の御信心に、一つならぬ御ことも候らんと覚え候。

③ いずれも、いずれも、繰り事にて候えども、書きつけ候なり。
露命わずかに、枯草の身にかかりて候ほどにこそ、相伴わしめたまう人々の御不審をも受けたまわり、聖人の仰せの候いし趣きをも申し聞かせまいらせ候えども、閉眼の後は、さこそ、しどけなき事どもにて候わんずらめと、嘆き存じ候いて、かくの如くの義ども、仰せられあい候、人々にも言い迷わされなんど、せらるることの候わん時は、故聖人の御心にあい叶いて御用い候、御聖教どもを、よくよく御覧、候べし。
おおよそ聖教には、真実・権仮ともに相交わり候なり。権を捨てて実を取り、仮をさしおきて、真を用いるこそ、聖人の御本意にて候え。構えて構えて、聖教を見乱らせたまうまじく候。
大切の証文ども、少々抜き出でまいらせ候て、目やすにして、この書に添えまいらせて候なり。

④ 聖人の常の仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく 案ずれば、偏に親鸞一人が為なりけり。されば、そくばくの業を持ちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願の忝なさよ」と御述懐、候いしことを、今また案ずるに、善導の、
「自身は、これ現に罪悪生死の凡夫、曠劫より、このかた、常に沈み、常に流転して、出離の縁あることなき身と知れ」という金言に、少しも違わせおわしまさず。
されば、忝なく、わが御身に引きかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず、如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを、思い知らせんが為にて候けり。
まことに如来の御恩ということをば沙汰なくして、われも人も、善し悪しということをのみ申しあえり。

⑤ 聖人の仰せには「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。その故は、如来の御こころに善しと思し召すほどに知り徹したらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知り徹したらばこそ、悪し様を知りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、皆もって、空事たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ、まことにておわします」とこそ、仰せは候いしか。

⑥まことに、われも人も空事をのみ申しあい候中に、一つ痛ましきことの候なり。
その故は、念仏申すについて、信心の趣きをも、互いに問答し、人にも言い聞かする時、人の口を塞ぎ、 相論を闘い勝たんが為に、全く仰せにてなきことをも、仰せとのみ申すこと、あさましく嘆き存じ候なり。この旨をよくよく思いとき、心得らるべきことに候なり。
これ更に私の言葉にあらず、といえども、経釈ゆくじも知らず、法文の浅深を心得分けたることも候ねば、定めておかしきことにてこそ候めども、古親鸞の仰せごと候いし趣き、百分が一、片端ばかりをも、思い出でまいらせて、書きつけ候なり。
悲しきかなや、幸いに念仏しながら、直に報土に生まれずして、辺地に宿をとらんこと。
一室の行者の中に、信心異なること、なからんために、泣く泣く筆を染めて、これを記す。
名づけて『歎異抄』というべし。外見あるべからず。

🌟安藤 弥【プロフィール】
1975年生まれ。名古屋大学文学部史学科卒業、大谷大学大学院博士課程文学研究科仏教文化専攻満期退学。現在、同朋大学文学部教授、同朋大学仏教文化研究所所長。博士(文学)
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