🟨③四分三類唯識半学【鏡の譬え】自証分は銅鏡・見分は光・相分は影〖親しく照らす親所縁縁【影像相分】疎く照らす疎所縁縁【本質相分】〗利根川進、僕は唯心論者・養老孟は唯脳論【令和6年03月12日】
🟦YouTube で見る
🟥https://youtu.be/9VtpIizRAro?si=GQmN6RXXogJwVkaO

❇️🪐❇️〖レジメ3️⃣資料〗
🌏️『知の体系―迷いを超える唯識のメカニズム』竹村牧男【著】
【影像門の唯識〖p.63〗】
🔷「私たちは、このように考える時、外にある物を直接、じかに認識しているのではなく、脳の産物を脳が認識しているのみだ、ということにならざるをえません。
🔶普段、私たちは外界の物を心が認識する、と漠然と考えていて、それに何ら疑いを持ちません。
🔷しかし、ちょっと反省する時、上述のように考えざるをえません。
🔶決して外の物をじかに認識しているのではなく、脳のつくり出す映像の世界の中にいるのみなのです。
 
🔷このような考え方は、今日、決してめずらしいものではありません。
🔶たとえば、分子生物学者の利根川進氏は、立花隆氏との対談『精神と物質』(文芸春秋社)の中で、次のようにいっています。
 
🟨「いや、あのね、もう一つ極端なことをいうと、ぼくは唯心論者なんです。」
 
🔷唯物論の間違いじゃないんですか。 
🟩「いや、唯物論だけど、唯心論なの。つまりね、我々がこの世界をこういうものと認識していますね。これがコップで、これがヒトだと。こういう認識は何かというと、結局、ぼくらのブレイン (脳)の認識原理がそうなっているから、そういう認識が成立しているということですよね。
もし、我々の認識原理と全く異なる認識原理を持つブレインがあったとしたら、それがこの世界をどう認識するか全くわからないですよね。
だから、この世がここに、かくあるのは、我々のブレインがそれをそういうものとして認識しているからだということになる。
同じ人間という、スピーシズに属する個体同士で、同じ認識メカニズムのブレインを持ち、それによって同じコンセプトを持ち合っているから、世界はこういうものだと同意しあっているだけということでしょう。つまり、人間のブレインがあるから、世界がここにある。そういう意味で唯心論者なんです。」
 
🔶最近、読書界で活躍されている解剖学者の養老孟司氏も、唯脳論ということを盛んに説かれていますが、根本の考え方は同じでしょう。
 
🔷このように、私たちの認識は脳の働きの中にあるということは、むしろ科学的な知見が発達するほどに、自覚されてきていることです。
……………………✴️…✴️……………………
🌍️【質問】
私達の心を仏教では鏡に譬えるとは、どういうことですか?
 
🌎️【回答】
たとえば、鏡でもって事物の形を映す時に、必ず鏡の中に、その物の形が映りますが、その影像は鏡の外にあるように見えますが、実際はそうではありません。
 
🔷ただ鏡の本体が清らかであることによって、物に向かえば、必ず照らし出すから、その照らし出す働きによって、鏡の中に現出されたものです。

🔶その鏡の光が、親しく照らすところ【親所縁縁】が鏡に映った影像であり、疎く照らしたところ【疎所縁縁】は、鏡に対して、ある事物の本体の形です。
🔷具体的には、見る対象として、親しく照らす対象を「親所縁(しんしょえん)」と言われ、
鏡の中の影像、すなわち「相分(そうぶん)」に相当します。【影像相分】
 
🔶鏡の光は、事物の裏面を直接に照らすことは出来ず、すなわち疎く照らすに過ぎません。
🔷これは、具体的には、疎く照らすので「疎所縁(そしょえん)」と言われ、別名「本質(ほんぜつ)」と呼ばれます。【本質相分】
 
🔶本質とは、阿頼耶識から直接に変化して出来たものであり、同時に阿頼耶識の対象、すなわち相分となっているものです。
🔷したがって、本質とは、事物の真の本当のすがた、ということが出来ます。
 
🔶しかし、通常の心は決して、その本質を直に知ることは出来ず、その中間に、相分という媒介物を作り出して、それを認識しているに過ぎません。
🔷鏡の働きは、清く輝く銅の働きであり、鏡の本体は、その清く輝く銅、そのものであります。
 
🔶ですから、映った影像と、これを照らす光とは鏡の作用ですから、それらは鏡を離れて、何らかの事物として、存在するものではありません。
🔷心が物を知る様子も、またこれと同じようなものなのです。
 
🔶心の中に浮かんだ知られる物である対象を、唯識学では、これを「相分(そうぶん)」と名付けます。
🔷その相分は、鏡の影像によって、たとえられます。その相分の本体の形を「本質」と名付けます。

🔶この本質は阿頼耶識の相分(そうぶん)であります。心の上に起こった相分を知る作用を「見分(けんぶん)」と名付けます。
🔷見分は鏡の光に譬えられます。
相分を心の中に浮かべ、また知る作用である見分を起こす本体を、自証分(じしょうぶん)と名付けます。
 
🔶自証分は、鏡の本体であるところの清らかな銅に譬えられます。
🔷 古来から「四分三類、唯識半学」(しぶんさんるい・ゆいしきはんがく)と言われてきましたように、四分説は、唯識学の中でも、最も重要で、かつ難解な思想です。
 
🔶この難解な思想を、鏡の働きを例に挙げて、分かり易く説明したものが「鏡の譬え」です。
🔷ただ譬えは、常に「一分譬喩」と言われますように、事実と全面的に一致するものではないことを知らなければなりません。
 
🔶まず鏡面から、光を発して、事物を照らし、その影像を鏡の中に映し出すことが出来るのは、鏡の本体、すなわち銅が磨かれているからであります。
🔷そのように、私達の心自体も、清らかであるからこそ、物事を知る働きを起こすことが出来ます。
 
🔶親鸞聖人も、ご和讃に、
「心性もとより清けれど」と教えておられます。
🔷私達の心も、今は塵が付いて、鏡が曇っておりますが、その塵を払い、鏡を清くすればするほど、心の光は強まり、物事の本質を、より深く明瞭に知ることが出来るようになるのです。

🔶相分とは「似有非有(じうひう)」と言われるように、
「有るに似ているけれども、真実から言えば、有るのではない」
🔷そういう相を帯びたものであります。本質には似ているが、しかし、決して本質、そのものではない相なのです。

🔶鏡の表面を磨けば、磨くほど、その光の力は強まり、疎く照らされたところが、ますます顕わになって来るのです。
🔷それと同じように、私達は心の本体である自証分を、自分の姿を見せてくれる相手と向き合うことによって、

🔶つまり、六波羅蜜【親鸞聖人は六度万行といわれる】の実践によって、ますます鏡を磨き、鏡についている塵を払いのけていくのです。
 
🔷この塵に当たるものが、執着であり、煩悩に譬えられます。
だからこそ、煩悩を問題にして、煩悩の塵を払い落としていき、
「見分」である光の力を強めていって、物事の本質を見極める洞察力を高めていくのです。
 
🔶そして「見分」という心の光が「似有(じう)の相分」を突き破って「実有(じつう)の本質」の領域にまで達していくのが、唯識仏教なのです。
……………………✴️…✴️……………………
✡️🌠【質問】
「親所縁(しんしょえん)縁」と「疎所縁(そしょえん)縁」について、教えてください。

✡️🌠【回答】
所縁縁【alambana-pratyaya】
(しょえんねん)とは、心の対象を唯識教学では言われます。

心・心所(しんじょ)が生じるには、識は対象(所縁)がなければ、成立はしません。

対象となって、心・心所が生じる縁となるのが「所縁縁」であります。

この所縁縁は、二種に区分されます。

一つは、親所縁(しんしょえん)縁で、認識が成立する時には、主観となって働く、見分の直接の対象(所縁)となる相分のことです。

識は自らの識の内部に、外部の環境世界(器世間)と相似したイメージ(影像)を作り出して、そのイメージを直接的に識の対象としているのです。

二つには、疎所縁(そしょえん)縁である。

識の内部で、相分が認識対象となるには、その内的世界のイメージのもとになる事物が外界にあることになります。

もちろん、外界も阿頼耶識が生み出した器世間ですが、そのような外界を拠り所にして、識の内部にイメー ジが生み出されるのです。

そのように、イメージ(影像)の拠り所で、外界(阿頼耶識の対象)にあるものを本質(ほんぜつ)といいます。

心を鏡に譬えると、鏡に映ったイメージが、影像であり、
鏡に映された外界の物が、本質である。
【唯識思想では、この本質も鏡も実在するのではなく、阿頼耶識と他の識の転変によって生じている】

この本質(ほんぜつ)は、対象となる縁でありますが、識本体から離れているので、疎所縁縁といいます。 
     【終了】