1️⃣🌟✡️🌟【3月19日(火)】名古屋東別院会館〖愚深会〗での輪読会〖午後1時半より、午後4時半まで〗
🟥『日常から精神へ』【絶版】(仲野良俊氏)【著書】を通して、鶴田義光先生より教えて頂きました。
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🟩【p.156】
【信心と疑い】
常識的に考えると、信心ということは、人間以上のわからぬもの、(例えば神や霊力)を人間が一生懸命になって信ずる、何か(信仰の対象)に対して、人間が思いを固める。そういうものが信心だと考えられているが、果たして、そういうものかどうか、これは大きな問題である。

親鸞のいわれる念仏の信心、あるいは、如来から賜わった信心(仏教語でいうと他力廻向の信心)は今、言ったような信心でないことは確かである。
念仏以外の信心というのは、結局は人間の心である。対象は何であろうと、人間以上のもの、それが神である場合もあろうし、仏である場合もあろう。
対象は種々であり、雑多(俗に鰯の頭も信心といわれるほど数多い)であるが、対象はどれほど違っていても結局、信ずる心は人間の心である。

こういう心で仏を信じても、信ぜられる対象は、仏であっても信ずる心が、人間の心であるから、人間の心をある対象に向かって固めるだけである。そういう信心が念仏以外の信心である。

念仏の信心は、むしろ逆である。
南無阿弥陀仏の働き (廻向)によって人間の心が砕かれる、その砕かれた心、私の思いというものが微塵に砕かれた、無我の心、南無の心を信というのである。
人間は心を固めることによって、却って苦しむのである。だから心を固めて苦しむ人間の道は、固まった心が砕かれる道以外にはない。

仏教の論には、信とは何かということをよく問題にしているが、信とは、澄浄の性(性は本質)とか、心浄の性であるとか、いう定義が与えられている。

澄浄というのは、透明ということ、浄というのは、一点の夾雜(きょうざつ・まじりけ)性のないことである。このように透明な心、一点の私のない心、それを仏教では信というのであって、何かに対して人間の心を固めるのを決して信とはいわない。

むしろ固めた、そういう心は、仏教から言えば、かえって疑いというものになる。
信じなければならぬ、心がふらふらしてはならぬ、といって固めようとするのは、信じられないからではなかろうか。

よく新興宗教などで信仰の御利益が、いっこうに見えてこないのは何故かといって教師に聞く人がある。
そうすると答えは決まって「それは信心が足らないからだ、疑っているから駄目なのだ」ということになる。

うまく言ったもので、人間が一生懸命に信じようとしているのは、疑っているからなのである。
結局、人間からの信は成り立たない。人間の心は疑いである。
信といっても疑いの変形である。
信じなければならぬ、というのは疑っていることを告白している。
疑いということ、一般について仏教の論では、こういう風に定義している。

疑いというのは色々の真理に対して、はっきりとそうだと心が決まらない。決まらないことが疑いの本質であるという。
ああだろうか、こうだろうか、しようか、しまいか、どちらとも決まらぬ。そこに決断が生まれてこない。決断がないのは自分の都合を思う心が深いからである。

そこに自分の思いの固執がある。
その固執によって、自分自身が蔽(おお)われてしまうので、疑いに蓋(ふた)という字を加えて、疑蓋(ぎがい)ともいわれている。
親鸞は信心のことを「疑蓋雑わる こと無し」といわれるが、疑いということが人間の本質であるとすると、人間に信は無いというべきではなかろうか。
それで、如来廻向の信心とか、如来より賜わった信心といわれるのである。
     【終了】