2️⃣【3月12日(金)】西宮市の念仏寺にて午後3時より5時半まで、土井紀明先生〖念仏座談会〗での御縁を頂きました。
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🌟🌎️【配布資料】🌎️🌟
〖対話編・浄土真宗【8】〗

B「前回は、アミダ仏と人 (物)の関係を寿命無量・光明無量のアミダ仏の基本的な本質から、お聞きしました。今、一度、大事な点を述べてください。」

A「アミダ仏は寿命無量であり、人は有限な一つの物に過ぎませんが、人はアミダ仏のいのちと一つなのです。しかもアミダ仏は救い主であって、人は救われ手です」

B「アミダ仏に救われるということは、どういうことですか」

 A「私たちは、アミダ仏によって生かされ、アミダ仏に支えられ、アミダ仏に離れない、アミダ仏と一つであるにも関わらず、その一番大事なことに無知(無明)であって、私は私だけで存在しており、自分が、あたかも世の中と人生の主人公であるかのように思っているのです。それゆえ、その根本的な無知から、様々な歪みや苦しみや悪が起こってくるのです。
そういう、あるべからざる状態に陥っている人を、アミダ仏が私たちのいのちの親であり、主体であり、アミダ仏が私たちの支えであ ることに気がつかせてくださることを〈アミダ仏に救われる〉というのです」

B「要するに、アミダ仏から離れてしまって全く不安定な状態、苦しい状態に陥っている私に、アミダ仏が私たちに、アミダ仏と離れない身であることを知らせ、アミダ仏に摂め取られている幸せを与えてくださるのですね」

▲「そういうことですね。誰しもアミダ仏のおんいのちを離れて、存在している人は一人もありません。その人が善人であろうと、悪人であろうと、賢い人であろうと愚かな人であろうと、男であろうと女であろうと、どの国のどんな民族の人であろうと、人であるということは、アミダ仏において存在しているのですから、みんな平等なアミダのいのちを生きているのです。ただ、それほど密接で離し難い恵まれた関係に置かれていることに気がついているか、いないかに違いがあるのです。気がつくことを覚るとか、信心とかいうのです。」

B「そうすると、まず私がここに居て、そして、その外に私でないアミダ仏がましまして、そのアミダ仏が私たちを救いに来て下さるということではないのですね」

A「ええ、とかく私たちは、アミダ仏を離れて存在しているような(私)をまず立てていますが、そういう私は全く存在根拠のない、空虚な X ですね。いわば、それは単なる自我です。」

B「そういう私が、アミダ仏を信じたら、アミダ仏が私に結びついて下さるということではなく、初めから、アミダ仏と私は結びつけられているにもかかわらず、その事に無知で、いつまでも小さな自分にしがみついて、その自分を他の人よりも、高みにあげようとし、持ち物を豊かにしよう、負けまいと頑張って、焦り、イライラしているのでしょうね。」

A「ええ、アミダ仏を見失っていると根本的に不安定ですから、何とか安定したいと思い、財産や能力や、人間関係や権力や地位などに必要以上に寄りかかり、執着し、それによって自分を満足させよう、安定させようとあせっているのですね。しかし、そこには本当の安定も安らぎもありませんから、いつまでも、ビクビクして、孤独で、基本的にいのちが空虚になってしまうのですね。それが我ら凡夫の姿なのですね」

B「逆に云うと、私たちは心の底では、どこまでも安定したいし、充実したいと願っているのですが、そうは、中々なれないまま、人生が終わっていっているのが実情ですね。」

「そうなんです。ここからが、また大事なことなのですが、本当の安定や充実を心の奥底では願っていながら、どうにもならないでいる私たちを、かわいそうである、アミダ仏にあわせて、安定させてやろう、救おうと働いてくださるアミダ仏の大悲の働きがあるのですよと教え、知らせて下さったのが仏陀釈尊なのです。」

B「仏陀は、どこにそれを示してくださっているのですか」
A「仏説無量寿経という、仏陀が説かれていた経典にです」

B「では、その仏説無量寿経には、どのようにアミダ仏の働きとアミダ仏に救われねばならない人間が説かれているのですか」

▲「それを、これからお話しますが、今、言いましたように、まずアミダ仏と人の根本的な関係真理があり、それが私たちの支えであり、私たちの基盤であり、恵みであり、幸せの元になっています。
その真理を親鸞聖人は、摂取不捨の真理と仰せられています。
その有り難い真理を私たち迷いの深い凡夫に知らせようと、仏陀釈尊は物語的に、その恵みを仏説無量寿経として説かれました。
それが法蔵菩薩の願行と、その成就のお話です」

B「なぜ物語的に説かれるのですか」
A「物語でなく、論理的な道理だけだと、その真理は人の心になかなか、沁み通っていきません。
アミダ仏の働きは大悲の働きですから、論理だけでは、人の心に入りにくいのです」

B「たとえば、どういう話ですか」

A「ごく卑近で世間的な話でいいますと、小さな子供に悪いことをしてはいけない、善いことをしなさいと教える時に、そういう観念を聞かすよりも、花咲かじいさんの話をすると、子供にもよく分かります。
また人生は享楽的なことばかりを求めて生きると虚しい人生になりますよ、と教える時に、浦島太郎の話をして聞かせるように。」

B「浦島太郎の話は、そういう話なのですか」

A「ええ、そういわれていますす。」

B「どんな意味ですか」
A「私の記憶も、だいぶ薄れていますが、むしろ貴方の方が知っているように、むかしむかし、ある若い男が海岸で、亀が子供にいじめられているのを見て、助けてやるのですね。そしたら後日、美しい天人のような女性が恩返しに現れて、助けてくれた男を大きな亀に乗せ、竜宮城へ連れて行ってく れる。
そこは非常に快適なところで、豪華な宮殿(竜宮城)の中で、歌や踊り、それに美味しい食事、きれいな姉ちゃんが、お酒で接待してくれて、居心地がいいので、そこで何年も過ごすのですね。
やがて、その男、故郷が恋しくなって自分の家に帰る時に、その美しい女性が別れを惜しんで、玉手箱を土産にもって帰らせるのですね。その男、元の浜辺に一人で帰ってきて、もらった玉手箱を開けると、中から白い煙が出て、あっという間に、その男が、よぼよぼの老人になった、という話だったと、うる憶えに覚えています」

B「この話が何か大事なことを教えているのですか」

A「ええ、人生は、ただ享楽なものばかりを求めていると、歳を取るのも忘れて、楽しいようだけれども、そういう娯楽、快楽、享楽、道楽ばかりを追いかけての人生は、あっという間に過ぎ去って、虚しく人 生を送ってしまい、老いぼれた老人になってしまった自分の姿を見て、空虚な悲哀感のみが残るという物語ですね。 
一体、私の人生は何をしてきたのか、という空しさが残る。

せっかく人に生まれたのだから、そういう快適さばかりを求めるのではなく、空しくならない、本当に充実し、真実にふれた人生を生きよと暗示している物語なのだと先輩からお聞きしました。そういう意味で、浦島太郎の物語は、身に沁みるものがあります。」

B「人はそういう日本の昔話とか、イソップ物語とか、アンデルセンの童話とか、そういう説話によって、道徳観念や人生観が育てられてきたのですね」

▲「ええそうですね。ただ、神話や説話は、そういう個人的な意味だけではありません。各国に伝わる神話が人間の歴史をも動かしてきた要因の一つなのですね。

神話は大きな影響を歴史の上に与えてきました。ギリシャ神話、インドの神話、ユダヤ民族の神話、 日本の古事記など、世界には沢山の神話や物語があります。
ただ悪くすると、そういう神話が権力者に利用されて、国民をあらぬ方向へと陥らせる危険もあるのです。
今も世界を動かす一つの要因になっていますので、これは大事に慎重に扱わないといけないのです ね。神話は適切に扱わないと逆に人間をあらぬ方向へ熱狂させる要素ともなり得ます」

B「それは、どのような場合ですか」

A「たとえば、戦前の日本の教育で語られてきたように、天皇は現人神として崇拝の対象になり、それを否定的に見る論説は弾圧され、現人神なる天皇のために命をささげて戦う、という大義名分にもなり、理不尽な戦争を遂行する要因にもなりました。
天皇を神の子孫というのは、記紀神話〈古事記・日本書紀)が基になっているからです。
神話を神話と冷静に見ず、実際の歴史的な事実のように宣伝されると、それに振り回され、しばしば危険です。」

B「そうですね、逆に、説話や物語には、大変尊いものもあるのですね」

▲「ええあります。神話学者で世界的に著名なジョセフ・ キャンベル博士は、優れた神話は真理に準じる真理だといい、たとえばインドの仏教で説かれた大乗の菩薩の物語などをあげています。

これは、レベルの高い尊い神話 (説話)だといっています。こうしたジャータカ物語のような菩薩の物語の中で、非常に質の高い、尊い説話があり、それは人間を救い続けるような物語でもあるのです。『華厳経』の善財童子の物語とか、法蔵菩薩の物語などです」

B「なぜ法蔵菩薩の物語は質が高く、尊いのですか」

A「それは永遠の真理が、そこに投影されているからで、この物語は真理を悟った覚者が語りうるような説話ですから、仏説とされ、仏説無量寿経の中でも語られているのです。
この中の法蔵菩薩の物語は、真理そのものを極めて、よく表現された説話といわれています。」

B「私は昔、法蔵菩薩の話を聞いた時、法蔵菩薩は歴史上に現れた実在の菩薩だと思っていました。
昔々、ある王様がインドにいて、世自在王仏の説法を聞いて出家して、法蔵比丘となり、一切衆生を 助けたいと願って、長い修行をして、 アミダ仏と成られて、今も働き続けていると、そう単純に聞いていました。」

A「もし法蔵菩薩が歴史上のお方であるとすると、確かに尊い出来事であっても、これを実際の歴史的な事実として信じることは困難ですし、もしそれを強要するなら、人に逆に不信感をいだかせます」

B「なぜですか」

A「一例ですが、法蔵菩薩は一切衆生を、どうしたら救うことが出来るかを〈五劫思惟) したといわれますが、
五劫という時間は、考えられないほどの時間ですし、
為された修行も、永劫の修行といわれます。 

大体、一劫の長さは、よく譬えられるのは、40里四方の大きな岩石があって、そこに100年に一度、天から天女が降りてきて、薄い衣で、その岩石をなでる。
そうすると極めて僅かですが、すり減ります。それが全部すり減るのに要する時間が一劫などと譬えられますが、考えられないほどの時間です。

そういう長い間、思惟したという法蔵菩薩が単なる歴史上の人としての菩薩とは考えられません。
ですから、この話を歴史的な出来事と受け取ることは、まず無理です」

B「法蔵菩薩の発願・思惟・ 四十八願・永劫の修行と、その成就が法蔵菩薩の物語の内容とお聞きしてますが、それをどう受け取ればいいのですか」

A「それは、私たちに働きかけてくださっているアミダ仏の慈悲が如何に深く広く、大いなる働きであり、お心であるかと云うことを、迷える凡夫に知らせるための物語が、法蔵菩薩の願行の説話だといえましょう。
この物語を聞くことによって、アミダ仏は私たちを深く憐れみ、私たちを本当の幸せにしてやりたいという、アミダ仏の大慈大悲の深甚なることを感じさせられます。

物語だからこそ、そこに溢れているアミダ仏の大慈悲のまことに胸をうたれるのであり、やがて私たちの信心として発起する縁になるのです。」

B「その法蔵菩薩の願行の結果が南無阿弥陀仏と説かれているのですね」

A「ええ、それですから、この法蔵菩薩の物語から感じられる、アミダ仏の広大な憐れみは、今ここに南無阿弥陀仏のお念仏の、一声一声に働いていることを教えられ、お念仏の有り難さが知らされるのです。

法蔵菩薩の物語の内容は他ではありません、今、称え出て下さる一声の南無阿弥陀仏の広大な憐れみ、そのものなのです」

B「そうですか。それほどの大悲のかけられている私たちであり、それが今のお念仏の姿なのですね。ナンマンダブツ・ナンマンダブツ」(了)
     【終了】