❇️🌎️❇️【3月14日(木)・光明寺仏教講座〖30〗】〖三浦真証先生〗
……………………✴️…✴️……………………
🔷今回は法然聖人を讃えん(後編)「還来生死~斯高僧説」の内容でした。
🔶正信偈は40年以上、読み親しんできた私ですが、親鸞聖人の使われた言葉遣い、正信偈に込められた深いみ心が、まだまだ沢山あることを今回の講義で新たに知らされました。

🔷今回、大きな気づきは、以下の善導大師『往生礼讃』の機の深信のお言葉です。
🟨「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、」
🟩機の深信は「善根薄少」も問題にされることから、その主眼は、【罪悪感】ではなく、迷いを抜け出す力を持っていない自己、自力無功に重点がある。

🔷毎回、新たな発見があり、いつも楽しく学ばせて頂いております。
🔶来月は、浄土和讃【弥陀成仏のこのかたは】二首の解説になります。
……………………✴️…✴️……………………
【配布資料】
❇️【光明寺仏教講座〖30〗】
✡️法然聖人を讃えん(後編)「還来生死~斯高僧説」

1️⃣句の構成について

親鸞聖人は法然聖人を讃える最後に当たって、自身の教えの根拠ともなる『選択集』の重要な箇所に基づいて、法然聖人の教えを讃えられました。それは往生は「信」と「疑」との違いによるという信心正因の教えでした。

法然聖人は『選択集』「三心章」において「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」(『註釈版〈七祖〉』1248 頁)と言われました。
親鸞聖人はこれを承けて「正信偈」の文を作成されていますが、そこにはいくつかの違いが見られ ます。それは特に「信」と「疑」 によって導かれる「果」についての表現が異なっています。

2️⃣迷いと悟りについて(還来生死輪転家/速入寂静無為楽)

親鸞聖人は法然聖人の『選択集』 に基づいて「正信偈」の文を記されましたが、迷いの果(生死の家) には「還来」「輪転」の語を加えられ、悟りの果 (涅槃の城) には「速入」を加え、「寂静無為の楽」と表現されました。
そこには、どのような意味が味わえるでしょうか。

まず、迷いの果についてですが、「生死の家」とは迷いを繰り返していながらも、そこに安住してしまっていることをいいます。
親鸞聖人は私たちがそのようなあ り方を繰り返している悲しさを 「輪転」の語で表現し、私たちの営みによっては、その悲しさから離れることができないことを「還来 (帰ってくる)」の語で示されたのではないでしょうか。
つまり、ここには、私たちの迷いの果は、私たち自身の営みによって引き起こされているという凡夫の悲しさが表されていると言えます。

また、悟りの果について「涅槃の城」を「寂静無為の楽」と言い換えられました。
「涅槃」と「寂靜無為」は意味として変わるわけではありませんが、親鸞聖人は悟り (涅槃)とは煩悩の波に翻弄されない完全な静けさ (寂静)であり、決して変わることのない安らぎ (無為)であることを表現されたと言えます。
そして、その悟りの世界に入れしめられることを「速入」と表現されました。
それは曇鸞大師が、本願による救いであるからこそ「速」と表現されると明かしたことを承けているでしょう。
つまり「速入」の語によって、悟りの果に入らしめられるのは、ひとえに本願のはたらきによることを示されたと見るべきでしょう。

3️⃣信と疑について(決以疑情為所止/必以信心為能入)

親鸞聖人は、法然聖人が往生は「信」と「疑」によって決まると言われた箇所を大切にされました。
そして、その信心とは、法然聖人が「二種の信心を建立して、九品の往生を決定する」(『選択集』『註釈版〈七祖〉』 1248頁)と言われたように、善導大師が示された二種深信を内容とするものでした。
親鸞聖人は、それこそが浄土真宗の信であると示していかれたのです。

親鸞聖人が浄土真宗の信心を二種深信で押さえられたことには重要な意味があります。
それは私たちの信や疑が、事実かどうか分からないことに対して、自分の価値観で推し量ることと捉えるのに対して、浄土真宗の信心は、自分の力では悟りの岸に至ることのできない今、ここにいる我が身の事実 (機の深信) が言い当てられ、その私がすでに救いの目当てとされていた (法の深信) というところに成立するからです。
それは、私が仏教の教えをどう判断するかという「私から如来へ」という方向ではなく、如来が私を見定めていたという「如来から私へ」という方向の転換を意味するものです。
だから、親鸞聖人は 「聞く」 ということを大切にしたのです。
私の心 (判断・ 態度) を聞いていくのではなく、どこまでも如来の願いを聞いていく、それが浄土真宗の信と言えるのです。

4️⃣「正信偈」 の終わりに (弘経大士宗師等~唯可信斯高僧說)

親鸞聖人は「正信偈」の終わりに当たって、七高僧の意義とその教えを信じるべきことを勧められました。

まず、七高僧の意義とは「経」を弘めたことです。ここで「経」 といわれるのは、阿弥陀仏の救いのことですが「経」について、
曇鸞大師は「〈経〉とは常なり」 (『註釈版〈七 祖〉』49 頁)といい、
善導大師は「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」(『註釈版〈七祖〉』387頁)
「〈経〉といふは経なり」(『註釈版〈七祖〉』 304頁)と言って、大切な意味をそこに見出されました。
このように、七高僧によって明かされた阿弥陀仏の救い(経)とは、常に私を照らし護るものであると同時に、鏡のように私の本当のすがたを言い当て、その本当の私が歩むべき道を示してくれる経糸(たていと)となってくれるものなのです。
七高僧とは、阿弥陀仏の救いを自身の人生を照らすものとして味わっていったと共に、その教えを示して人々を救おうとしたところに大きな意義があるのです。

そして親鸞聖人は、その意を承けて、高僧方のお示しのままに救われていこうと人々に勧めて「正信偈」を閉じられるのでした。
     【終了】