2️⃣🌟【2024年03月03日 (日)】
14時00分より
板宿信行寺【神戸護法会】
午後2時~4時
講題:蓮如上人御一代記聞書
講師:西光寺住職 天岸淨圓氏
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🌍️御一代記聞書
🟨【原文】
(247)
✴️一、南殿山、山水の御縁の床の上にて、蓮如上人、仰せられ候。
物は思いたるより、大きに違うというは、極楽へ参りてのことなるべし。ここにて有り難や、尊やと思うは、物の数にてもなきなり。
彼の土へ生じての歓喜は、言の葉もあるべからず、と仰せられしと。

🌉✴️1️⃣の続き
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🔶法然様は流しものにあわれ、お弟子方は死刑にあわれた。仏教の世界からも、内外からも締め付けられました。これが弾圧です。
🔷善導様はそこまでいかなくても、仏教世界全部で、総スカンだったのです。

🔶だから、善導様は、中国では人気がなかった。喜ぶ人はもちろんありました。
🔷しかし、アカデミックな、専門家の世界では、あんなんアカン、なぜかというと、誰もが考えなかった考え方で経典を読もうとされた。

🔶そして幸せなことに、中国では廃れたのですが、善導様がお書きになったものが、遣唐使によって、日本に奈良時代に伝わる。
🔷書物は全部、奈良に伝わり、京都には、なかった。それを法然上人は奈良で見つけられたのです。

🔶そして法然様が、善導大師を見出だすのです。書物を通して、ご自分の考えていることを同じ発想で仏教をたずねておられる先輩がおられた。
🔷善導大師を外れたら、たとえ先輩であっても、お弟子であっても、ずれてしまっている。この人の精神をきっちりと受け継いでいるのは自分しかおらん。

🔶だから、法然上人は善導大師を一師、独り、一方だけが私のお師匠様です。
🔷だから、同じように極めてきつい、バッシングがあったのです。
当時、ああいうお考えになり、晩年の法然上人は、いつ首を落とされるかも知れない状況にまで、なっていた。

🔶私は学生さんに話をします。
浄土真宗というのは、世界で二人しか、考え付くことのなかったお考えなんやで。親鸞聖人はその精神を継承されているのです。
🔷浄土真宗という法義は、よほど心して学び、うかうかして聴聞をしていると、とんでもないことになると、若い人達に話しています。

🔶こういう影響を受けていたのが、遊蓮房円照でありました。
有名な子供さんです。お父さんが藤原信西の息子さんです。
藤原通憲、お坊さんになってから、信西となる。後白河上皇の近臣中の近臣です。
🔷この人が専修念仏の道を実践していた。この人は生涯、実践していました。大麻曼荼羅だけを一幅、持っていた。他は一切、なかった。そして、念仏一筋に生涯、終えていった人であります。

🔶善導大師の書物を共有した人です。奈良で読んだ御聖教に感化されて、念仏一行をわが道として、そして、その姿で法然様と縁を結んで、二人は同行という縁を結ぶ。
🔷同行というのは、お坊さんは本来、出家ですから、独身なので病気になったら、命が危ない時は助けないといけない。

🔶門徒というのは、グループということです。生き死にに関わることがあると、人のお世話にならないといけない。家族同様の生活をしてくれるお坊さん同士のことを同行という。
🔷遊蓮房の方が、若いのですが、
結核でなくなる。法然上人が臨終をみとる。同行ですから。

🔶最後に彼は、十返、念仏を称えようとする。息が切れかけて、九返まで念仏は出たけど、あと一返がでない。あと一声!と励まされて、十念称えられた。
🔷法然上人は、この人にあえて、教えの道理の上では、善導さま。
そして実践して自分にこの道かありますよ、ということを法然様に体感させてくれた先達が、遊蓮房という方であった。

🔶遊蓮房が住んでいたのが、粟生のあたり、でありました。他所(よそ)の宣伝をしましたが、浄土真宗は、そういう形の中から、開かれていった仏教なのです。
🔷誰も発想できなかった、深い宗教的な欲求の中から、尋ね出された教えなのです。

🔶今でも、庭の石組の中に、三尊石がある。池の中に鶴亀とかを置く。阿弥陀三尊、両脇に低い石を置く。そして、石と砂で、山水。
🔷真ん中に高い石を置く。多分、立派なお庭ですね、と誰かがお浄土みたいですね、と蓮如上人にいわれた。

🔶一緒にお部屋で蓮如さんと、御堂が見えて、
「いやー、立派なお庭ですね。御浄土みたいですね?」
🔷御堂がみえて、向こうには、木々があるので、お庭を誉めた。
お浄土の姿が偲ばれますね?

🔶そしたら、蓮如上人は、
「物事と言うのは、想像と実際とは、全く違うんやで。想像している以上に、極楽はこんなものとは物の数ではない」
🔷往生させて頂いた喜びは言葉に尽くし難い。薄っぺらい言葉ではいえない。

🔶浄土を味わわせてくれるのが、阿弥陀経。浄土のありようを説明して下さって、おりんを打ちます。あそこまでが、お浄土のありようをあらわしている。
🔷ありようとは、阿弥陀様がご覧になっている世界です。受け止めておられる世界をお釈迦様が代わりに説かれている。

🔶浄土の荘厳は、地面があって、池があって、花か咲いていて、建物があって、樹があって、風が吹いていて、鳥がいて、さえずっていて、木葉がそよいで、念仏、念法、念僧。普通にみると、私達と同じ世界でしょう。
🔷爽やかな音楽、空から花がふって、日日、生きている私達の世界です。

🔶問題は池、水、花をみる。
では、我々は地面を黄金と見えるか?
水を八功徳水と見えるか?
いつも素晴らしい音楽を聴いて奏でられているか?
空から、花が降っているか?
でも仏様からは、そうなのです。
🔷私達が地面をみて、思うのは、一坪、いくらなんぼや?
そこで生きさせているとも思っていない。ぼーっと生きている。
そういう根性で生きているのを餓鬼というんや。

🔶八功徳水も、地獄も極楽にある水も全部、H2Oです。同じ水だけど、お浄土は八功徳水となっている。
🔷我々であれば、水が流れていたら、「水道代があがる。勿体ない」と思う。

🔶穢土では、空から、天から、花でなく、爆弾が降ってくる。これは今に始まったことでない。
🔷自分の都合でみている世界が穢土。仏様から見えている世界は、ものが本当に見えている世界です。

🔶欲を越えて、自他を越えている世界を浄土という。浄土を通して、穢土を教えてもらう。
🔷自分が受け止めている感覚がどれほど欲に汚されているか。
それでしか、物事が見えていないか、穢土は反省を要する言葉なのです。

🔶阿弥陀経は、ギリギリ一杯、ここで何とか味あわせようとして、お説き下さったら、あのようになったのだと思います。
🔷浄土に往生したら、思っているのと大分、違うから。
お互いに、そう長くないから。

🔶水であっても、花であっても、地面であっても、私達は自分の都合で好きな人、嫌いな人を分けている。
🔷自分の都合を越えて、自他を越えて、モノの見方があるお浄土を味わわせて頂けるようになりたいものです。
   【前半終了・休憩】