【後半】✡️🪐🌟【2月26日(月)】8時30分より、岡崎市にて聴聞。
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【質問】

模様替えは、そんなにいいことではないと聞きましたが、どういうことですか?
 
【回答】

模様替えとは、変身願望です。我を変えることです。模様替えというのは、環境を変えて、別の何かに変わる。
別の何かに変わるとしても、自分の業が変わらなければ、意味がない。

模様替えが、大事なのではなく、自分の中身を変えることが大事なのです。
模様替えをしたいと思う人ほど、あの人が嫌だ!といって、他の人が変われば、自分は変わると思っている。
あの人のいる環境では、自分は幸せにはなれないと思っている。
     【終了】
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【質問】

 わざわざ、不安を探すということについて。

【回答】

私達には、分別心があって、善人の自分と悪人の自分とがいる。
しかし、これは両方とも、我であって、我というのは、固定をしようという心がある。

普通の人は善人の自分に立っています。何かのことで、無常に触れて、善人の自分、善人の我が崩れてしまった時に、今度は悪人の自分になってしまう。

そうすると悪人の自分というのは、悪人だと思って、幸せになってはいけないと思ってしまう。
そうすると、悪いことばかりを想像する。

結びつけて、自分を悪い人間にする根拠にする。
そうすると、何事もなくてでも、物事を悪く悪く受け取って、心が不安になる。

それは善人に自分が立っているからです。善人の我が崩れて、悪人の我になる。我とは固定をしようとする働きがあります。

私が悪人であることを証明をするために生きるようとする。
物事を悪く悪く、受け取っていく。こういうことが起きるんでないか、と思ってしまう。
      【終了】
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【質問】

謝るということについて
 
【回答】

私達は、凄いさみしがり屋で、日頃は正しい所に立っている人は、謝らない。
謝らない人は、人と触れあっていく時に、家族なら、自然と人は離れていく。

たとえば、⭕⭕さんと⭕⭕ちゃんならば、⭕⭕さんが正しい所に立っていたならば、⭕⭕さんが⭕⭕ちゃんを傷つけることがあったとしても、⭕⭕ちゃんは何も言わずに、心の距離がどんどん離れていく。

それに気づいて、⭕⭕さんとしては、何かをやっても、反応してくれないと寂しい思いをする。

でも、この寂しい思いをすることは大事なことなのです。

多くの人は、
「何だ何だ!俺が挨拶をしているのに挨拶をしないのか!挨拶をすべきだろう!」と正義で言う。

でも、仏教を聞いていくと、こうやって離れていくのは寂しいなあ、となって、自分から近づいていこう、というふうになる。
頭を下げていくということが大事なことなのです。

そういう気持ちになった人にとって、その相手との関係は大事だから、何かあった時に、またこの心の距離が離れていくのが凄く嫌なのです。だから謝るのです。

謝ることによって、相手との心の距離を近づけてもらえるようにする。

歳を取ると皆、独り暮らしをする。子供たちと別れて暮らすようになってしまった。何で?
それは一緒に暮らしながら、自然と子供との心の距離が離れていった結果なのです。

確かに謝ると、相手は「お父さん、うるさいわよ!」と言ってくるかもしれないけど、心の距離が近づいてくるから、言ってくる。

「お父さんだって」言うと怒る。
そうすると、こちらからは、何も言えなくなる。言えないということは、自然と離れていく。
子供が離れて「何でこんなに寂しい思いをしなければならないのか?」というけど、それは、あなたは子供に近づくために、何の努力もしていない。

近づけるための努力は、とても大事なのです。

この世界は因果の道理だから、あなたの種蒔きに応じた結果がやってくる訳です。

だから、謝っていく。それは心の距離なのです。心の距離を大事にしている人ほど、謝る。

でも人は、こういう時にはこうすべきだ、と思っている人ほど、謝らない。

🟨かくあるべし!が強い。正義を持ち込んでくる。それで人は離れていく。自分に原因がある。

謝らないと、心の距離を保つことは出来ないし、家族でありながら、心の距離がどんどん離れていく。一緒に家族でありながら、自然と家族は離れていってしまう。

本当に謝る、ということは凄い大事なのです。
謝らないと、寂しい思いをする。
心の距離が離れる。

謝れない一つで、どんどん心は離れていってしまう。そうすると、お父さん、お母さんに何かをしてあげたいということがなくなります。

お父さんは寂しい思いをしていると思いますけど、何度も謝ることなんですよ、と言っているのですが、中々、謝ることは出来ない。
      【終了】
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【質問】

出世本懐の御文である「如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀す。世に出興する所以は、道教を光闡して、群萌を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してなり」とある、道教とは、どんな意味なのですか?

【回答】

道教とは、道の教え、道とは仏道を進んでいく教えで、聖道仏教のことです。
それを広く教えて、実践させていく教えです。
真実の利とは、弥陀の本願です。
      【終了】
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【質問】

『親鸞聖人御消息』「有念無念の事」の後半の「聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・・・等の大乗至極の教なり」の意味について。
それと、聖道仏教、十九願の、みこころを中心に説くようになった理由について。

【回答】

🟨すでに仏に成りたまへる人の、
➡️ 仏に成った人とは、浄土に往生した人。

🟨われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・・・等の大乗至極の教なり」
➡️ われらとは、まだ浄土に往生していない人。

⭕⭕さんは、今の心のままで聴聞をしていけば、救われると思っておられる。だけど、そうではない。

僕が聖道仏教を説くようになった理由は、仏法は心が大事なのに、聞いている人達が、心を問題にする人が、余りにも少なかったからです。

つまり、形では、善をやっていても、心が本当に善が出来ていないなあ、と反省をしている人が全然いないのです。

心から、善をやろうとしている人がいない。
だから、先ず心を育てていかなければ、弥陀の本願に救われる、救われないという、土俵に上がることが出来ない。

だから、心をすすめる、とは、心を育てるということ、心を育てていかなくてはならない。

心を育てていって、初めて弥陀の本願に救われる。
心を育てる教えが、仏教であり、聖道仏教だから、それで聖道仏教が、とても大事なのです。
今の心のままでは、救われないのです。
      【終了】
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【質問】

 『親鸞聖人御消息』「有念無念の事」の後半に
①「聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・・・等の大乗至極の教なり」
②「浄土真宗は、大乗の中の至極なり」と出ている。
①②は、よく似た表現ですが、親鸞聖人は、聖道の諸宗も、浄土真宗も、どちらも「大乗至極」と同列に見ておられるように見えますので、疑問が湧いてきます。

【回答】

本来は、聖道仏教は、まだ救われていない人が救われるための教えです。

浄土真宗【無量寿経】は、救われた人が、どのように進んでいくかについて、教えられています。

🟨✨コメント✨🟨
➡️「行巻」に無量寿経とは、
上巻には「如来浄土の因果」が、
下巻には「衆生往生の因果」が説かれている、と親鸞聖人は教えられました。

至極の教とは、法華経と無量寿経だから、無量寿経【上巻】とは救われた人が、どのように進んだら、良いのかが説かれている。

聖道仏教とは、どうしたら救われるかの教えだから、両方とも至極なのです。

浄土真宗では、どうすれば、救われるかが、ない!説かれていない!と一般的に言われる。

どうすれば、救われるかがないから、⭕⭕さんは今まで聞いたことがない、と言われる。

教行信証化土巻には、確かに六度万行の部分はあっても、どのように心を育てていけばいいのかが、説かれていないので、それを僕が説いて話をしているのです。
      【終了】
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【質問】

心を育てるとは?

【回答】

私達は我を問題にする心があって、自分はどう見られるかで善をしてしまう。
我で、どんなに格好つけて善をしても、覚りは開けない。
我を崩して、心の方に目を向けないといけない。

心の方に目を向けて、初めて阿弥陀仏の本願に救われることがある。
ここの部分の教えが全く説かれていない。そこを僕は説いている。
     【終了】