1️⃣🌟✡️【2月12日(金)】西宮市の念仏寺にて午後3時より5時半まで、土井紀明先生〖念仏座談会〗での御縁を頂きました。

🔷今日は、ジェシーさん、法名釈尼萌海さんが念仏寺に来られて、一緒に聞かせて頂きました。
 ………………………✴️✴️……………………
🌟【講義録の走り書き】〖前半〗
🔷浄土真宗は信心正因、分かりやすく言いますと、阿弥陀様に出会う、実感として出逢う。

🔶仏法を、身に付けるには実感するということ。実感する、といっても世間では色々な実感がありますが、人生を支える実感ではありません。

🔷それと阿弥陀さんとの実感とは、実感された働き、慈悲というものを実感するのです。自分を支えるものとなるのです。

🔶色々と仏教の勉強というものは八万四千といわれて、きりがないです。大蔵経だけでも何千巻とある。

🔷ですけど、阿弥陀さんに出会うと、これ一つ、これは知識は少なくても、真宗のことは、余り知らなくても、本当のものに出会う、夜が明ける、自分が知らされる。

🔶実感するためには、聞法、それから念仏の行、教えを学ぶ、この二つは仏教の全体がそうです。

🔷これは禅宗でも、真言宗でも、南方の仏教でも、教えを学ぶことと行はあります。特に禅宗では、行を特に大事にします。

🔶他の宗旨でも同じです。念仏を称えても、信は中々、獲られない。そのためには南無阿弥陀仏の慈悲を、阿弥陀様のお心を何度も繰り返し、お聞きすることが第一になります。

🔷阿弥陀様の方から、言葉となって、出会おうとされる。それを阿弥陀様が考えなさって、五劫の思惟、南無阿弥陀仏によって、
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

🔶南無とは任せなさい、という御言葉、阿弥陀仏はあなたを摂め取って捨てない。私に任せなさいという勅命。

🔷あなたの行く末は、阿弥陀が引き受けて、浄土に生まれさせるから、私に任せなさい。あなたの罪はいかほどあろうとも、弥陀は仏にする。南無に非常に慈悲がある。私が引き受けるから、心配をする必要はない。それほどの慈悲があったのか、実感が出来るのです。

🔶阿弥陀様と私が離れない。摂取不捨の利益。私の命の主体は阿弥陀さんとなる。すぐにはいかないかも知れないけど、阿弥陀様は私の命の親、命の主人公、すぐには、中々、分からないけど、私の命の主であると知らされる。

🔷そうすると禅宗でいわれていることと同じことが分かる。
かつて、内山興正老師という方から、お聞きした。昔、高倉会館という、東本願寺の近くに法話に来ておられた。

🔶私も何回か、聞かせて頂き、手紙も頂きました。
これは晩年の詩(うた)で、禅での詩ですが、真宗でも味わえます。

🟨「生死・法句詩抄」より
「生死」
「手桶に水を汲むことによって
水が生じたのではない
天地一杯の水が 手桶の水を
手桶に汲みとられたのだ

大地に撒いてしまったからといって、水が無くなったのではない
天地一杯の水が、天地一杯の中にばら撒かれたのだ

人は生まれることによって
生命を生じたのではない

天地一杯の生命が
私という思い固めの中に
汲みとられたのである

人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない

天地一杯の生命が
私という思い固めから
天地一杯の中に、ばら撒かれるのだ」

🔷上手い詩を作っておられる。優しい言葉で、仏教は、こういうことが、気がつくことです。これは真宗であろうと、他の仏教であろうと。

🔶生まれて死ぬ。水を酌んで、手桶の水だけが自分ではない。この身体だけが自分だと思っているが。生まれて年を取って、死んで自分は終わりだ、もう何もない、これが普通の考えですが、しかし手桶の水は天地一杯の水に入っている。天地一杯の水に出会う。

🔷にもかかわらず、私達は手桶の水が、私達だと思い続けているけど、生まれて歳を取って、死んでいくだけが自分だと思っているけど、水の大小、大きさを比べあっている。

🔶私はこれだけの財産を持っているとか、学歴がどうであるとか、頭が良いとか、悪いとか、お互い比べ合っている。










🔷本当は天地一杯の手桶に酌まれただけ。天地一杯の命とは、計りなき命、阿弥陀さまの働きですわ。

🔶繋がると言っていいかな、何によって知らされるかというと、南無阿弥陀仏によって。

🔷内山興正師は、そこは言われないけど、浄土真宗では、天地一杯の水が叫んで、名となり、声となって、私に現れて、呼びかけてやって来て下されておられる。

🔶仏教というのは、禅宗であろうと、真宗であろうと、他の仏教であろうと、共通のものであります。広い世界があります。

🔷もう一つ、申し上げたいのは、つくづく、そう思うのは、親鸞聖人は法然上人のお弟子ですけど、法然上人のお弟子には、優秀なお弟子が沢山おられます。

🔶証空上人、それから、鎮西上人、隆寛、幸西さん、凄い学者、優れた弟子がおりまして、現在でも、隆寛、幸西さんは、いなくなりましたけど、聖覚法印は弟子と言えば、弟子ですが、外の弟子です。

🔷親鸞聖人は、お一人です。
証空上人は、浄土宗西山派。
鎮西上人は、浄土宗、次々と沢山のお弟子、学者が出ております。沢山の書物を残している。

🔶一遍上人は、西山派から、出ております。
隆寛、幸西房、がおります。
沢山の弟子がおりました。 

🔷親鸞聖人には、そういう人が一人もいないのです。しかも京都に30年近くいたのに。それも、いわゆる弟子という人がいないのです。

🔶ただ教行信証を写した人が、写すには世ほどの人でないと写せないので、従兄、甥、親戚の人ですね。日野家の人ですね。

🔷あと、唯円がいますが、学者ではありません。非常に信仰の深い人、勿論、学問もありますが、学者肌ではない。随分、勉強はして、書き残してはおりますが。

🔶証空上人、鎮西上人には、次々と、その後に学者が沢山出てきております。

🔷ところが親鸞聖人には、一人もいない。なぜか? 京都に30年もいて。これは『口伝抄』にある。

🔶「説導、涯分、古(いにしえ)に恥ずべからずといへども、 人師・戒師、停止すべきよし、 聖人の御前にして誓言発願おわりき。 これによりて檀越をへつらはず、 その請に赴かずと云々」

🔷説導➡️唱導に同じ。法を説いて、人を導くこと。
🔶涯分➡️器量、才能
🔷人師➡️人を教え導く師
🔶戒師➡️戒を授ける師
🔷檀越➡️恵みを与える人の意。施主のこと。

🔶これはどういうことかというと、親鸞聖人は説法をしても上手だった。しかし、親鸞聖人は、人師・戒師、停止すべきよし。人の師匠にならない。人に戒律を授けることはしない、ということを、 聖人の御前にして誓言発願おわりき。

🔷法然上人の前で、親鸞聖人は誓われた。「私は人の師にはなりません。人に戒を授けることもしません」
法然上人は人に戒を授けました。五戒を授けました。
一般の方に五戒を授けたのです。

🔶しかし、親鸞聖人は自分はしない!と法然上人の前で誓った。凄いですね。一生涯、私は弟子を持たない。

🔷ただ聞法、私の話を聞きたい、共に同行として聞くという人はあります。
それまでの師弟の関係は、弟子を作って、法名を授けて、そして自分の書いたものを弟子として、門下に入ったものとして、これが師匠と弟子との関係でした。

🔶一生涯、親鸞聖人はそれを守られた。凄いなあ、と思います。
ということは、一生涯、弟子の立場に立つ。聞法者の立場に立つ。
だから、どんな人にも教えて下さいと、という立場です。

🔷聞法者の立場に立って、人の上に立たない。親鸞は弟子一人も持たない。関東には20年、京都には30年もおられたけれども、あれは親鸞の弟子だとは言われていない。御同朋、御同行と言われる。

🔶最後まで、隆寛律師とか、聖覚法印とか、私は最後まで、学び続ける。これは中々、凄いなあと思います。

🔷弟子となると世界は広くなります。人から、教えて下さい、教えて頂く。学んでいこうと一生涯、そういう立場です。

🔶だから、法然上人の前に誓った。親鸞聖人は、なお自己批判をされて「名利に人師を好むなり」
師になりたい、人から認められたい。これもまた凄いですね。
こういう人は少ないなあ、と思います。

🔷私共も反省をさせられます。先生方は、沢山いる。どんな人とも学んでいこうとする。
自分が偉くなると、人から、尊敬されると、指導者のようになりたいと、狭い世界になってしまう。

🔶本当に親鸞という方は、凄い。
なぜ人に上に立ちたいかというと、単に名声だけでなくて、御布施が入ってくる、講演料が入ってくるから。

🔷自分は真宗の勉強をしています。自分の聞法のためなら、いいですよ。

🔶色々とお呼びがあると、また本を出せば、人の上に立って、教える立場に立ちたいところに名声を求め、利益を求める煩悩が蠢くのを親鸞聖人はちゃんと自己批判をされて、私は一生涯、人の師にはならない。

🔷あれだけの偉い人が、そういう立場に立つ。偉いなあ、と思います。
    【前半終了】
………………………✴️✴️……………………
🌟【配付資料】
🟩【表】
〖念仏会・法語〗
一、三河の長松、香月院講師に、信心決定の人に紛れて、往生を仕損ずるとある御教化は、いかが聴聞致す事で御座りますかと尋ねたれば、師いわく、信心の人に紛れると云(い)うは、我等のことであらうぞいのう。

長松いわく、さてさて有り難い、彼方(あなた)様が、かく仰せられて下さらずば、此の長松は我が計いで紛れぬようにして、参らうという奴じゃに、紛れたる此の私を御助けぞと信ずると云うことは、有り難いことで御座ります。

二、一蓮院講師いわく、たのむのがこうじゃ、信ずるのがこうじゃ かえと、あまり云うは、却(かえ)って理窟におちる。如来さまが助けて下さると喜ぶのが、一番ありがたい。

三、如来永劫の修行を全体施名として、名に体の徳を全うして、施す法なれば、百千音声の法なり。
音声の法なれば、六字の謂(いわれ)を聞き開くなり。六字の謂(いわれ)とは、助け上手を聞くのなり。 【香樹院師】

四、阿弥陀仏の名号は、余仏の名号に勝れたまえり、本願なるが故なり。本願に立てたまわずば、名号を称すとも、無明を破せざれば、報土の生因となるべからず、諸仏の名号に同じかるべし。

しかるを阿弥陀仏は〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉と誓いて、 この願成就せしめむがために、兆載永劫の修行をおくりて、今、已に成仏したまえり。この大願業力の添いたるが故に、諸仏の名号にもすぐれ、称うれば、彼の願力によりて、決定往生をもするなり。
    【法然「西方指南鈔」】

🟩【裏面】
✨内山興正老師「生死・法句詩抄」より
     「生死」
手桶に水を汲むことによって
水が生じたのではない
天地一杯の水が 手桶の水を
手桶に汲みとられたのだ

大地に撒いてしまったからといって 水が無くなったのではない
天地一杯の水が
天地一杯の中にばら撒かれたのだ

人は生まれることによって
生命を生じたのではない

天地一杯の生命が
私という思い固めの中に
汲みとられたのである

人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない

天地一杯の生命が
私という思い固めから
天地一杯の中にばら撒かれるのだ

      【終了】