4️⃣🟥🟪【2023年11月11日 (土)】大谷専修学院講堂【9時30分~12時30分】
🟩講師:藤場俊基氏(金沢教区常讃寺住職)
🟩講題:「わけもわからずに称名念仏しても意味はない」か?
 
🌟【講義の走り書きメモ4️⃣】〖後半〗
🔷訳も分からず、の訳とは何か?それを真実という。真実が分からない、言い換えると信心を獲たと思っているか、思っていないか。

🔶それについて、問題にしているのが教の巻、これについて、私は本を2冊出しています。大谷専修学院に寄贈していますので、読みたい人は読んで下さい。

🔷親鸞聖人は「つつしみて浄土真宗を案ずるに」から、教行信証の本文が始まります。つつしみて、とは、身を正して教えに向き合う。二種の廻向がある。
🔶p.152『一つには往相、二つには還相』相はすがたです。往は往く、還は還る。廻向とは、非常にやっかいな概念です。

🔷この本のタイトルは「顕浄土真実教行証文類」ただの真実ではない。浄土真実なのです。

🔶浄土というのは、浄土真宗にとって、とても大切です。真実の教行証というのは、真実の仏教です。あるいは、真実の宗教です。
その上に浄土をつけて、浄土真実の教行証です。

🔷浄土と深く関わって明らかに、と親鸞聖人はおっしゃっている。ただ真実とは言われていない。
浄土ということを説く経典に出会って、初めて真実とは明確になったと、親鸞聖人はおっしゃっている。
🔶真実には、真実と事実という問題がある。もう一つ、成る、ということと、ある、ということの問題がある。成る、というのは仏教では仏に成る、ということ。
成ると、あるとは、とても大切な視点です。

🔷成るとあるだけでは、浄土真宗にはならない。往くと還る。成る、ということは、仏教徒全体の課題です。釈尊が真実に目覚められて、生涯を通して、説ききられた。
🔶釈尊の姿に共鳴して、あるいは憧れて、見習おうとする。自分も釈尊のように生きて行こうとする。こういうことを心がけていくのが仏教徒です。私達もそのようにしていく。

🔷釈尊は何を覚られたのか?正覚と言います。説明は一杯ありますが、最終的には分からない。
皆さん、私が何を考えているか、隣の人が何を考えているか、分からないでしょう。

🔶お互いのこころの中、異性が好きになった時にどうするか?
言葉にするか、行動にするか、そうしないと伝わらない。
🔷付き合って下さいと言うか、長いラブレターを書いて、伝わることもあるし、今なら、LINEをするか。もう一つはプレゼントをするか。薔薇を送るとか、心を形にして渡す。

🔶無理やり抱き締めて、キスをするのは、セクハラになる。何らかの表現をして、伝える。
🔷釈尊の正覚は言葉を手がかりにして、私達は、それを知ろうとする。誰が成功をしたのか。殆んど成功をしておりません。仏教の2000年の歴史の中で、釈尊の正覚を完全に証明をした人は、いないのです。証明をした!という人はニセモノです。

🔶そこに現れてきたのが、浄土真宗、浄土ということを中心にした教え。浄土は一般名詞ですから、諸仏の国は全て浄土です。
ですから、釈尊のことを言う時は、「Tha Buddha」という。
🔷定冠詞の「Tha 」をつけて、私達が浄土という時は「Tha 浄土」という。大文字をつける。特定の浄土です。

🔶今日の日本では、浄土といえば、基本的には、阿弥陀様の浄土、そのくらい、有名になっている。浄土は場所を示す概念になっている。
🔷ディズニーランドなら、行く、ちいう。ディズニーランドに、成る、とは言わない。場所があるから、そこに行くとか、還るという言葉が成立する。

🔶往相とか、還相という言葉は、浄土を想定しないと成り立たない。浄土に往く姿と還る姿、この二つが、キーになる。
🔷ところが、成る、と、ある、はとても大事な言葉なのです。
これだけでは浄土真宗にはならない。浄土真宗というのは場所を示して、そこに往くと還るということを話の構成が出来た。

🔶それによって、仏教とは、どんな教えなのか、という体系が出来た。よく伝わる体系が出来た。
それを通して、阿弥陀の浄土がどうやって生まれたのか、どうやって誕生したのか、きちんと説かれているのが無量寿経です。

🔷そこに説かれた話によって、浄土真宗の教義というものが全て構成されている。これから、外れたら、危ない。

🔶でも浄土のことを言わない人が多くなっている。
だから、往相廻向も分からないし、還相廻向も分からない。
称名念仏もあまり強調しようとしなくなった。殆んど言わなくなった。

🔷浄土を言わなかったら、称名も要らない。ここで意味はない。
浄土真宗で意味があるとか、ないとかは、基本的には往生が確定するか、しないか、往生が定まるか、定まらないか。

🔶こういう言葉の枠組みの中で、意味が言われる。それ以外のことは、二の次なのです。
第一義的には、往生が定まる。
称名念仏が関係するのは、浄土への往生に関わる。これだけなのです。

🔷皆さんは、往生なんて考えたことがないから、意味があるとか、ないとか、問われてもピンと来ないのです。
🔶では、浄土を信じていますか?
浄土をあると思っている人は、殆んどいないと思います。

🔷私、藤場俊基は浄土があると思っている人?
正直に答えると、分からないのです。もっとぶちまけると、あると思っていません。実在するとは全然、思っていません。

🔶では、何が大事なのかというと、浄土は実在するのか、しないのかではなくて、
事実は、浄土を説く経典が存在する、というのが事実なのです。
🔷無量寿経が存在するのは事実でしょう。誰も否定は出来ない。
問題は、その確実に存在する経典を信用をしているか、信用をしていないか。

🔶つまり、法華経を捨てた人が、なぜ無量寿経を根本的に信頼するようになったのか?
法華経と無量寿経と、どちらが真実を説いているのか、こんな話ではない。
🔷その次元で話をするから、ケンカになる。法華経を信じている人達は、理由がちゃんとあるのです。その理由は中々、崩せませんよ。

🔶法華経が始まる時に、釈尊がこれから説くことは40年間、いろんな説法をしてきたけど、これまで一つも真実を説けなかった。
🔷聞く人の条件が揃わなかったから、今から話すことは、間違いなく真実だということで、釈尊自身が、今から説くことが真実だと宣言をしていた。

🔶これは否定が出来ない。仏弟子が、それはウソだ!とは言えない。それを20年、勉強をした人が、それでも納得がいかなかった。親鸞聖人の主観が許さない。🔷この問題を、なぜ大無量寿経が、壁が崩れるのか?
親鸞聖人はそれを決めることの出来る資格がないのです。権限も能力もない。

🔶私達が親鸞聖人と共感が出来るのは、そこです。真実を見極める力がないものとして、親鸞聖人と共鳴が出来る。真実が何か分からないものが、どうして無量寿経の中に真実を見い出したのか?

🔷それで、私はこの経典を何があっても信頼する。その信頼から、この経典は私達に何を伝えようとするのか。その内容の学びに入っていく。

🔶信用をしていないものを学んでもしょうがない。そこに説かれていることが、気になるか、ならないのかを重視して考えたら、全部ぶっ飛んでしまう。

🔷私の場合は、称名念仏で拒絶をしてしまった。「冗談じゃない!」皆さんが納得が出来ないのは、そこに壁があるからです。
その壁は最初の信頼がないと突破が出来ません。
🔶親鸞聖人は、そこで私は真実が分からない、という前提、比叡山で思い知らされて、分からないものが、どうして仏陀の教えに出会うことが出来るのか、それが仏教の最大の難関なのです。

🔷仏も分からない、法も分からない、真実も分からないものが、どうして仏陀の教えに出会えるのか?
🔶真実を伝えようとする教えに、どうして訳の分からないものが、頷いたから、訳の分からない教えになったのです。

🔷どうして念仏なんて、どうでもいいと思っていたものが念仏をするようになったのか?
この疑問にどう答えるのか?

🔶「念仏がいいよ」といっている人に「念仏なんてくそくらえ!」と思っている人を説得が出来ますか?
🔷「念仏なんてどうでもいい」と思っている人に、念仏をするようになる。この疑問にどう答えるのか?

🔶念仏なんてくそくらえ!と思っている人は、何に躓(つまづ)いているのか?確かなものは分からない。
自分自身に、それまで間違いのない人生を送ってきた。

🔷私は殆んど挫折はしておりません。就職をするまでは。それでいいと思っていた。
ところが会社に入って、生きていきたいという意欲が消えてしまった。
🔶このまま生きて行きたい意欲がなくなったのです。自分自身が、そんな状態になるということさえ、考えたことがなかった。
自分自身がどうしていいのか、分からない。

🔷家族にも言えなかった。言うと心配をするから。死にたかった訳ではない。生きたかったのです。でも生きる意欲がない。
🔶国語、算数、理科、社会が役に立ちますか?その時に真宗の教えを聞いて、
「ああ、これは面白そうだ!やってみたい!」やってみたい、というだけで意欲が湧いてきた。

🔷でも、ちょっとやってみたら、念仏せよ!と書いてある。冗談じゃない。そこで、ジレンマが生じる。
そのギャップを埋めたいと思って、勉強を始めた。

🔶私は「教行信証に絶対に書いてある!」と思ったので、くらいついたのです。普通はそうしません。難し過ぎて、手が出ないで止めてしまう。皆さんは簡単なものは読まない。
🔷阿弥陀経は殆んど真剣に読まない。大体、何が書いてあるか、聖典を読んだだけで、大体、分かってしまうから。

🔶観無量寿経、何となくみんな、そう言っているから。
大無量寿経、まあまあ、読みません。
🔷教行信証は殆んど手が出ない。やってみて、歯が立たない。超難しいのは手が出ない。超簡単なものは馬鹿にする。ちょっと頑張れば、理解が出来るものばかりを読む。

🔶私はハッキリとさせたいことがあったから、それが出ていると検討していたものにくらいついた。
🔷本当に「何で念仏をしないといけないのか?」それをハッキリとさせたかっただけ。この問題が難しいとか、難しくないというような問題を超えさせた。

🔶浄土が大事だ!周りには浄土を問題にする人は、殆んどいなかった。今になって思うと、それが一番大きな問題。
🔷浄土を言わない浄土真宗って、あるのか?
無量寿経を信頼するということをベースに考えてみると、何を説いてあるのか?

🔶国王が、世自在王仏の説法を聞いて、国王をやめてしまった、という話から始まる。その前に少し色々ありますけど。
🔷皆さん、国王にしてやる、と言われるのと、求道者にしてやる、と言われるのと、どっちを選びますか?
殆んど国王になりたいでしょう。

🔶ところが、この無量寿経の主人公は、国王をやめてしまった。
国王になりたいものが、通じる話ではないのです。
🔷先ずそこが仏教と、国王を頂点とする世の中との違いです。
    【終了】
 
🌟【プロフィール】
1954年石川県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、5年間、三和銀行勤務。大谷専修学院修了、大谷大学大学院博士課程(真宗学専攻)満期退学。
現在、石川県常讃寺住職。
✡️【主な著書】
🟨『顕浄土方便化身土文類の研究ー弁証論ー』(文栄堂、1991年) 
🟨『エイズという時代』(共著、東本願寺、1995年)
🟨『親鸞の教行信証を読み解く Ⅰ 教・行巻-浄土教の成立根拠と歴史的展開』(明石書店1998年)
🟨『親鸞の教行信証を読み解く Ⅱ 信巻-浄土教の信仰における問』(明石書店、1999年)
🟨『親鸞の教行信証を読み解く Ⅲ 証・真仏土巻-浄土教は仏教であるか否か』(明石書店1999年)
🟨『親鸞の教行信証を読み解く Ⅳ 化身土巻(前)-似て非なる「仏教」-願われて在る逸脱』 (明石書店2000年)
🟨『親鸞の教行信証を読み解く Ⅴ 化身土巻(後)-似て非なる「仏教」-許すべからざる詐称』 (明石書店2001年)
🟨『凡夫、ゆきやすき道』(真宗大谷派名古屋別院)『善導と観経に学ぶ』(真宗大谷派四国教区)
🟨『共なる歩みの道をー本願の歴史の中の私ー』(真宗光明団)、🟨『親鸞の仏教と宗教弾圧』(明石書店2007年)
🟨『『阿弥陀経』に聞くー極難信の法から問われる信ー』(真宗大谷派仙台教区教化委員会2008年)
     【終了】