3️⃣🟪🟩【2023年12月02日 (土)】18時30分より
🌠【大無量寿経講義】第34回|ハートピア京都4階第5会議室
講師 大谷大学学長
講師 一楽真 師
 
✡️大無量寿経を深く学ばせて頂きました。素晴らしい説法でした。
一楽先生より、許可を頂きましたので、お聞きした内容を少しずつ紹介させて頂いています。
………………………✴️…✴️……………………
【講義の走り書き】〖続き3️⃣〗
 
🔶では、23願から、読んでいきたいと思います。
✡️【供養諸仏の願】
【原文】
🟨たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の神力を承けて、諸仏を供養し、一食の間にあまねく無数・無量・那由他の諸仏の国に至ることあたはずは、正覚を取らじ。
 
【現代語訳】
🟩わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が、わたしの不可思議な力を受けて、さまざまな仏がたを供養するにあたり、一度食事をするほどの短い時間のうちに、それらの数限りない国々に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
 
🟨たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の神力を承けて、
🔷仏のお力を頂いて、弘誓の鎧を着て、本願に護られて歩んでいく。
 
🔶仏の働きかけを受けないと私達は、諸仏を供養すること自体が明確にならない。
 
🔷たとえば、親鸞聖人は法然上人の出会いを通して、仏を観る見方が大転換します。ここでいえば、法然上人の呼びかけを頂いて、何を崇めるのか、何を大事なものとして、頂いていくのか、決まったのです。
 
🔶そんな馬鹿なことはないやろとお叱りを頂くかも知れませんが、
親鸞聖人は9歳から、比叡山で縁を持っておられますから、あの時も念仏をしておられます。あの時も仏を念じていたではないか、といわれそうです。
 
🔷しかし親鸞聖人からすれば、それまでは自分の思いを中心にしておられた。自分の中に思い描かれた仏を仰いでおられた。この修行をしていれば、いつか仏に近づけるに違いない。全部、自分の思いの中です。
 
🔶それを翻すことになったのが、法然上人による阿弥陀によって助けられなさいという言葉でありました。
 
🔷法然上人に会わなかったら、どういう仏にあうかは、分からなかったのです。阿弥陀の救いは、どこにでも成り立つ道です。
🔶出家も在家も問わない。修行が長いか、短いかも問わない。経歴も問わない。性別も身体が元気か、どうかも問わない。そういう道なのです。
 
🔷比叡山を降りたのは、阿弥陀に出会え!という教えです。ここにお経か違ってみえたのです。
阿弥陀に出会えと教えたのが、浄土三部経、それ以外のは、それを後押しするもの。あるいはそれに導くためのもの、あの手この手の方便の教えです。
 
🔶方便というは、真実と比べて軽いという意味ではありません。
方便なくしては、真実には出会えませんので。方便は大変、大事なものです。
🔷方便を真実と勘違いをすると、そちらに重きを置いてしまう。
導かれるべき真実を見ずして、方便にとどまってしまうことが起きる。
 
🔶これは、一切のお経、これは教行信証でいうと化身土の巻ですけど。
 
🔷法然上人は親鸞聖人からすれば、一番近い諸仏でしょう。阿弥陀さんが法然上人となって、現れて下さった。ここまでおっしゃったご和讃がありますね。
 
🔶一番近い仏様です。そのお力を頂いて、仰ぐべきものが決まる。それが讃嘆供養といわれる。
 
🟨諸仏を供養し、一食のあひだに
 
🔷別のところ『如来会』では、朝飯前と書いてある。ちょっと聞くと、お手のもの、簡単なものと聞こえますけど、朝飯前といったら、尚更のことですけど、そんな話ではない。短い時間ということです。その短い時間の間に
 
🟨あまねく無数無量那由他の諸仏の国に至ることあたはずは、正覚を取らじ。
 
🔶限りない、数えきれないほどの仏様の国に、そこに那由多だから、10の60をかけた位です。
🔷無数といわれると、私達は想像がつきませんが、那由多と聞くと、ムチャ多いなあ、と思うかも知れません。
🔶無数無量の那由多の国の諸仏を供養するというのは、一食の間に出来ますかね?何を言っているか、ということです。
 
🔷私の国の菩薩が出来ないようであれば、覚りを取りません!と法蔵菩薩は誓っておられる。
🔶このことを頂いていく時に、浄土論に要のところを教えてくれている。
 
🔷浄土論の菩薩功徳のところで、今の話が出て参ります。
浄土論を三経一論として、位置付けて下さったのが法然上人であります。
🔶ただ法然上人は浄土論を全然引用をなさっておられない。そのお心を親鸞聖人は頂かれて、大切にしていかれるのです。お経をどう頂くかということを具体的な形で示して下さったのが、浄土論です。
 
🔷お経を本当に聞いたら、一心帰命となるのです。そうでないと、ただ物知りになったというだけでしょう。本当にお経が届いたところには、私は阿弥陀に帰命していきます。阿弥陀の国を願うものとなります。ということが具体的な事実です。
 
🔶それを見せてくれているのが天親菩薩の浄土論です。その中身が三厳二十九種功徳成就です。
 
🔷初めは、国土荘厳が十七種、仏功徳が八種、最後に菩薩荘厳が四種、菩薩のところが浄土の菩薩、
国中の菩薩です。
 
🔶私の国にいる菩薩はこうなるようにして下さる。浄土に生まれたら、どうなるのか。この国にいる菩薩の姿を通して、示される。
 
🔷その四つの功徳、最初は、
偈に「安楽国清浄 常転無垢輪 化仏菩薩日 如須弥住持」といへるが故なり。
 
🔶安楽国から、常に無垢の輪を転ず。法がいつも転がされている。法にいつでも、出会うことが出来る。
🔷そして、化仏菩薩の日、須弥の住持するが如し。須弥山がちょうど世界をたもっているように、化仏菩薩の日が、浄土をたもっている。
🔶ここから始まる。動かずして、あまなく至る。
⏹️一番目は、不動而至功徳
⏹️二番目は、一念遍至功徳
⏹️三番目は、無相供養功徳、これは色んな言い方がある。讃嘆諸仏の功徳。
⏹️四番目は、示法如仏功徳
 
🔷仏法の功徳のないところに往生する。出ていくことを願う。そして、仏法を示すこと、仏の如くせん、これも示法三宝の徳。
🔶仏法のない世界にいって、それをたもって、世界を荘厳していきたい。
🔷これを詳しくは浄土論註、天親菩薩はそこまではいわれていないのですが、一念遍至功徳、賛嘆諸仏の徳が、そのまま出ております。
 
🔶朝飯前とは、このことです。曇鸞の書いたものにはハッキリと書いてある。南を先にして、北を後にする。そんなことはない!という。優劣をつけない。
 
🔷今、私の娘のお陰で、孫が四歳と二歳の二人いますが、二人を平等には、観れない。一人を優先すると、優劣をつけられた、ということで、もう一人の孫は癇癪を起こしてしまう。
 
🔶こちらは優先をつけているつもりはありませんけど、先ずこっちとすると腹を立てる。仏様は腹を立てませんけど。
🔷仏を仰ぐとは、優劣をつけない。ありとあらゆる仏を平等に仰いでいく。
🔶讃嘆諸仏では、無分別心と書いてある。分別の心、あることなし、優劣をつけないとは、そういうことです。
 
🔷不動而至、浄土を動かずして、そこであまねく至る、とありますが、実際には無理でしょう。
だから、向こうから、来るのです。
 
🔶これはいつも紹介しますが、安田理深という先生に学生時代にお会いしまして、飛行機に乗らない方なので、外国にはいかない。
🔷しかし、この頃のヨーロッパは、と何でも知っておられる。
それは本でしょうけれども、京都から出たことがないけど、日本の、世界の色んな問題をみておられました。
🔶課題を一つ持つと、そこに集まってくるということがあるんでしょうね。
 
🔷例えで、ここにいながら、この世界のことが分かる。どうやって成り立つのか、と仰有ってました。自分の眼では無理です。自分では、自分のことを相対化できない。
🔶自分の顔は自分では見ることが出来ない。それをちゃんと見せて下さる眼を頂くことがあると、ここにいながら、色んなことが、繋がっていく、響きあっていく、ということがある。
 
🔷私が分別の心がなく、動かずして、全てに至るではなく、仏様の世界が、そういうこととして、仰がれていく。頂かれてくるということを、このへんの言葉は言おうとしている。
🔶凄いのは仏の世界と出会ったら、どうなるか。出会っていないところを自分の居場所にして、飾っていく。保っていく。仏法のないところで頂いていく。
 
🔷どこにそんな世界があるかと思われるかも知れませんが、皆さん、ご家庭はどうですか?
 
🔶聞法会にいくとなると、家族が喜んでくれる人は多くはないと思います。「そんな時間があったら、家のことをしてよ」と言われる。
 
🔷自分にとっては大事な話であっても、周りにはとっては中々、共有が出来ない。周りが悪いのではなく、自分が頂いているものが、届いていないから。
 
🔶示法三宝というのは、
「仏法のないところに俺がいって飾ってやる!」そんな話ではなくて、身近なところで、自分自身も仏法を頂いていく。
🔷日頃は、勝ったか、負けたか、無仏、無仏法の世界に生きてはいませんか?
🔶それが、まさに仏法がましまさぬ所です。これは仏にあったところに起きる。やるべきことが決まる。特別なことをやっていく、という話ではない。
 
🔷ここは開化衆生といっても、自分をおいて、誰かを教化するという話ではない。
🔶善導大師でいうと、自身教人信の通りです。自ら信ぜしめる。
自身がいつも問われている。人から聞かれたら、私は真宗の教えを大事にしております、と言うかも知れませんが、一日のうちにどれだけ大事に出来ているでしょうか?
 
🔷一年365日、どれだけ仏法を大事に出来ているか、自身が問われていると思います。だから、自身なくして、教人信はあり得ない。
🔶自分自身が仏様の世界を頂く、ということが、関係の中で、確かめていくという関係の中で私達に促して来る、ということでしょうね。
 
🔷証の巻に、ここの部分を全部、引用しておられます。
証の巻は還相回向のところでありますけど、浄土に生まれたら、どうなるのか、どういう生き方が始まるのか?
🔶まさに浄土の菩薩のあり方が、展開してくる。念仏して生きるところに、菩薩道としての課題を満足していくことが、我々に起こる。
🔷私達が仏道を頂いていく。これがまさに菩薩としての意味を持つというのでありまして、詳しくは浄土論と論註で、それを親鸞聖人が引いておられる証の巻、ここを見て頂ければいい訳であります。
 
🔶だから、23願というのは、仏というのは、どこの国におられても、平等の願いを持っておられる。ここに出会う、ということ。
 
🔷仏様というのは、ここにいながら、全世界に遍満している、ということ。
🔶仏様は、時代が違っても、国が違っても、平等の願いを持っておられる。
 
🔷仏様が出てくるのは、本願文の六番から、九番までで、既に出ております。
⏹️六番目は、天眼通の願、天眼とは肉眼で見えないものを見る。
私の国に生まれたものは、天眼を得ることが出来る。その天眼は何を見るのか、諸仏の国をみることが出来るようになる。
 
🔷逆に言えば、私達は日頃は自分の周りしか、見ていない。
世界のニュースをみた時は、あの国は、大変やなあ、とちょっとは思いますけど、ニュースをみた時だけでしょう。それを自分の人生の課題とすることは、そう簡単なことではない。
 
🔶諸仏の国が見える。これが本当の意味の天眼だということが言われていまして、それを身に付けなさいとは言われずに、私の国に生まれたら、そうなる!と誓われている。
 
⏹️七番目の願は天耳通の願で、普通の耳では聞こえないことが、聞こえる。これだけ沢山の仏様の説法を聞くことが出来る。聞くだけでなく、悉く受持せざるに至らば、とあります。
🔷受けてたもっていく。聞いたことを失わない。それが天耳。浄土に生まれたら、そうなる。力が身につきますよ。浄土の功徳なのですね。
 
⏹️八番目が他心通です。他人の心をみることが出来る智慧。衆生は何で苦しんでいるのか。何を求めておられるのか、こういうことが見えてくる。
🔷逆に言えば、自分だけが苦しんでいる訳ではなかった。出会いがある。みんな大事な存在だった。
みんな自分の安心と平和を求めている。これを私の日頃の心からは絶対に出てこない。
 
🔶民族が違い、国が違うだけで、分かれる。それを越えるのが浄土に生まれたものはこうだ!
 
⏹️九番目は神足通という。これは普通に言われる神通力です。超能力みたいなものですが、ここでいわれる神足通というのは、世界にいく時に、短い時間でひと思いで、どこにでも、一念の間でいくことが出来る。
 
🔷こちらは国中の人天ですけど、今日のところは、重なっております。それは敢えて、菩薩と呼び掛けて、菩薩道でこういうことを求めておられる。そういう方の願いを満足するよ!
 
🔶逆に言えば菩薩道を、菩薩道として、完成させるというのは、至難の業なのです。
🔷自利を優先させると、利他は後になる。他のために生きようとすれば、自分を犠牲にしないといけないかも知れない。
 
🔶衝突しますよね。でも浄土に生まれると、共に助けられていくという形で満足する。
 
🔷実は私が自利利他をする訳ではない。阿弥陀の働きによって、私が救われるし、隣の人も救われる。共に救われていく友であるという世界が開けていく。
 
🔶親鸞聖人の生き方がまさにそうであると思います。命が終わられるまで、愚禿、愚かという字を外さずに、でも愚かな私のために、阿弥陀の教えを聞き続けなければならないと決まったのが、法然上人にお会いした廻心です。
 
🔷廻心をしたからといって、根性が直った訳ではない。直らない私が見えたところに、この教えを聞き続けなければならないということです。
 
🔶周りに初心者がいても「お前、そんなことも知らんのか!」とは言わない。一緒に学んでいきましょう!と。
🔷沢山、仏教の詳しい教えを知っている人がいても、別に怖じ気づくことはなく、共々にお念仏しましょう、お仲間ですよ。
 
🔶そういう生き方を見ると、親鸞聖人はどこに立っておられたか、ということを考える時に、まさに共に阿弥陀のお働きの中で、迷い傷つけあうことを越えさせて頂くことがあることを往き来会えたのが、宗祖であることを思う訳であります。
    【前半終了】
 
❇️ウィキペディアより
✡️【プロフィール】
一楽 真(いちらく まこと・1957年 - )は、真宗大谷派の僧侶、真宗学を専攻する仏教学者である。
石川県生まれ。大谷大学学長、
真宗学科教授。学位は博士(文学)真宗大谷派小松教区第二組・宗圓寺住職、真宗大谷派擬講。
所属学会は、日本仏教学会、日本印度学仏教学会、国際真宗学会、真宗連合学会、日本宗教学会。
大谷大学真宗学会『親鸞敎學』発行人。真宗大谷派主催「新宿親鸞講座」講師。
 
【略歴】
🟨1957年(昭和32年)石川県小松市にて、一楽典次の子として生まれる。
🟨1980年(昭和55年)大谷大学文学部真宗学科を卒業する。
🟨1985年(昭和60年)大谷大学大学院文学研究科博士後期課程を満期退学する。
🟨2005年(平成17年)石川県小松市高堂町にある「宗圓寺」の住職を父より継承する。
🟨2009年(平成21年)4月1日、大谷大学教授に就任する。
🟨2018年(平成30年)3月23日、学位論文「親鸞の救済論」により、大谷大学から博士(文学)の学位を取得する。
 
【著書】
🟩『大無量寿経講義-尊者阿難、座より起ち-』文栄堂、2004年
 
🟩一楽 真 講述『第37回 金沢教区同朋大会講義録』 真宗大谷派金沢教区教化委員会、2005年。
 
🟩『愚禿の名のり』真宗大谷派名古屋別院教化事業部〈東別院伝道叢書 30〉2007年。
 
🟩『親鸞聖人に学ぶ-真宗入門』 真宗大谷派宗務所出版部 2007年。
 
🟩『この世を生きる念仏の教え』 真宗大谷派宗務所出版部 2008年。
 
🟩『四十八願概説-法蔵菩薩の願いに聞く-』文栄堂 2009年。
 
🟩『親鸞の教化-和語聖教の世界』 筑摩書房〈シリーズ親鸞 第五巻〉2010年。
 
🟩『入出二門偈頌文』聞記-二〇一四年安居次講』真宗大谷派宗務所出版部 2014年。
 
🟩『日本人のこころの言葉 蓮如』創元社 2014年。
     【終了】