1️⃣🌠🪐【2024年2月4日 (日)
13時30分より
🟩芦屋仏教会館【公開仏教基礎講座】午後1時30分~3時
🌠講題:『観無量寿経』を読む(2)「王舎城の悲劇①」
🌠講師:浄土真宗本願寺派総合研究所研究員・京都女子大学講師 那須公昭 先生

🔷初めて那須先生のお話を聞かせて頂けました。難しい内容を声も大きく、分かりやすく話して頂きました。

🔶新たな気付きが多くあり、参加して良かったです。これからも、毎月、参加しようと思います。

🔷詳しいて分かりやすい資料を頂きましたので、皆さんに紹介します。

🌟【配付資料】
🌉芦屋仏教会館 基礎講座②
✨2024/02/04 作成:那須公昭
🟩第2回『観無量寿経』を読む【王舎城の悲劇①】

0. 『観経』のあらましと読み方(前回復習)

■『観経』のあらまし

🟨マガダ国の王宮では、王位をめぐって頻婆娑羅王と阿闍世の父子に骨肉の争いがおこり、その間で、妻として母として苦悶する一人の女性、韋提希がいた。

🟨「王舎城の悲劇」として伝えられたこの事件を契機として『観経』の説法が始まる。

🟨韋提希は、自分にどんな罪があって悪い子が生まれたのかと思い悩む。息子は父を牢獄に閉じ込め、餓死させようとし、母に刃を向けて殺そうとする。

🟨しかし、この業の因果についての問いに釈尊は答えなかった。
釈尊は、ただ悪に満ち充ちた、この世を願わぬ韋提希の求めに応じ、十方諸仏の浄土を現して見せた。

🟨阿弥陀浄土を選び取った韋提希のため、また釈尊無き世の凡夫のため、釈尊は清浄な極楽世界を見て、そこに生まれる方法として、十六の観法を説いたのである
(龍谷ミュージアム編 『釈尊と親鸞』 91頁参照)

🔶『観経』の読み方
⭕浄土真宗の聖典として拝読

⇒ 善導大師、親鸞聖人のお示しによる見方に基づいて読んでいきます。

🟦『観経』序分の構成

1️⃣1.経題:「観無量寿経」
善導大師『観経疏』玄義分
※図表①

🟨第二に次に名を釈すとは『経』に「仏説無量寿観経一巻」とのたまへり。「仏」といふは、すなはち、これ西国 (印度)の正音なり。
🟨この土(中国)には「覚」と名づく。自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす。(中略) 

🟨「説」といふは口音に陳唱す。
故に名づけて説となす。
🟨また如来、機に対して法を説きたまふこと多種不同なり。漸頓よろしきに随ひ、隠彰異なることあり。あるいは六根通じて説きたまふ。相好もまたしかなり。念に応じ、縁に随ひて、みな証益を蒙る。

🟨「無量寿」といふは、すなはち、これこの地 (中国) の漢音なり。「南無阿弥陀仏」といふは、またこれ西国 (印度)の正音なり。(中略)
🟨「観」といふは照なり。常に浄信心の手をもつて、もつて智慧の輝を持ち、かの弥陀の正依等の事を照らす。

🟨「経」といふは経【たて糸】なり。経よく緯【よこ糸】を持ちて、疋丈を成ずることを得て、その丈用あり。

🟨経よく法を持ちて、理事相応し、定散機に随ひて、義零落せず。よく修趣のものをして、必ず教行の縁因によりて、願に乗じて往生して、かの無為の法楽を証せしむ。 
(註釈版七祖、三〇一~三〇五)

⭕今日では「仏説観無量寿経」と表記されるのが一般的だが、善導大師が拝読された経は『仏説無量寿観経』であった

⭕「観」➡️ 心をしずめ、思いをこらして、極楽浄土の素晴らしいありさまと、そこにいます万徳を円備された無量寿仏のお姿と、その救済のはたらきを心に思い描き、その徳をわが身に体得しようとする「観仏」の行が説かれている「経」だから、そう名づけられた (梯和上2003、11頁)

⭕「無量寿」:阿弥陀仏のこと。アミターバー(無量寿) と、アミターユス (無量光)の意味をもつ。

⭕「経」:善導大師は「経」の語義に「たて糸」の意味があることをのべる。仏の言葉は、たて糸にあたり、その言葉で表される尊い法義内容【定善や散善、念仏といった教え】は、よこ糸のようなものである、と示される。

⇒ 仏陀の巧みな教説が、人々を救う本願の法義をしっかりと保って失わず、人々に生死を超える真実の道を明らかに知らせているから、仏の教説を「経」という

🟥『観経』の法義の肝要
🟨今、この『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす。
一心に回願して浄土に往生するを体となす。(註釈版七祖、三〇五)

⭕この『観経』は観仏三昧、念仏三昧がともに 「宗」 (法義の中心)であり、いずれにせよ、一心に浄土に往生しようと願う浄土願生を本体としている経であると示す 

⇒ 三昧➡️心を集中する/観仏・仏のおすがたを心にはっきり思い浮かべる

⇒ 念仏三昧➡️称名に三昧の徳があるという説/本願名号一つに専注し、専念し続けている状態に三昧と名づけたのではないか
 (梯 2003、17頁)

2️⃣『観経』の説かれた場所

🟨かくのごとく、われ聞きたてまつりき。ひと時、仏、王舎城耆闍崛山のうちにましまして、大比丘の衆、千二百五十人と倶なりき。菩薩三万二千ありき。文殊師利法 王子を上首とせり。
(註釈版、八七)

⇒ 最初は、王舎城の耆闍崛山で、千二百五十人の比丘と、三万二千人の菩薩を前に、釈尊は説教をしていた。

⭕「王舎城」➡️ 現在のラージギル。マガタ国の首都 ※図表②

⭕「 耆闍崛山」➡️ 霊鷲山のこと。晩年の釈尊が生活した場所

⇒ 説教の内容は、一説によると『法華経』であったといわれる

⭕経典成立の構成要素である六事成就が述べられる = 仏教一般では、証信序に該当

①「信」
②「聞」:「如是我聞」/
③「時」: ひと時/
④「主」: 説いた人「仏」/ 
⑤「処」:場所「耆闇崛山」/
⑥「衆」:大比丘衆、菩薩、文殊師利法王子

⇔ 善導大師は「如是我聞」のみが証信序で、次からは発起序 (経典が説かれる独自のきっかけ)と位置づける。なぜか?

🌟Ans. (観無量寿経のメインステージは王舎城であるから)

⭕「ひと時」以降は 「化前序」と位置づけられる ※図表①

3️⃣阿闍世と提婆達多

🟨その時、王舎大城にひとりの太子あり、阿闍世と名づく。調達(提婆達多)悪友の教に随順して、父の王・頻婆娑羅を収執し、幽閉して七重の室内に置き、もろもろの群臣を制して、ひとりも往くことを得ざらしむ。 (註釈版、八七)

⇒ 突然、場面が変わり、王舎城のお城の話に転換。阿闍世という王子と釈尊の弟子でもある提婆達多が登場。王様である頻婆娑羅王を幽閉して「一人も近づけてはなら ない」と命令する。

⭕「調達(提婆達多) 悪友の教に随順して」

⭕提婆達多は阿闍世に、阿闍世の出生の話をした

⭕提婆達多:阿難の兄で釈尊のいとこと言われる。釈尊に従って出家するが、釈尊を妬み、ことごとく敵対し、三逆罪(出仏身血、殺阿羅漢、破和合僧)を犯したとされる (岩波仏教辞典「提婆達多」より)

🔷【提婆達多】
⭕ダイバダッタは毎日、釈尊の名声と、献上品のあまりにも多いことに心の底から嫉妬していた。

⭕そこで、ダイバダッタは釈尊の弟子で最も位の高いシャリホツ (舎利弗)に、超能力(神通力)を身につける方法を教えて欲しいと頼む。シャリホツは、ダイバダッタの本性を見抜き、先に執着の心から離れるための修行から始めるようすすめ、ことわる

⭕最後に弟である、アナン (阿難)のところに赴いた。アナンはダイバダッタの本性を見抜くことができず、超能力の身に付け方を教えた

⭕七日七夜、休むことなく修行したダイバダッタは、ついに超能力の秘法を身につけた。

🌟【阿闍世と提婆達多】

⭕超能力を身につけた提婆達多は、その足でアジャセ王子のいる宮殿にむかう。アジャセの目の前で、超能力を披露。アジャセはよろこび、ダイバダッタを近くに呼び寄せた。ダイバダッタは赤ん坊の姿になり、アジャセの膝の上に降りた。アジャセは赤ん坊をあやしながら自らの唾液を垂らすと、赤ん坊は、この唾液を飲み込んだ。
⭕アジャセは、すっかりダイバダッタを信用した

⇒ ダイバダッタは、アジャセから莫大な供養を受け、ますます高慢に。釈尊の教団を分裂に追いやり、戒律も勝手に改めた

⇒ ある日、ダイバダッタは釈尊に「早く引退して、私に教団を譲り渡せ」と暴言をはく。それを聞いた釈尊は「人の唾を喜んで口にするような変質者などに、我が教えと教団を委ねることができようか」と堂々と答えた。

(以上、柴田泰山「『観無量寿経』入門 第二回 ダイバダッタの登場」(『大法輪』 2010年 2月号) より)

🌟【阿闍世出生の秘話】

🟨子どもが授からない頻婆娑羅王夫妻/占い師から、山奥に住む仙人が生まれ変わることを告げられる/
仙人の寿命はあと三年/頻婆娑羅王は仙人に自害を強要/仙人は「生まれ変わって必ずおまえを殺す」といい、命はてる/
その後、韋提希懐妊/ 仙人の遺言に恐れおののいた頻婆娑羅王は子どもを城から投げ捨てる/子どもは指の切断だけで助かる

⇒ 提婆達多は、この阿闍世の出生の秘密を阿闍世に話し、いつ何時、殺されるかもしれないから、と、クーデターをすすめた。

⇒ さすがに、阿闍世は側近の大臣雨行にきいた。ただこの雨行は提婆達多と腹をあわせていたので、まことであると証言。

⇒ このエピソードは善導大師の『観経疏』に出てくるもの。
✨おそらく『涅槃経』や 『四分律』の記述から、善導大師が想像力をふくらませて描かれたものと考えられる

※仙人殺しを善導大師が語った意図

🟨『観経』を読んだ限りでは、阿闍世と提婆達多は極悪人で、韋提希は苦難を乗り越えて、さとりを開く聖人のようにもみえます。
しかし、善導はそんな単純な図式で、この経典を読まなかった(中略)。善導が、わざわざ仙人殺しの因縁話を記述したのは『観経』 を、“煩悩を抱えた者たちの群像劇”的なとらえ方をしていたからではないかと思うのです
 【釈徹宗 『「観無量寿経」をひらく』29頁】

4️⃣幽閉された頻婆娑羅王の様子

🟨国の大夫人あり、韋提希と名づく。大王を恭敬し、澡浴清浄にして、酥蜜をもつて数に和して、もつてその身に塗り、もろもろの瓔珞の中に蒲桃の漿を盛れて、ひそかにもつて王にたてまつる。
その時に、大王、ショウを食し、漿を飲んで、水を求めて口を漱ぐ。(註釈版、八七)

⇒ 頻婆娑羅王のお妃、韋提希が身をきよめ、身体に酥蜜 (乳酥に蜂蜜)をショウ(麦をひいた粉)にあわせてぬり、瓔珞の中に葡萄の汁をいれて、頻婆娑羅王にあげていた。

🟨口を漱ぎをわりて合掌恭敬し、耆闇崛山に向かひ、はるかに世尊を礼して、この言をな さく、
「大目犍連はこれわが親友なり。願はくは慈悲を興して、われに八戒を授けた まへ」と。時に目犍連、鷹・隼の飛ぶがごとくして、疾く王の所に至る。日々にかくのごとくして、王に八戒を授く。
世尊また、尊者富楼那を遣はして王のために法を説かしめたまふ。
かくのごときの時の間に三七日を経たり。王、ショウ蜜を食し、法を聞くことを得るが故に顔色和悦なり。(註釈版、八七一八八)

⇒ 頻婆娑羅王は釈尊のいる耆闍崛山にむかって、親友の目連を遣わして、八戒斎(在家信者が出家者同様に戒をたもつこと)を授けてくれ、とお願い。釈尊はその願いを聞き入れ、目連と富樓那を遣わして、受戒と説法を聞き、顔色和悦であった

⇒ 目連は神通力第一、富樓那は説法第一の弟子として有名

⭕頻婆娑羅王:古代インドマガダ国の王。王舎城に住み、仏教信者となって、釈尊とその教団を外護した。彼は王舎城で托鉢し、修行している出家直後の釈尊の姿をみて感動し、財産を与えて出家を止めさせようとしたと伝えられる。
(岩波仏教辞典「頻婆娑羅」)

⭕頻婆娑羅は釈尊の姿と志に心を打たれ、「さとりを開いたら、必ずここへ戻ってきてください」とお願いします。
お釈迦様は「必ず戻ります」と約束をしました。釈尊はその約束を守り、さとりを開いた後、王舎城に戻ったことから、初期の釈尊のグループは、この王舎城近郊で拡大しました。
 (釈徹宗『「観無量寿経」を開く』 26 頁) ※図表②
















     【終了】