🟨②六通俱生・及分別起【十大煩悩の定義〖成唯識論〗】貪と瞋と痴と慢と我見と辺見という六つの煩悩は、分別起と俱生起の両方に共通している【信心決定した後も残る煩悩】【令和6年01月05日】
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🌍️✨〖レジメ資料〗2️⃣【六大煩悩と十根本煩悩】における定義について
 
①貪(とん)➡️ この世のあらゆるものに執着して、苦しみを生み出す働き。
🌟人間の果てしない執着「有と有具とに執着して苦しみを生む」
 
②瞋(しん)➡️ 自分の気に入らぬものに対する怒り。
🌟気に入らぬもの「苦と苦具とを憎恚(ぞうい)して、不安と悪行との拠り所となる」
 
③癡(ち)➡️ 道理と事実とに対して、迷いの闇であり、一切の煩悩の拠り所となる。
🌟無常・苦・無我・空・因果の道理という真実を理解して納得が出来ない心の働き。
 
④慢(まん)➡️ 慢心・高慢な心で、何とかして己れをたのんで、他と比べて、自分を上位に置こうとする。
🌟「己れを恃(たの)んで他において高挙して、苦しみを生む」心の働き。
 
⑤疑(ぎ)➡️ 真理を疑う心
「諸々の諦と理とにおいて猶予する」心の働き。
🌟「諦」とは四聖諦の教え「理」とは真理、即ち因果の道理・縁起・空の真理に対して疑心を持つこと。
 
⑥悪見➡️ 自我意識に基づいたものの見方。真理を理解しない自我中心の見方。
 🌟「諸々の諦と理において、顛倒推度する染の慧」
真実は無常・苦・無我・空・因果の道理であるのに、自我意識を離れないので「顛倒」つまり、物事を逆さまに見て、逆さまに感じ受けとり、逆さまに考えてしまう。
 
🟩🟨【悪見を五つに開いたのが、以下の煩悩】五つに開くことによって、六大煩悩が、十大煩悩となる。
 
⑥我見(がけん)➡️ 薩迦耶見(さつがや)・有身見(うしんけん)とも言われる。
🌟不変常住の自我と、自我の所有物への愛着を軸にした見方。そこを軸にするから、感じ方も見方も行動の仕方も狂ってくる。
 
🌟『成唯識論』「第九」の煩悩を説明するところでは、
「薩迦耶見(さつがや)を上首する百二十八の根本煩悩」とある。
 
🌟我と自分の所有物に対する執着
 
⑦辺見(へんけん)➡️ 有無の見、常見と断見の見方。偏ったモノの見方
 
⑧邪見(じゃけん)➡️ 因果の道理を認めない、否定する、誹謗する
 
⑨見取見(けんしゅけん)➡️ 仏教以外の見方や考え方を真実と思い込み、それに執着する見方。
🌟「一切の闘争の拠り所となる」
自分の主義や主張を反省することなく、絶対化するところから、生まれるのは争いだけである。
 
⑩戒禁取見(かいこんしゅけん)➡️ 間違ったしきたりや、伝統、苦行、迷信にこだわる心の働き。
🌟間違った戒律と、それに従った生き方を正当と思い、それによって解脱に至れると執着する悪見をいう。
🌟そこには何のプラスにもならない「無利の勤苦」があるだけ。
 
「疑後三見(ぎご:さんけん)
 唯分別起(ゆい:ふんべつき)、
 六通倶生(ろくつう:くしょう)
 及分別起(きゅう:ふんべつき)」 
     【成唯識論〖六巻〗】
 
🟥🟦【成唯識論での定義〖原文〗】
🟩貪 ➡️ 有と有具とのうえに染著するを性となし、苦を生ずる
を業となす
 
🟩瞋 ➡️ 苦と苦具とのうえに憎恚するを性となし、不安と悪行との所依たるを業となす
 
🟩癡 ➡️ 諸の諦理とのうえに迷闇なるを性となし、一切の雑染が所依たるを業となす
 
🟩慢 ➡️ 己れをたのんで他のうえに高挙するを性となし、苦を生ずるを業となす
 
🟩疑 ➡️ 諸の諦理のうえに猶予するを性となし、不疑の善品をさえぎるを業となす
 
🟩悪見 ➡️ 諸の諦理のうえに顛倒するを性となし、苦を招くを業となす
 
🟩我見 ➡️ 五取蘊のうえに我、我所と執する。一切の見趣が所依たるを業となす
 
🟩辺見 ➡️ 五取蘊のうえに断と常を執する。中道(道諦)と出離(滅諦)とをさえぎるを業となす
 
🟩邪見 ➡️ 因果と作用と実事とを謗する
🔷作用→ 未来世はない、など。
🔷実事→ 悟った人はいない、など。
 
🟩見取見 ➡️ 諸見のうえに執して最勝なりとなして清浄を得る。一切の闘争の所依たるを業となす
 
🟩戒禁取見 ➡️ 諸見の戒禁のうえに執して最勝なりとなして清浄を得る。無利の勤苦が所依となして業となす
     【終了】