6️⃣🟪🟨【2023年11月04日 (土)】〖最終回〗
【市民仏教講座】
テーマ:歎異抄を読む
講題:第十七条を読む
講師:相愛大学人文学部准教授
   井上 陽 氏
会場:相愛大学学生厚生館
 
🌟『歎異抄』第十七条
🟨【原文】
辺地往生を遂ぐる人、遂には地獄に堕つべしということ。この条、何の証文に見え候ぞや。学生たつる人の中に、言い出ださることにて候なるこそ、浅ましく候へ。
経論・聖教をば、いかやうに見なされて候らん。信心欠けたる行者は、本願を疑うによりて、辺地に生じて疑の罪を償いてのち、 報土のさとりを開くとこそ、受けたまわり候へ。信心の行者、少なき故に、化土に多く勧め入れられ候を遂に空しくなるべし候なるこそ、如来に虚妄を申しつけまいらせられ候なれ。
 
🟥学生だつるひと➡️ 学者ぶった人
🟥むなしくなる➡️ いたずらごとになる。むだになる。
🟥如来の虚妄を➡️ 釈尊が嘘いつわりをいわれたと取り沙汰する、という意。
 
🟩【現代語訳】
辺地〔といわれる方便の浄土〕に往生する人は、結局は地獄に堕ちる、ということについて。
このことは、どこに〔その〕証拠となる文があるのでしょうか。〔これは〕学者ぶった人の中から、言い出されたと聞きますが、あきれた話です。 [このような人は]経典や祖師方の書かれたもの(聖教)をどのように読まれているのでしょうか。
信心の欠けた念仏者(行者)は、阿弥陀仏の本願を疑うことにより、方便の浄土(辺地)に往生し、〔その疑いの罪をつぐなった後〕真実の浄土において、さとりを開くと、うかがっております。
本願を信じて念仏するもの(信心の行者)が少ないので、仮に方便の浄 土に多くのものを往生させておられるのです。それが結局、意味のないことであるようにいうのは、それこそ〔浄土の教えをお説きくださった〕釈尊が嘘いつわりをいわれたと申しあげておられることになるのです。
 
6️⃣【講義メモの走り書き】
🔶では、知性の問題はどうなるのか?これだけ頑張ってきたのに、というのがあると思います。
 
🔷生きること、頑張ることに我々は一生懸命なのです。私はこれだけ頑張ったのに!といいたいことが山ほどある訳です。
 
🔶たとえば、宗教という中にあったら、本当に役に立たないのか、どうかについて、まことに面白い理解をしているなあ、という理解をしています。
 
🔷次の、五番目のところ、理事無礙から事事無礙へ、
 
🔶これは戦後、鈴木大拙が表しているところで、大拙は自分に戦争責任があると実は分かっていた。
仏教の教えを元にして、民衆を自分の書いたものによって、戦争に巻き込んでいったという自覚があるのです。
 
🔷その後で書きあらわしたのが、
これで、1948年、戦後3年後の話です。
 
🔶この理事無礙、事事無礙というのは、華厳経に説かれている教えですが、それを読んでいきます。
 
🌟【資料⑨】
鈴木大拙 (1963a) 「戦争―人間存在佛教」『鈴木大拙・全集九』(東京:岩波書店) 420-421. (初出は1948)
 🟨「佛教 ― 殊(こと)に華殿の世界観は、大乗教の頂点を行くもので、その主張は理事無礙、事事無礙である。理事無礙は佛教に限らず、汎神論一般では、そのように説くのであるが、事事無礙観に至りては、佛教の特徴である。」
 
🔷この事事無礙というものと、阿弥陀仏の浄土について、重ね合わせていきます。
 
🟨「そうして、これで正しき世界観が樹立せられ、唯に実在の説明がつくのみならず、人生観として、またよく吾等人間としての集団生活に指針を与えてくれるのである。事事無礙観を十分に会得したいと思う。
 
🟨理は、普通・一般・究極原理、又は至上神の義である。
🟨事は、これに対する具体的個の実在である。
🟨理を一とすれば、事は多である。
🟨無礙は融通無礙で、相互の間に何等の障壁のないこと、彼が此で、此が彼と云うことである。
🟨一即多、多即一である。
🟨よく佛教は無我を説くと云うが其の通りで、無我でなくては融通無礙にならぬ。
 
🟨我は何か固いもので、他から、そこに這い入って来ようとするのに抵抗する。これは空間的にも時間的にも云へることである。
 
🟨固いものを相互に持って居る限り、何かと云ふと衝突するに決まって居る。衝突すると、どちらか一方が破滅する。
 
🟨これを人間的に見ると、一は勝って、他は負けたのである。
 
🟨ところが、負けたものなら、それで勝者の独舞台かと云ふに、個我ある限り、勝者の中に分裂を生ずる。
🟨勝者は自分の中に相手を作って、又、相闘争する。」
 
🔶つまり、事事無礙の中で、鈴木大拙がいっているのは、これも二項対立の世界を言っている。
 
🔷Aか、Bか、いつまでも衝突をしている。
ここから、飛ばして、
 
【以下は省略】
🟨これは限りなく続けられるのである。佛者はこれを修羅の巷と云って居る。この巷は個己意識の中にも見られ、集団生活内にも見られ、複合集団内にも見られるのである。
🟨しかし人間的意識のない実在中では、個我の観念もなければ、従って優劣・勝敗・是非・善悪の価値観もないので、風が吹いて木が倒れ、水が出て、崖が崩れ、春が来て花開き、冬至りて雪ふるままに、個個の事実が理の上に円融無礙して行くのである。
🟨彼等には自己と他己との世界をそのままにして、無我であるから、直ちに理の世界に通じて行く。それで、そこには生存の問題はない。
🟨人間世界になると、理事無礙は実在の世界、そのままだと意識して分別して、そこに集団生活の基準と目標と理念を定めて行こうとするのである。
🟨つまり、人間は事の有限性を自覚し、その自覚の上に理の絶対的無限性を体得せんとするのである。此の体得のところに理事無礙が展開する。しかしこれだけでは、まだ行為的なものが実現して来ないのである。事事無礙に突入せねばならぬ。」
 
🔶【ここから読まれる】
 
🟨「事事無礙というのは、個個の自己がその個たる所以を全うしながら、そのままで、 他己と円融して無礙であるというのである。
これは理事無礙界からの飛躍である。」
 
🌟【以下は読まずに省略】
🟨理事觀からは論理的に引き出せぬが、この地盤がないと事事無礙に徹する訳には行かぬ。 論理のつながりがあるようで無い。事事無礙は霊性的自覚の世界である。
🟨事のうちに理をおかずに、事そのまま、その無礙を認覚するのであるから、知的・分析的ではないのである。
🟨感覚や知性の世界、即ち吾等の直接経験世界を少しも毀損することなしに、霊性的自覚の世界が、いって見れば、その上に加わるのである。これが事事無礙である」
 
🔷この二項対立を越えたところに、円融したところである。
 
🟨「事事無礙の場では、一一の自事が一一の他事に、そのままで円融し、無礙であると云ふのであるから」
 
🔶ここが面白いところであります。
🔷ここを超えてしまったら、二項対立の場合は、Aか、Bかの場合です。
🔶争って、Aが、勝てば、Bは負けるし、そこを越えた世界は、AはAのまま、BはBのまま。こういうふうに存在しますよ、ということを、ここでは言っている。
 
🔷事事無礙の世界は、そういう世界である。決してここを越えたからといって、AもBも消えたのではなく、AはA、BはB、残っていくのが、この事事無礙の世界というように大拙は理解をしています。
 
🔶つまり、知性というのは決して無駄にならない。知性は知性として持ったところに、それを越えたところに知性は知性として、真の知性として、存在する。
 
🔷ここを親鸞聖人は解き明かされたのではないかな、と思う訳です。

🔶このあたりは、近現代において、議論の的になり、問題になったようです。
 
🔷近現代というのは、それまで中心になっていた宗教を公共の場の外苑地域に置き換えた。もしくは、外側に追いやっていくのが近現代のあり方です。
 
🔶そうせざるをえない部分があるのですけど、その中で我々の日常というものと、宗教をどう捉えていくのか、というところを、マックスウェーバーが、面白い見解を示しています。
 
🔷通常は職業として知られている学問ですけど、『仕事としての学問・仕事としての政治』講談社学術文庫では、 
🟨【六、知性の行方】
🌟【資料⑩】「知性の犠牲」 (マックス・ウェーバー著・野口雅弘訳 (2018) 
 
🟨六、知性の行方
「非合理であるにもかかわらず、ではなく、非合理ゆえに我れ信ず。ポジティーフ 「知性の犠牲」という、こうした達人的な行いの能力は、実定的な宗教人の決定的なメルクマールです。
🟨そして、宗教人にとって「知性の犠牲」がメルクマールであるということ、この自体を暴露するのは、やはり神学なのです。
🟨こうした事態が示すのは、神学にもかかわらず(というより、むしろ神学のために)という価値領域と、宗教的救済という価値領域の間の緊張は架橋不可能だということです。」
 
🔶宗教も非合理だと片付けてしまう訳です。そこにいくためには、知性を犠牲にする、という言葉を使っております。
 
🔷宗教人にとって「知性の犠牲」が、メルクマールであるということ、この自体を暴露するのは、やはり神学なのです。
 
🔶これは、我々学問の世界でいうならば、私は仏教という立場に立つのですけれども、それに対して、神学、これは真宗学といってもいいでしょう。
 
🔷仏教学と真宗学とは、仲が悪いのです。
🔶こうした事態が示すのは、神学にもかかわらず(というより、むしろ神学のために)という価値領域と宗教的救済という価値領域の間の緊張は架橋不可能だということです。
 
🔷まさに僕が言っていることを言っているのです。つまり、仏教学、あくまでも信仰とは距離を置いて、あくまでも文献学的には、どこまで明言が出来るか。
 
🔶真宗学という立場に立って、これは無理なのです。何で無理なのかというと、話をすることは無理ですよ、とマックスウェーバーは言っているのです。
 
🔷つまり、仏教学と真宗学の人間は話をすることは出来ません、と言っている訳です。
 
🔶それは目指しているものが全く違うからです。僕らから見ても、腹が立つのです。
 
🔷真宗学から言われて、
「これが仏教だ!」といわれても、「おい、ちょっと待てよ、何をもって仏教というのか、もうちょっと言ってみろ!と思ってしまう。
 
🔶僕が仏教学で言っていると、
「お前が言っているのは真宗学じゃない!それは異安心だ!」と言われる。否定をされる。折り合うはずがない。
 
🔷本当に折り合わないのです。そこのところを知っていないといけない。そういう研究者は今でもいます。ある意味、幸せな人だと思いますけれども。
 
🔶続いて読んでいきます。
【資料⑪】
🟨◆「知性の犠牲」 
② (マックス・ウェーバー著・野口雅弘訳(2018)『仕事としての学問・仕事としての政治』講談社学術文庫
 
🟨「知性の犠牲」を、弟子が預言者に、信者が教会に差し出す。
これだけが正当なことです。かなり沢山の現代の知識人が、保証された本物の古いものを心の中にそなえつけたい、という欲望をもっている。
🟨そして、 その時、そうした古いものの中には宗教が含まれていることを思い出す。 
🟨ところが、彼ら知識人は、かつて一度も宗教をもったことがない。
🟨その代わりに、世界中のあらゆる国々から聖人像のようなもので、お遊び半分で据えつけられた一種の礼拝堂を代替として飾り立て、あるいは、ありとあらゆる種類の体験の中に代用品を作り出す。
🟨そして、知識人たちは、そうした体験に神秘的な神聖さの所有という威厳を付与し、それをもって本のマーケットに売り歩きに行く。
🟨こんなことで新しい預言が誕生したことなど、ただの一度もありません(かなり多くの人にとって、この光景は感じの悪いものでしたが、あえて繰り返しておきます)。🟨これは、ただのペテンか、自己欺瞞です。
 
🔷ここで言っていることは、僕は仏教者の立場で言っていくならば、
「じゃあ、本当の信仰とは何か」と僕が私の立場から、言い始めて、
「ガンダーラから出土した仏像をもって、これこそが仏様ですよ!これを礼拝しましょう!」といったら、それは単なる似非(えせ)宗教になってしまう。
 
🔶これは学者として、本当の宗教とは何かとやってはいけない。
研究に対して、誠実でなければならない。それ以上を生み出してはならない。
 
🔷言い換えるならば、学問と信仰というものは、相反するものですよ、ということを、この場でも言っています。
 
🔶もし信仰という場に立っていけば、学問を捨てなさい。でも先ほどの大拙の理解はそうではない、という。
 
🔷それを越えたところに真のブッダ世界があって、そうすると、どの世界もずっと、それが存在しているという理解を鈴木大拙はしている。
 
🔶ウィリアムジェイムズは、
【資料⑫】
🟨◆ウイリアム・ジェイムズ著・枡田啓三郎訳『宗教的経験の諸相』上、岩波文庫に言われている。
 
🔶この人が宗教心理学という分野を開いたといっても、おかしくない。興味ある存在であるんですけど。
 
🟨「大部分の宗教的人間は、単に自分たちばかりでなく、神が現前している存在者たちのすべての宇宙が、神の慈しみの深い御手のうちに安らかに守られていることを信じている・・・(中略)・・・。
 
🟨たとえ地獄の門が現れていようと、この世の事象がどんなに不運で、不利なものに見えようと、私たち皆が救われているような、ある感覚が、ある次元が存在することを彼等は確信している。
 
🟨神の存在は、永遠に維持されるべき、ある理想的秩序が存在することの証左である。
・・・(中略)・・・
🟨古来の様々な理想は、必ずや、どこか他の場所で、見事に成就されるはずであり、したがって神の存在するところでは、難波と崩壊とは、絶対的に究極的な出来事ではない。
 
🟨神に関する信仰の歩みが、このように更に踏み出される場合にのみ、そして、はるか遠い未来の、客観的帰結が予言される場合にの み、宗教は最初の直接的、主観的な経験から完全に開放され、現実的な仮説を活動させるのだ、と私は思う。」
 
🔶もう一度、大拙に戻って、
 
🌎️【資料⑬】◆鈴木大拙(1963)
「霊性的日本の建設」『鈴木大拙全集八』(東京:岩波書店)126-127. (初出は 1945)
 
🟨「それから今度は、知性自らが何であるかを十分に検索しなければならぬ。この検索の結果は、既述の如く、必ず知性そのものの否定にまで突進することにならざれば、止まないのである。」
 
🔷これは我々、研究をやらねばねらない一つの戒めです。
🔶自分がどれだけ研究を進めていったとしても、研究というのは、どこかで崩してしまわないと、しがみついてしまう、ということになる。
 
🔷ずっと研究をやっていると、最終的には、わからないという状況にしかならない。
🔶何か分かったということよりも、研究を続けていって、見える世界は、わからない世界しかない。
 
🔷続けて、
🟨その時、霊性的自覚なるもの がある。この自覚で人間の意識構造は本来の使命を達することになる。 
🟨即ち知性は知性として、その処を得て、「無意識」は「無意識」としての、しかも知性と霊性とに照らされて、或は大智の面に、或は大悲の面に、その動きを自主自由的に発動せしめ得るのである。」
 
🔷おそらく「無意識」というのは、親鸞聖人の凡夫、愚人として南無阿弥陀仏として称える、本願他力を理解をする部分と重なる部分ではあるのですが、
 
🟨「無意識」は「無意識」としての、しかも知性と靈性とに照らされて、或は大智の面に、或は大悲の面に、その動きを自主自由的に発動せしめ得るのである。」
 
🔶つまり、仏教学でも道半ばですね。これをもっと越えたところに、真の宗教的世界がある。
🔷華厳経を元にした大拙の言葉では、事事無礙の世界がある、という理解だと思います。
 
🔶立ち返って『歎異抄』第十七条にかえってみるならば、対立構造的に捉えてみては、ここで述べられていることが見えてこない。
 
🔷「辺地往生を遂ぐる人、遂には地獄に堕つべしということ。この条、何の証文に見え候ぞや」という文言は、それを越えた世界、阿弥陀仏に救われた世界を表しているのではないか、ということを味わってみた訳です。
 
🔶謝らなければならないのは、今日は有り難い話ではなくて、スミマセンでした、というところです。
 
🔷でも、それは親鸞思想のごく一部しか、語っていないような気がします。
🔶有り難がらせることに、私は人を騙している感覚がどうしてもあります。
 
🔷有り難いと思わせているところに人を騙している、詐欺を行っていると、僕は自分に対して、それは出来ないところがあります。
 
🔶あくまで私が研究というものをやっていることを通して、そこで感動的なものを得るのです。
 
🔷こんなことを考えていたのか!という話しか、私には出来ません。有り難い話ではなかったのは、申し訳ないと思っております。
     【終了】
 
🌟【以下は時間がないため省略】
 
🌃【七】仏恩深きこと、その際もなし
🌎️【資料⑭】◆『末灯鈔(2)』親鸞聖人御消息(教学伝道研究センター編)(2004)『浄土真宗聖典:註釈版 第二版』(京都: 本願寺版)749)
 
🟨【原文】
仏恩の深きことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、 弥陀の御誓いの中に、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議の楽しみにあふことにて候へ。仏恩の深きこと、その際もなし。 いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりを開かんこと、 仏恩よくよく御案ども候ふべし。
 
🌎️八、仏性からの視座
🟨【原文】
資料⑮◆『教行信証』信文類(教学伝道研究センター編 (2004) 『浄土真宗聖典:註釈版 第二版』(京都:本願寺出版)236-237)
 
🟩『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。何をもつての故に、大慈大悲は常に菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。
一切衆生、遂に定めてまさに大慈大悲を得べし。この故に説きて一切衆生悉有仏性といふなり。
大慈大悲は名づけて仏性とす。
 
仏性は名づけて如来とす。大喜大捨を名づけて仏性とす。何をもつての故に、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つるにあたはず、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。諸の衆生、遂にまさに得べきをもつての故なり。この故に説きて、一切衆生悉有仏性といへるなり。
大喜大捨はすなはち、これ仏性なり、仏性はすなはち、これ如来なり。仏性は大信心と名づく。
 
何をもつての故に、信心をもつての故に、菩薩摩訶薩は即ちよく檀波羅蜜乃至、般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は、遂に定めてまさに大信心を得べきをもつての故に。この故に説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。
仏性は一子地と名づく。何をもつての故に、一子地の因縁をもつて
り。大喜大捨は、即ちこれ仏性なり、仏性は即ちこれ如来なり。
 
仏性は大信心と名づく。何をもつての故に、信心をもつての故に、 菩薩摩訶薩は、すなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。
 
一切衆生は、遂に定めて、まさに大信心を得べきをもつての故に。この故に説きて、一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は一子地と名づく。何をもつての故に、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。
一切衆生 は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一 切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり」と。
 
🟩【現代語訳】
『涅槃経』に説かれている。「善良なものよ、大慈・大悲を仏性というのである。なぜかというと、大慈・大悲は、影が形にしたがうように、常に菩薩から離れないのである。すべての衆生は、ついには必ずこの大慈・大悲を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大 慈・大悲を仏性といい、仏性を如来というのである。
また大喜・大捨を仏性というのである。なぜかというと、菩薩が、もし迷いの世界を離れることができなければ、この上ないさとりを得ることはできない。あらゆる衆生は、ついには必ずこの大喜・大捨を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大喜・大捨は仏性であり、仏性はそのまま如来である。
また仏性を大信心というのである。なぜかというと、菩薩はこの信心によって、六波羅蜜の行を身にそなえることができるのである。すべての衆 生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大信心は仏性であり、仏性はそのまま如来である。
また、仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、全ての衆生を分け隔てなく、平等に眺めることができるのである。
すべての衆生は、遂には必ずその位を得るから、全ての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である」
     【終了】