2️⃣🟩🔶【2023年12月03日 (日)
佛乘寺報恩講|慈雲山佛乘寺
【報恩講】午後2時より
講師:大谷大学学長、真宗大谷派宗円寺住職 一楽 真 師
 
🌟一楽先生より、アップする許可を頂きましたので、内容を皆さんと共に共有したいと思います。
 
✡️【講義の走り書き〖続き2️⃣〗】
 
🔷報恩とは、信心を獲ることです。信心獲得すること。信心とは何かと言うと、私が、どう生きるかか明確になることです。
 
🔶信心という言葉は、どうしても手垢がついております。私が信じておるとか、あの人は信心深いとか、信心するとか、全部、自分から始まっておりますが、実は教えの力によって、目が覚めることなのです。
 
🔷「ああ、そうだったのか!」と気がつくことです。親鸞聖人は信心という言葉も大事にされますが、「信知」という言葉も使っておられます。
 
🔶「まことに知んぬ」本当に知りました。現代語でいえば、ハッキリと分かった!ということです。
何がハッキリと分かるのか?
 
🔷大きく二つです。自分が何者か?一言でいうなら、凡夫だということです。煩悩具足の凡夫、これが分かった。これは難しいことです。どうせ私は平凡な人間です、みたいなもの。
 
🔶人と比べて、上でも下でもない、そんな意味でない。凡夫、これを親鸞聖人は、凡愚とも言われています。
 
🔷どういうことかというと、縁次第で、どうにでもなるようなものを凡夫というのです。虫一匹殺さないような顔をしていても、状況次第では、どんなひどいことでもしでかしてしまうような根性です。
 
🔶皆さんは、お子さん、お孫さんがおられるから、分かると思いますが、お孫さんは大事です。
ところが自分の調子が悪いと、孫が寄ってきても面倒臭いという根性が起きる。鬱陶しく感じることもあるかも知れません。
 
🔷可愛い、可愛いだけでは済まない。それぐらい、自分中心で、自分にもし、不利益なことが起きたら、害が及ぶことがあれば、血縁関係でも切れていくのではないですか?

🔶利用出来る間は付き合うけど、利用が出来なくなると、あそことはお付き合いをしない!となる。

🔷絶縁ということがある。念のために言っておきますが、縁と言うのは切ったり、繋いだりは出来ないのです。

🔶切ったというなら、切ったという縁が残りますから、あそことは付き合わないという壁を作ったという、また縁になりますから。

🔷切ったという縁は残るのです。だから、縁次第でどうにでもなる、これが親鸞聖人が見た人間観であります。これは歎異抄に有名なやりとりが、唯円房とありますね。

🔶「人を千人殺してみよ、そしたら、往生は一定である」
お弟子の唯円さんはびっくりです。私は千人はおろか、一人も殺すような器量もありません、と答えた。そしたら、すかさず親鸞聖人が仰有ったのは、それは縁次第である。わが心が良いから、殺さないのではない。決して傷つけまいと思っても、傷つけることがあるのだ!と仰有った。

🔷凄い言葉だと思います。唯円さんと親鸞聖人は50歳違います。
このやりとりは、恐らく80歳くらいの親鸞聖人と30歳くらいの唯円さんが交わされた会話だと思いますが、唯円さんは言われたことにびっくりされた。

🔶それに対して出来ません、というと「お前は、縁次第でどんなことでも、しでかす危うい人間だと知らないのか!」と教えて下さったのです。

🔷でも親鸞聖人は「私もそうだ!」というところにおられるのです。「私は仏教を勉強しているから、間違いを犯しません」と言った方ではありません。

🔶私も縁次第で、どうにでもなる。晩年に親鸞聖人は善鸞様を義絶するということがある。
ここだけを聞いて「親鸞聖人は自分の息子も教育が出来ないのか!」という人がいます。ある意味、そうです。

🔷息子であるから、といって、意のままにならない。息子どころか、自分の根性ですら、実は意のままにならないのではありませんか。

🔶腹を立てんとこう!と決めたら、一日生きられますけど、そんな、うまく過ごせますか?縁次第です。
今はここで腹を立てる人はおられません。仏様のお陰です。

🔷例えば、私が話を夕方5時になっても、6時になっても、やめなかったら、ええかげんにせー!と皆さんは腹を立てると思います。

🔶お寺だから、腹を立てない訳ではない。縁次第で腹を立てるのです。今は、たまたま休火山で、縁次第で爆発しますよ。

🔷そういう自分のことが、ハッキリと分かりました!というのが、信心の第一番目なのです。

🔶逆に言えば、親鸞聖人は比叡山では、腹を立てないようにしておられた。修行なされて、腹を立てることは痛ましいと思って、やめます、となった。

🔷しかし、修行中でも妬みが起きて、あいつに負けた!と妬みの心が沸くのです。
逆に俺はアイツよりも凄い!と威張る心も出てくる。

🔶縁次第で、どんなことでも、しでかす、危ういのが自分だと知らされる。でもそんな危うい人間が導かれて生きていく道がある。

🔷それが本願によりなさい。阿弥陀仏の本願に生きて行きなさい。これが呼び掛けでありました。
本願とは念仏といってもいいですが、こうでなければ、道を誤るということがハッキリと分かった。

🔶古い言葉では、二種深信と言われますが、二種類あるのではなく、同じことなのです。
自分は凡夫だと分かった時に、
「ああ、教えられた通りに生きていかなければいけないなあ。阿弥陀仏に導かれて生きていかなければいけないなあ」ということも、ハッキリするのです。

🔷要するに、どちらもある意味、これは自分のことです。
自分が凡夫であること、それが助かる道、傷つけあうことを越えていく道は、こっちしかないと分かる。

🔶二つのことを信じ込む、という話とは違う。二種深信という言い方が難しいのですが、これがハッキリと分かったと言われます。

🔷親鸞聖人の御言葉は、どこを切っても二種深信で貫かれておりますけれども、表に言葉が出ていない場合はあります。

🔶歎異抄の最後の言葉に、
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり。さればそくばくの業を持ちける身にてありけるを」

🔷そくばくを敢えて漢字で書くと、若干と書きます。若干ならば、少ないように聞こえますが、数が決まっていないというのが、元々の意味です。

🔶会社で今年、採用人数は今年、若干名です!二、三名と思いがちですが、数が少ない方でも、多い方でも決まっていないのが、若干です。

🔷そこばく、と読む時は、数えきれないほどの業を持っている私。
業というのは行いと、その結果。
例えば、ここに来られたということは、ある意味、選び捨てて、ここに来られた。

🔶これを業を作ったとは言いませんけど、しかし、選ぶという選択するということが、行為をすることに必ずくっついてくる。

🔷日曜日なのに、家族をおいてここにくる、とは、家に帰ると「何でそんな暇があるのか」といわれるかも知れない。

🔶何かを選ぶということは、次のことに繋がってくる。今日は身体が、辛い中で一座、聴聞していこう!とすると、来たら、来ただけのことはあるかも知れない。

🔷それは大事なことに出逢えたということがあれば、来てよかったなあ、ということにもなります。
何かを選ぶということは、必ず次のことに繋がることになる。

🔶そういう意味では、良い悪いは計れない。しかし、その繋がり、悪い意味で言うと、しがらみ。
その中で身動きが取れにくくなっていくのが、歳を重ねていくことではないでしょうか?

🔷ずっと良い人間だと言われてきた人には、中々、本心が出せなくなってきます。それも、やはり業を作るのです。関わりを持たない、ということは、これも業を作るのです。

🔶右に行くか、左に行くか、どちらかに行くと、どちらかを捨てないといけない。どっちにも進めなかったというのは、どっちも進めないという業を作ることになります。

🔷私達が一瞬一瞬、生きているということが、どれだけの業を作っているか、ということ。
善いことをしたことですら、また次の影響を及ぼして来ることになる。

🔶そくばくの業を持ちける身にてありけるを助けんと思し召したる本願の忝なさよ。そういう私だからこそ、阿弥陀の教えによって、導かれていくことが明確になる。

🔷これは同時でして、私は、何とでも出来る。処理は自分で出来ると思っている間は、仏法が要らない。仏法はなくても大丈夫。

🔶これをたとえると、私に教えて下された先生がこのように教えて下さった。

🔷仏法とは、水を飲むようなものだ、渇きを癒してくれるようなものだ!水分がなかったら、私達は命をつなげられない。

🔶ところが今、全然、喉が乾いていなければ、どうですか?
ここに、どれだけ美味しい水が置いてあっても、水は要らん!となる。

🔷仏法も同じで、自分自身が飲まなければならない。それを頂いて生きていかなければいけない。
飲む必要がないと思っている人には、仏法は要らない。

🔶だから、仏法の言葉が難しいのではなく、私は要らないという人間には、どれほど仏法を易しく語っても、
「ああ、そうですか。間に合っています!」という。

🔷これは、一楽ぐらいではなく、お釈迦様に直接、言った人がいる。

🔶お釈迦様は「私は人間にとって、大事なことに目を覚ましました」といわれると、
「ふーん」と言った人がいるそうです。

🔷お釈迦様がいるから、といって、教えを聞かせて下さいとは、ならない。
「ふーん、あんた覚ったのか?さいなら」こういうことが起きるのです。

🔶覚ったと聞いて、人間にとって大事な事といくら聞いて、私は知っていると聞いても、求めていない人は教えを聞きませんよね。

🔷だから、浄土真宗の教えも難しいと言われますけど、それは自分は凡夫、愚かであるという自覚がないところには、
「私は仏法がなくても、ちゃんと生きていけますよ。ちゃんとやれていますから、大丈夫です!間に合っています!」という間は、全然、届かない。

🔶愚かだと気が付い時に、この教えの大切さが始めて頂けることになります。
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❇️ウィキペディアより引用
✡️【プロフィール】
一楽 真(いちらく まこと・1957年 - )は、真宗大谷派の僧侶、真宗学を専攻する仏教学者である。
石川県生まれ。大谷大学学長、
真宗学科教授。学位は博士(文学)真宗大谷派小松教区第二組宗圓寺住職。真宗大谷派擬講。
所属学会は、日本仏教学会、日本印度学仏教学会、国際真宗学会、真宗連合学会、日本宗教学会。
大谷大学真宗学会『親鸞敎學』発行人。真宗大谷派主催「新宿親鸞講座」講師。
 
【略歴】
🟨1957年(昭和32年)石川県小松市にて、一楽典次の子として生まれる。
🟨1980年(昭和55年)大谷大学文学部真宗学科を卒業する。
🟨1985年(昭和60年)大谷大学大学院文学研究科博士後期課程を満期退学する。
🟨2005年(平成17年)石川県小松市高堂町にある「宗圓寺」の住職を父より継承する。
🟨2009年(平成21年)4月1日、大谷大学教授に就任する。
🟨2018年(平成30年)3月23日、学位論文「親鸞の救済論」により、大谷大学から博士(文学)の学位を取得する。
 
【著書】
🟩『大無量寿経講義-尊者阿難、座より起ち-』文栄堂、2004年
 
🟩一楽 真 講述『第37回 金沢教区同朋大会講義録』 真宗大谷派金沢教区教化委員会、2005年。
 
🟩『愚禿の名のり』 真宗大谷派名古屋別院教化事業部〈東別院伝道叢書 30〉2007年。
 
🟩『親鸞聖人に学ぶ-真宗入門』 真宗大谷派宗務所出版部、2007年。
 
🟩『この世を生きる念仏の教え』 真宗大谷派宗務所出版部、2008年。
 
🟩『四十八願概説-法蔵菩薩の願いに聞く-』文栄堂、2009年。
 
🟩『親鸞の教化-和語聖教の世界』 筑摩書房〈シリーズ親鸞 第五巻〉2010年。
 
🟩『入出二門偈頌文』聞記-二〇一四年安居次講』真宗大谷派宗務所出版部、2014年。
 
🟩『日本人のこころの言葉 蓮如』創元社、2014年。
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