1️⃣🌍️🌟【2024年01月07日 (日)
10時00分より・芦屋仏教会館
【日曜仏教講座】
講題:三帖和讃(三十六回目)
講師:常見寺住職
   利井 唯明 先生

🌟【講義の走り書き】【前半】
✡️(68)
如来の興世にあひがたく
 諸仏の経道ききがたし
 菩薩の勝法きくことも
 無量劫にもまれらなり
✡️(69)
善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし
✡️(70)
一代諸教の信よりも
 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ
 無過此難とのべたまふ

🔶何時なんどき、起きるか分からない。予測の出来ないことが起きている。しかしながら、我々の命もいつ、どんな終わり方をするか、分からないから、蓮如上人は、油断なく構えなさいと言われております。

🔷この和讃をなぜ三つでセットにしているかと言うと、ここは大経の流通分を示している。
在世の付属、流通をされている。

✡️(30)
阿弥陀仏の御名をきき
 歓喜讃仰せしむれば
 功徳の宝を具足して
 一念大利無上なり
(31)
たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり

🔶付属をなされている。
信心決定するものは、大いなる利益が得られるから、聞かなければならない。その後は、滅後の付属というものがございます。

🔷どうぞ阿弥陀様の教えを聞きなさい。法の益相が説かれている。

🔶善導和讃に
(70)
経道滅尽ときいたり
 如来出世の本意なる
 弘願真宗にあひぬれば
 凡夫念じてさとるなり

🔷これが法益です。末法が来ても、特留此経、百年は留めておく。ここに百年と限りがあるのは、我々の人生を百年といわれているのであって「要は生きている間に聞きなさい」と言われております。

🔶自力の教えは衰退はあるけど、阿弥陀様の他力のみ教えは、衰退がない。無量寿の命をお持ちであるから。

🔷ご和讃では、機の難信を表しております。流通分について、読んでみると大きくは五つの難があげられている。五つのうちに、ここでは七難になっている。

🔶前半の二種は聖道門の難を示している。七種目にいたって、難しいのが浄土真宗の信楽を受持することが難しい。

🔷聖道門よりも、浄土真宗は、もっと難しい。聖道門と浄土門とを比較対象をされて、
「浄土真宗の信心を獲ることは難中の難なのだ!これに過ぎたるはないんだ!」といわれる。難しいことを強調をしていく。

🔶今回は、二つの和讃しか説明は出来ませんが、この二種は聖道門の難をあげている。そして最後の七種目は、浄土真宗の難をあげている。
🔷難は共通するところがあります。それが、
✡️如来の興世にあひ難く

お釈迦様が、この世にお出ましに成ることが難しいなあと言われる。
 諸仏の経道きき難し
 菩薩の勝法きくことも
 無量劫にもまれらなり

🔷和讃の左訓に「世に出でたもうこと難しとなり」この娑婆世界にお釈迦様がお出まし下さったことが大変、稀である、難しいことである。

🔶これは阿弥陀経の中で、六方段の中で、発願の利益が終わって、その後に、お釈迦様が六方の諸仏を褒め称えるように、六方の諸仏方も、またお釈迦様を褒め称えて下さっておられる。

🔷お釈迦様は、この世で甚だ難しい、稀なことを成し遂げられました。

🔶何を褒め称えておられるのかというと、一つは、五濁悪世の中で、悟りを開くということが、どれほど困難なことであるのか。

🔷法蔵菩薩が修行をなさる時は、世自在王仏がおられました。
指導者がいて、悟りを開くのであれば、道筋がハッキリするけれども、お釈迦様は師匠がおりませんから、その中で、五濁悪世の中で、そんな世界において、悟りを開いていかれた。

🔶大変、甚だ稀なことであって、仏様がおでましになって下さったからこそ、私達は、今こうして、仏様の教えを聞かせて頂いております。

🔷これは有り難いことです。これは聖道門だけでなく、浄土門にも通じることであります。

🔶そうした悟りを開いて、更に難しいことをしているのは、一切世間の難信の法を説きたまうこと。

🔷他力の教えを説くことは信じ難いこと。聖道門の教えならば、こうしたら、やった分だけ、あらわれる。論理立てて教えを説いていくことが出来る。

🔶わりと、それでも難しいですけど、一つずつ階段を登るように理が通って、非常に分かりやすい。出来る、出来ないは別にして、分かりやすい教えである。

🔷自力の教えは、自分がやった分だけ、自分の能力を高めていける。

🔶こういうふうにしていきなさいよ、ということを修行の形体をきちんと論理立てていける。だから、分かりやすい。

🔷それに対して、他力の教えとは、如来様が救おうとされる。我々は迷っている自覚もありません。苦しみの真っ只中にいることは、これっぽっちも思っていない。

🔶多くは煩悩を満たせば幸せだという人ばかりの中で、あなたは苦しみの中にいるのですよ、といわれても、救ってほしいとも思っていない。

🔷あなたを救いますよ、と言われても何も響いて来ない。仏の教えを聞こうともしないものに、他力の教えを説くことは大変難しいことなんだ。だから、難中の難なのだ。

🔶お釈迦様がお出ましになって、仏に成られたことも大変、稀なことであるし、難しいことを成し遂げられたことでありますが、更に自力の教えには、とどまらず、他力の教えまでも説いて下さったことは、甚だ大変難しいことであることですね。

🔷更に言いますと、あう、ちぶつ。流通分の中では、このあうという漢字で、値という言葉を言われている

🟩会という漢字は、時間と場所がみつかって会う。会議とか、会合とか。

🟩合とは、これは集合とか、人固まりに合う。ぴたっと合致する。

🟩遇「ぐう」これもあう。たまたまあう。私の意図を介せずに遇う。

🔷遇と値を親鸞聖人は総序で、漢字を使い分けておられる。

🔶元々の御言葉では、値う。ずっとあう、には、この値う。値打ちにあう。

🔷これは、私が小さい頃に、遊びに出掛けると、うちの母親はよくいます。毎回、言っていた。

🔶いってらっしゃい、これも普通にいう。クルマに気を付けや、怪我せんときや。無事に帰っておいでや、といわれる。

🔷これを毎回、言われる。耳にタコが出来て、もう、わかっとる!と反発すると、母親は「本気で帰っておいでや、と思っているのは親だけやで!」と言われた時には、ぐうの音も出ませんでした。
涙が出ました。

🔶自分のことばかりしか、考えていなかった。また同じことばかりを言っている。その時に始めて、車に気を付けや、そんな思いで家を追い出しているのは、親だけやなあ。

🔷そんな時に、ねうちにあうのです。その値【あ】う。今まで聞いていたけど、それまで聞いていなかった。

🔶仏様がお出ましなさったことを当たり前のように聞いている。
しかし、仏様がお出ましなさったお陰で、ようやく聞かせて頂けるようになった。

🔷そう思った時に、仏様に値【もうあ】う。

🔶私のひいひいおじさんが話して下さったことで、数数【サクサク】成仏説。それに対して、誹謗正法です。

🔷誹謗正法を曇鸞大師は、無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法と言われた。
🔶正法を誹謗するとは、どういうことか?
曇鸞大師は、仏様がおられない。
仏様の教えもない。菩薩もなければ、菩薩の教えもない。

🔷私の生き方の中に、仏様がいない、ということ。仏様が素晴らしい教えを説こうが、私には関係のないことだ。私は好きなように生きていく。仏様の生き方を聞いても、私は違います。

🔶菩薩は仏様の教えは、尊い教えですよ、そのようにお説きくださっても、どうぞ好きなように生きてください。

🔷私の人生には、仏様がいないことを誹謗正法というんだ。

🔶それを受けてかどうかは知りませんが、利井鮮妙和上は、数数【さくさく】成仏。
仏様の成仏というのは、親鸞聖人は弥陀五劫の思惟の願は親鸞一人のためなりと言われた。

🔷私のために仏になって下さったんだ。私のために本願を建てられたんだ。

🔶今までは私はずっと仏なんて、知ったこっちゃないと生きてきた。人生を過ごしてきた。仏様に背を向けて。

🔷善導大師という方は、その私を如来様が、救いたいという心を一念一刹那も離れたことがなかった。思わなかったことはなかったといわれる。

🔶源信僧都も、煩悩に眼さえられて、摂取の光明みざれども、大悲ものうきことなくして、常に我が身を照らすなり。

🔷どれだけ私が、そっぽを向こうが、如来様の方は、一瞬なりとも、あなたを外れることはないぞ、とおっしゃる。

🔶その時にはじめて仏様に値うのです。ずっとあなたを照らし続け、ずっとあなたを心配し続け、ちゃんと帰っておいでや。

🔷一瞬たりとも離れることなく、私のことを思い続けて下された、一人一人のための成仏や!とおっしゃった。

🔶お釈迦様が十劫の昔に仏様になられた、という歴史的なことを言われたことではない。

🔷仏様が仏に成られる時は、この私の上で仏に成られる。
それを、利井鮮妙和尚が、数数【さくさく】成仏といわれたのです。

🔶あなたが信を獲た時に、仏様に成られましたよ。一人一人、仏様とは、ずっとおられることになりますな。
🔷常に私を照らして下さる仏様だ、そういう仏様に遇うことを値遇というのです。

それを親鸞聖人が、
🟨如来の興世に値い難く、といわれたのです。たった一行でしたが、しばらく休んでから。
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