1️⃣🌃🌎️【唯識と浄土真宗】〖レジメ資料〗
🟨①唯識と浄土真宗【阿頼耶識の解説〖唯識三十頌〗一頌と二頌】此能変唯三・謂異熟思量・及了別境識・初阿頼耶識・異熟一切種【三蔵〖能蔵・所蔵・執蔵〗三相〖自相・果相・因相】【令和5年12月27日】
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🌟【曽我量深氏・安田理深氏の味わい】
⭕阿頼耶識は法蔵菩薩なり
「如来は我なり。
 されど我は如来に非ず。
 如来、我となりて
 我を救いたもう」
 
「われは法蔵にあらず
 されど法蔵なり」
⭕一人一人の我々の心に、阿弥陀仏が法蔵菩薩となって、菩提心、聞法心となってあらわれてくださる。
⭕如来、我となりて、我を救いたもう。阿弥陀如来は私の中に「南無阿弥陀仏」という六字名号となって入り、まさしく我(われ)と同体にならんとされる。
 
⭕救われるまでの光明の働きを「法(ほう)法蔵」という。そして、救われた後の信心決定の体験を「人(にん)法蔵」という。
一人の法蔵菩薩【真実の信心】が、私の心に誕生したと味わう。【細川巌氏】
 
🌟『唯識三十頌』の阿頼耶識についての解説
✡️『唯識三十頌要講』を参考
🟪『成唯識論』からの玄奘三蔵の解説
🔷三つの〈こころ〉
 【第一頌・第四句】
 
🟨此能変唯三
🟩この能変は、ただ三のみなり
🟧この能変は、ただ三のみである
 
🔷種々の〈我・法〉を造り上げているものは、それは三つの〈こころ〉にすぎないという。
 
🔶ここでは〈能変〉という語で我・法を造り上げるものをとらえている。
 
🔷「三」とは、初能変・第二能変・第三能変をいう。
🟨〈初能変〉とは、第八阿頼耶識
🟨〈第二能変〉とは、第七末那識
🟨〈第三能変〉とは、前六識
 
🔷われわれの周囲には、われわれをとりまいて、無数の事物が存在している。
🔶われわれは、そこから発せられる情報をまず受動的に受容し、その後、能動的に対応すると思っていないだろうか。唯識佛教は、そうではない、という。
 
🔷常識的には、受動的に外部からの情報を受け入れる器官と思われている五官のはたらき自体に、すでに能動性が大きく作用している、というのである。
 
🔶それを第三能変というのである。 太陽も月も星も、山川草木も、そして有情も、森羅万象ことごとくのもの=所変の相は、わずか三の〈こころ〉によって造り出される、と教える。
 
✡️第二頌・第一、二句
 
🟨謂異熟思量
🟩謂く異熟と思量と
🟧それは、異熟識と思量識と
 
🟨及了別境識
🟩及び了別境識となり
🟧及び了別境識とである。
 
🔷つまり前の頌で〈三能変〉という形で紹介された〈こころ〉の具体相が示される。
 
🟩初 能変= 異熟識(第八識)
🟩第二能変= 思量識(第七識)
🟩第三能変= 了別境識 (前六識)
 
🔶〈異熟識〉は唯識の捉える八識の最も根本となる第八識の一名である。
「異類にして熟す」という意味で「過去を背負える自己」である。
 
🔷人は過去を切り捨てて生きることはできない。生い立ちを離れて今の私はない。人格の根底には、過去が生き続け、その過去が現在として熟成している。
 
🔶現在の自己は、過去の集積だともいえる。人は背負い込んだ過去の自己に基づいて、現在の自己を変え、自己の世界を変える。
 
🔷まず第一に、そこから自己が変る。様々の経験を蓄積している人 は、豊かな世界をもっているが、蓄積されていないものは、その世界に現れてこない。
 
🔶第二の〈思量識〉とは、文字通り思い量る〈こころ〉である。
いつも自分を愛し、自分にこだわり、自分を軸とした狭い角度でのみ思考して、行動する。
 
🔷自分の損得、自分の好き嫌いを離れることができない。広い視野に〈こころ〉を開くことができない。何事もすべてのことを自分という小さな枠組みの中に閉じ込めてしまう。
 
🔶精神的な視野狭窄(さく)である。ここで、人もその世界も狭隘(あい)なものに変わってしまうのである。
 
🟨一番根底では、自分の歩んできた過去によって人格性が限定される。それが〈初能変〉。
 
🟨その上で、自己中心的思考によって、更に限界が狭まり、歪曲されていく。それが〈第二能变〉。
 
🟨〈了別境識〉は、対象(境)を明確に分析しながら、認識をする 〈こころ〉である。
 
🔶具体的には、眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)の〈前五識〉と〈第六意識〉(知・情・意)である。
 
🔷知識や教養や趣味嗜好など、その人の持つ人格的傾向が、認知する範囲を限定するのである。それで〈第三能変〉といわれる。
 
🔶この人間理解の大切なことは〈初能変〉と〈第二能変〉は、潜在的な深層の領域のものとすること。
 
🔷つまり、われわれの人格を八層の重層的なものとする理解の角度から見ると、
🟥その中の二の識、つまり、四分の一が深層のものとして捉えられている。
🔷三能変という角度からすると、
🟥実に〈こころ〉の三分の二が、深層のものと考えられているのである。
 
🔶 〈こころ〉を重層的のものとする理解は〈こころ〉を実体視する危険性があるが、理解のための一つの方法である。
 
✡️奥深い人格の底〖阿頼耶識〗
唯識三十頌【第二頌・第三句から第四頌まで】
 
 1️⃣
🟨初阿頼耶識
🟩初のは、阿頼耶識なり
🟧初能変は、阿頼耶識である。
 
🟨異熟一切種
🟩異熟なり、一切種なり
🟧異熟識ともいい、一切種子識ともいう。
 
 2️⃣
🟨不可知執受
🟩不可知の執受と
🟧所縁は不可知の執受(種子・有根身)と不可知の処(器物の世界)であり、
 
🟨処了常与触
🟩処と了となり、常に触と
🟨作意受想思
🟩作意と受と想と思と共になり
🟧能縁は不可知の了別の〈こころ〉である。
🟧常に触・作意・受・想・思の五遍行の心所と共に働く。
 
🟨相応唯捨受
🟩ただ捨受とのみ相応す
🟧受でいえば、捨受(非苦非楽)である。
 
 3️⃣
🟨是無覆無記
🟩是は無覆無記なり
🟧三性(善・悪・無記)でいえば無記である。
 
🟨触等亦如是
🟩触等もまた是の如し
🟧ともに働く触等の心所もそれにつれて、
🟧阿頼耶識と同じ性質をもつ。
 
🟨恒転如暴流
🟩恒に転ずること暴流の如し
🟧恒に激しい流れのように動き続けている。
 
🟨阿羅漢位捨
🟩阿羅漢の位に捨す
🟧阿羅漢の位で阿頼耶識とよばれる性質は捨てられる。
 
🔷初能変を詳説する、ここでは、改めて、
🟦「阿頼耶識」【自相】
🟦「異熟識」【果相】
🟦「一切種子識」【因相】
という、第八識の別名を列記する。
 
🔶名称はそのものの性質や機能を表すものだから、この三名によって表される三面の第八識が、特に重視されていると考えてよいであろう。
 
✡️蔵の三義【能蔵・所蔵・執蔵】
🔷まず第一は〈阿頼耶〉とは「蓄える」「保持する」などの意味の梵語を漢字で音写したものである。
 
🔶その音写語に〈こころ〉を表す「識」という字を結びあわせて、中国では〈蔵識〉と翻訳した。
つまり〈阿頼耶識〉とは 「ものを蓄積し保持する〈こころ〉」ということになる。
 
🔷その阿頼耶=蔵という性質は、第八識の「自相」であるといわれるので、第八識の独自の性質だといってよいであろう。蓄積し保持する性質、人間をその経験の角度から捉えたものである。
 
🔷『成唯識論』に従うと、その「蔵」という性質は、更に三つに分析される。
 
🟨能蔵= 能—阿頼耶識 
      所— 種子 ➡️持種義
 
🟨所蔵= 能—七転識
      所—阿頼耶識➡️受薫義
 
🟨執蔵 =   能—末那識
      所—阿頼耶識➡️執我義
 
🔷〈能蔵〉は〈阿頼耶識〉が、〈種子〉を保持する一面である。
阿頼耶識が種子を包み込み、その種子を保持し続ける面である。
包み込むのが阿頼耶識、包み込まれるのが種子ということになる。
 
🔶それを能(働きかける方)と所 (働きかけられ る方)とに分ければ、
🟨〈阿頼耶識〉が「能」、
🟨〈種子〉が「所」ということになる。 
 
🔶その面を〈能藏〉というのである。種子を保持するという面なので「持種の義」といわれる。
 
🔷〈所蔵〉は阿頼耶識が、今度は受け身に転じた一面である。
働きかける「能」の位置に立つのは、七転識(眼・耳・鼻・舌・身の前五識と意識・末那識)であり、 受け身の「所」の位置に立つのが阿頼耶識となる。
 
🔶つまり、具体的に様々の動きとして活動するのは〈転識〉であるが、転識はその動きをことごとく人格の深層に投げ込んでいく。
 
🔷つまり「能」の位置に立つ。
それに対して、阿頼耶識は転識より投げ込まれてくるものを受け止めるという位置に置かれるので、「所」ということになる。
 
🔶投げ込まれてくるのを〈種子〉といい、それを受入れ、人格の根底にとどめるのを〈熏習〉というので「受熏の義」という。
 
🔷〈執蔵〉は、執着される側面である。執着する、つまり「能」の位置に立つのは 〈第七末那識〉であり、執着される「所」の位置に立つのは〈阿頼耶識〉である。
 
🔶昨日の自分と今日の自分とは同一人物だと思っているし、子どもの頃の自分と今日の自分との間にさえ、変化を超えた統一的人格像をわれわれは無意識裡に確信しているものである。
 
🔷そういう人格の深いところにみられる人間の営みを、唯識佛教は、阿頼耶識(所)と末那識(能)との関係として捉えたのである。それが〈執蔵〉であり、したがって、それを「執我の義」という。
 
🔶能蔵・所蔵・執蔵、これが蔵の三義であり、それぞれに「能」 「所」を分析するが、その「能」「所」の関係の中身は違うのである。
 
🔷そして、この「蔵」の三義を見ると、阿頼耶識は「所」の性質の強いことがわかる。人間存在の根源にある受け身性がそこに見られるように思う。宗教とは、自己の底にある「所」の側面に開眼することではなかろうか。
 
✡️過去を背負える自己〖異熟〗
 
🔷〈阿頼耶識〉という第八識の一名の次に挙げられているのは〈異熟〉という別名である。
これは、人格の根底に「過去との関係」を発見したものである。 
 
🔶人は過去を切断して生きることはできない。何らかの意味で、過去を背負い、過去をひきずりながら、生きねばならない。その一面をとらえたものである。
 
🔷『述記』には「異類にして熟す」と定義されている。過去が性質を変えて、現在に成熟して顕現する、というのである。
 
🔶〈異熟〉という概念が難しく、よく「因是善悪・果是無記」という語が紹介される。
 
🔷善悪の人間の行為が原因となって、人の人格は形成されるが、その結果として結実した自己、つまり現在の自己は無記であるという。
 
🔶〈無記〉とは、非善非悪のことであるから、現在の自己は善悪のいずれでもないもの、というのである。
 
🔷人間の根底を善とすれば、なぜ悪があるのか、善の所にどのようにして悪が起きるのかという疑問が出る。
 
🔶逆に人間が根底的に悪とするならば、善の行為の根拠はどこに求められるのか。
 
🔷人間の転換や回心、あるいは転落の可能性を探す限り、無記という人間理解は論理的な整合性を持つ。無記だから、どちらをも含み 、どちらへもいけるのである。
 
🔶人間が、もし本来的に善・悪いずれかの性質のものとするならば、善・ 悪とか、流転・還滅という相互に矛盾する行為の根拠の理解ができなくなる点を指摘している。
 
🔷それは理論的整合性のみが理由ではなく、修道上の、この現実存在としての人の生命への深い省察が背後にあるようである。
 
🔶人は過去を背負いながら生きている。その過去とは、自分の過去であるが、過去との関係で第八識を捉える時、それを「異熟識」というのである。
 
✡️未来へ向けて〖一切種子識〗
 
🔷第三に挙げられているのは、未来との関係で捉えられた〈一切種子識〉である。「一切」という字をはずして「種子識」といわれることが多い。
 
🔶第八識は七転識から投げ込まれてくる種子を受け入れ保持する。
すなわち〈熏習〉する。熏習された種子は、縁に触れると具体化し て表面に現れる。すなわち「現行」する。
 
🔷われわれの全ての行為や思考は、ことごとく自分の奥深くに保持されている種子に起因する。
 
🔶われわれは、自分も自分の世界も皆、自分の中から創造するのである。
 
🔷そういう意味で、これは未来との関係ということができる。未来は、どこかから、誰かが運んでくるのではない。自分が自分の中から創り出すのである。
 
🔶第八識の
🟩阿頼耶識と呼ばれる一面
🟩異熟識と呼ばれる一面
🟩種子識と呼ばれる一面
この三面を、それぞれ第八識の「自相」「果相」「因相」といわれ、まとめて「三相」という。 
 
🔷「三相」は別々にあるのではなく、そこにあるのは統一体として生きる一人の人格の生存そのものである。それを仮に三面に開くのである。
 
🔶この三面を重ね合わすことによって浮き出てくるのは、現在の人間の経験構造である。
 
🔷人間は、それぞれ自分の過去を背負って生きている。これは否定できない。しかし、ではその過去の影響力は決定的絶対的なものではない。
 
🔶もし決定的絶対的であるとすると、自分の人生を主体的に創りあげるという一面が非常に弱くなる。
 
🔷過去に過誤を犯したものは、永久にそこを脱出できないことになる。
 
🔶運命論とか宿命論、あるいは決定論などと呼ばれるような、過去の影響力を無限に絶対視する見方に陥ることになる。そこを打開しなければならない。 
 
🔷その打開の鍵をにぎっているのが「自相」である。
 
🔶現在只今の経験、つまり現在の自分の行動によって、過去が転換できる、そのことを示唆するのが「自相」の経験構造である。
 
🔷過去の大きな影響力のもとにある自己が、現在の経験の力によって、それを継続もして、展開もして、また逆転もできなければならない。
 
🔶そうでなければ、人間が変わるとか、宗教的回心などの人間の転換が捉えられないことになる。
 
🔷その鍵になるのが「自相」=「阿頼耶識」=「蔵」などの教説である。「自相」のところを軸にして過去が変わり、現在の自分が変わるということは、未来との関係も変わることを意味する。 
 
🔶第八識の「三相」は、人格の転換という角度から捉えられた人間の真実である。
 
🔷では、その経験はどのような構造のものとして捉えられているのか。「唯識三十頌」 には詳しくは述べられていないが、経験は非常に重要な位置にある。
 
🔶そこで 『成唯識論』は相当の字数をさいて〈種子〉〈薫習〉論を展開する。 
 
🌟🟨『成唯識論』とは、インド大乗仏教の学者、護法らの著書で、唐代659年に玄奘によって漢訳された十巻で、世親の『唯識三十頌』に対する注釈。
 
🌟🟨『唯識三十頌』には、十大論師の注釈が存在したが、玄奘はその高弟の基(窺基(きき))の意見に基づき、そのいちいちを翻訳する代わりに、護法の学説を正義として、それを中心に他の論師の注釈を合わせて一本として、訳出したものが『成唯識論』である。
 しかし、その内容をみると、護法の学説をもって、一貫している。
 
🌟🟨『成唯識論』は、法相宗の根本典籍として中国、日本の仏教界において重要視され、広く読まれた。本書の注釈としては、基の著した『成唯識論述記』が基本的なものであり、その他、智周(ちしゅう)の『成唯識論演秘(えんぴ)』など、甚だ多くの解説書が存在する。
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