🟨②十住毘婆沙論【易行品】〖汝の説は寧弱怯劣・怯弱下劣で、丈夫志幹の説に非ず〗【令和5年11月02日】
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🟥https://youtu.be/4BDoBL8VOgI?si=S1xlOK5tp3O8SEKe
2️⃣🟥🟩〖レジメ資料〗
🟨【意訳】
◎十住毘婆娑(びばしゃ)論〖第五〗聖者・龍樹が造る・後秦の亀茲(きじ)国の三蔵・鳩摩羅什(くまらじゅう)が訳す
〖易行品【第九】〗
【途中から】
そこで、もし仏方が説かれた教えの中に、 易行の道で、速やかに不退の位に至ることの出来る方法があるならば、 どうか、 私のために説きたまえ。
【2】答えていう。 そなたの言葉は、弱々しく臆病であり、大いなる悟りを求める心が見られない。
雄々しく堅固な志を持つ者が言う言葉ではないのである。
なぜなら、もし人が願いを起こし、この上ない悟りを求めようと思うのであれば、不退転の位に至るまでの間は、身命を惜しまず、昼夜精進して、 ちょうど頭に付いた火を必死に払い消すように、命がけで、努め励まねばならないからである。
『助道(菩提資糧論) 』に、次のように示した通りである。
「まだ不退転の位に至ることが出来ない菩薩は、ちょうど頭についた火を必死で払い消すように、常に修行に勤め励み、自ら重い荷物を背負うようにしなければならない。
仏の悟りを求めるために、常に修行に努め励み、怠けおこたる心を起こさぬようにしなければならない。
声聞や縁覚の教えを求めるものであっても、ただ自らの利益を成就するために、常に修行に努め励まなければならない。
ましてや、菩薩が自ら悟りの世界へ渡り、また他の人々も渡そうとするならば、尚更のことである。
この声聞・縁覚の教えを求めるものよりも、菩薩は、何億倍も努め励まなければならない。
大乗を行ずる者について、釈尊は「発願して、仏果を求めることは、三千大千世界【大宇宙】を高く持ち挙げるよりも重いのだ!」と説かれている。
前に、不退転の位を得る法は、極めて難しいことであり、長い時間をかけなければならず、易行の道で、速やかに不退転の位に至ることは出来ないだろうかといった、そなたの言葉は、弱々しく、臆病な言葉であり、 堅固な志を持つ優れた者が言う言葉ではないのである。
それでもそなたが、何としても、その方法を聞きたいと願うならば、今、これを説こう。
【3】仏法には、量り知れない多くの門戸がある。たとえば、世間の道路に難しい道と易しい道とがあって、 陸路を歩いて行くのは、苦しい道であるが、 水路を船に乗って渡るのは、楽しい道である。
菩薩の道も、それと同じである。
あるいは、色々な行を積んで行くものもあり、
あるいは、信方便の易行をもって、速やかに不退転の位に至るものもある。
🟩【原文】
この故に、もし諸仏の所説に、易行道にして、疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願わくは、為にこれを説きたまえ、と。
【2】答へていわく、汝が所説の如きは、これ儜弱(ねいじゃく)怯劣(これつ)にして、大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。
何をもつての故に。
もし人、願を発して、阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、未だ阿惟越致を得ずは、その中間において、身命を惜しまず、昼夜精進して、頭燃を払うが如くすべし。
『助道』の中に説くが如し。
「菩薩、未だ阿惟越致地に至ることを得ずは、常に勤精進して、なお頭燃を払い、重担を荷負するが如くすべし。菩提を求むる為の故に、常に勤精進して、懈怠の心を生ぜざるべし。
声聞乗・辟支仏乗を求むるものの如きは、ただ己れの利を成ぜんが為にするも、常に勤精進すべし。
いかにいわんや、菩薩の自ら度し、また彼を度せんとするにおいてをや。この二乗の人よりも、億倍して精進すべし」と。
大乗を行ずるものには、仏は、是の如く説きたまへり。
「願を発して、仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。汝、阿惟越致地に至るこの法は、甚だ難し。久しくして即ち得べし。
もし易行道にして、疾く阿惟越致地に至ることを得るありや、というは、これ即ち、怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。
汝、もし必ずこの方便を聞かんと欲せば、今まさにこれを説くべし。
【3】仏法に無量の門あり。世間の道に、難あり易あり。陸道の歩行は即ち苦しく、水道の乗船は即ち楽しきが如し。
菩薩の道も、また是の如し。あるいは、勤行精進のものあり、あるいは、信方便易行をもつて、疾く阿惟越致に至るものあり。
🟩🌟「易行道というものは、易きを求める者には教えない。自分自身への絶望体験、挫折体験の無い者に易行道は教えない」というのが、龍樹菩薩の態度であると、
『正信偈講座』梯(かけはし)實圓(じつえん)先生の【著書】に以下のように書かれています。
🟦🟥【絶望からの易行道】〖p.148〗
「易行品」では、難行道のほかに何とか歓喜地へ到達できる易しい道はないか、という問いが出されます。それに対して、龍樹菩薩が答える訳です。
「丈夫志幹の言にあらず」(『註釈版聖典 (七祖篇)』四頁)と。
「そういうことは、一切の衆生を救済しようという誓いを建てた菩薩が言うべきことではない。
菩薩道を修行しようとする者は、三千大千世界を両手で支えるような想いで修行すべきなのだ。
それなのに、とても私には出来そうにないと、易行道を求めるなんてことは、仏道修行者の言うことではない!」
こう言って、一旦は退けてしまいます。
しかし、こんなにいわれても、「私はどうしようもない者でございます」という者がいるならば、 そういう道が無い訳ではない。道は必ずしも一つではない。
例えば、困難な陸路をテクテクと歩いて、目的地に到達することもある。これは難行道ですね。
また水路を大きな船に乗って、目的地に到達することもある。
つまり、みんな一緒に大きな船に乗って、歩く力が無いとか、身体が弱いとか、そういうことが全く邪魔にならないで、極めて速やかに目的地に到達できる道がある。
どうしても聞きたいというのだったら、説いてあげましょう、と言って、易行道を説くのです。
それは、一切の衆生を救済するために「我を信じ、我が名を称えよ」と言われた阿弥陀仏の本願を信じて、仰せのままに念仏していく道なのだ。
長い時間はかからない。もう残り僅かなこの一生。極めて速やかに、その本願を信じた即座に、阿弥陀仏の本願の船に乗せていただくのだから、即時に救いにあずかることができる。
決して退転することはない、不退転の道である。それが易行道だというのです。
🔷易行道というのは、ある意味で、難行道の落第生のために説く教えなのです。
しかし、落第生に説くのだからといって、つまらない教えなのではありません。
「大人志幹の説にあらず」(「註釈版聖典(七祖篇)』五頁)と叱られて「それなら、やります」という人は、難行道をやったらよい訳です。
🔶しかし叱られようと、蔑(さげす)まれようと「私はもう一歩も歩めません」という者が、やはりいるのです。
それで「どうしても聞きたいというならば」ということで易行道を教えていく訳です。
🔷だから、易行道というものは、易きを求める者には教えないのです。
🔶自分自身への絶望体験、挫折体験の無い者に易行道なんか教えないというのが、龍樹菩薩の態度なのです。
これは非常に厳しいあらわし方になっています。仏道を完成したいという思いだけはある。
けれども、自分の身心が及ばない。そういう者に、易行道を教える訳です。
【終了】
